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3 まだ涼しくないから、未涼



 木内くんとの出会いは、なんてことはない、高校生になりたての電車通学中のことだった。

 中学生まで一緒に登校していた多恵ちゃんは、高校からは体力作りの一環だとかで自転車通学を始めた。

 少し心細く思いながらも一人で電車通学していた私は、四月の中頃、電車を降りてすぐに声をかけられた。

 同じ学校の制服を着た、男子生徒に。


『しつけ糸、ついてるよ』と。


 最初は、なんのことだろうと首をかしげた。

 私にとってあまりなじみのある言葉ではなかったから。

 何も言えない私に、木内くんは自分の背中を見せながら、制服の裾を指さした。

 促されるように自分の制服の裾に触れて、私はようやく思い出した。

 この糸は切っておいてくださいね、と買うときに言われたことを。

 制服の型崩れを防ぐための、しつけ糸の存在を。


 背中側の裾にバッテンを描く糸を指に感じながら、私は穴に埋まりたい気持ちでいっぱいになった。

 まだ両手で数えられる日数しか着ていないとはいえ、その間ずっと気づかなかったなんて。

 登下校時も、学校でも、みんなに見られていたかもしれない。変に思われていたかもしれない。

 恥ずかしい。恥ずかしすぎて顔が上げられない。

 せっかく教えてくれた人に、お礼の一つも言うことができない。


 激しい羞恥心で涙がこぼれる一瞬前、彼はまた声をかけてくれた。

 その声は淡々としていたのに、どこか優しさを含んでいるように聞こえた。


『俺、はさみ持ってるから。切ろうか?』


 まるで天の助けのように思えた。

 どうして彼がはさみを持ち歩いているのかわからなかったけれど、そんなのは些細なことだ。

 大事なのは、糸をつけたまま学校に行かなくて済むということだけ。

 声にならない代わりに、私は赤ベコのように何度も勢いよくうなずいた。


 人波から外れて、ホームの端に移動してから、糸を切ってもらった。

 はい、と渡された糸は制服と同じ色をしていて、これならそこまで目立たなかったかもしれないと少しだけほっとした。

 目立たなかったからこそ今まで気づけなかったんだろうから、よかったのか悪かったのか判断は難しいところだ。

 ありがとうございます、と告げた私の声は小さすぎて、相手に届いたかどうかもわからない。

 そろそろと見上げた男子生徒は、声をかけてくれたときからずっと無表情だ。何を考えているのかわからないけれど、迷惑そうな顔をしないだけでとてもありがたかった。


 じゃあ、と男子生徒は何事もなかったように行ってしまった。

 行き先は同じ学校なのに、一緒に向かうという発想はないようだった。

 私としても、人見知りな上に羞恥心でいっぱいいっぱいになっていたために、一緒に登校したとしても会話の糸口を見つけることはできなかっただろう。

 それでも少しもったいないことをしたような気持ちになった理由は、今ならちゃんとわかる。

 彼に切ってもらったしつけ糸は、なんとなく捨てることができなくて、制服の胸ポケットにそっとしまった。


 学校についたらいつも通りの日常に戻った。

 でも、授業を受けたり、多恵ちゃんと一緒にお昼を食べたりしながら、朝の彼のことが頭を離れなかった。

 もう一度ちゃんとお礼をしたい、と強く思った。

 人付き合いの苦手な私にしてはめずらしく、自分から関わりたいと思った。

 彼にとってはそれほどのことじゃなかったかもしれない。明日にはもう忘れているかもしれない。お礼なんて逆に迷惑になるかもしれない。

 あれこれと思い悩みながらも、結局私は、お気に入りのケーキ屋さんのクッキーを買っていた。


 いつも同じ時間の電車に乗っているとも限らない。長期戦も覚悟していたのに、幸いなことに彼とは翌日早々に再会できた。

 大したことはしていない、と最初は固辞されたけれど、甘いものは嫌いじゃないらしいので半ば押しつけるようにしてクッキーを受け取ってもらった。

 聞けば、彼は毎日私と同じ時間に同じ車両に乗っていたらしい。

 まだ四月半ばで、電車通学自体にも慣れていない。同じ学校の制服を着た人が何人かいることくらいしか把握していなかった。

 それから、私たちは改めて名乗り合って、はじめましてをした。


『木内涼。草木の木に内側の内、涼しいの涼』


 名前の漢字を教えてもらったとき、私は思わず、あっと声を出してしまった。

 慌てて口を塞いでも意味はなく、木内くんは不可解そうにかすかに眉をひそめた。


『……何?』

『ご、ごめん。同じ字だなって、思って』


 それだけでは伝わらなかったようで、木内くんの表情は変わらない。

 私は奇妙な縁を感じながら、自分の名前の説明をした。


『私、宮山みややま未涼みすず。未満の未に、涼しいって字なの』

『その名前でその字は、ちょっとめずらしい気がする』

『うん、普通は美しい鈴とかだよね。でも、多恵ちゃん……友だちには、誕生日が覚えやすくていいねって言われた』

『誕生日?』

『九月なの。暦だと秋なのに、まだ涼しくないから、未涼』


 難読というわけでもないけれど、あまり見かけない名前。

 小学生のとき、自分の名前の由来を親に聞く授業があって、変な由来だとクラスメイトにからかわれたことがあった。

 そのとき、多恵ちゃんが今の言葉で反論してくれたのが、私はとてもうれしかった。

 だから、私は未涼という自分の名前をけっこう気に入っていた。


 自分から関わりたいと思った人の名前と、漢字が一緒だった。

 たったそれだけ、と言ってしまえばそれまでだ。同じなのは一文字だけで、読みだって違う。

 それでも私は、偶然の一致に妙に心が浮き立った。

 いつか、互いに名前を呼び合うようになる日が来たりするだろうかと、ほんの一瞬考えた。

 今思えば、あのときにはすでに淡い気持ちは生まれていたんだろう。


 それからは、電車が学校の最寄り駅に着くまでの20分間、ぽつぽつと世間話をする関係になった。

 私も木内くんも、元々あまり話すタイプではなかった。

 普段は聞き役に回ることの多い二人だったから、話していてもすごく盛り上がるということはなかったように思う。

 それでも、私の拙い会話のキャッチボールに、木内くんもちゃんと返球してくれた。


 私の趣味は読書とお菓子作り。はじめましての人に手作りクッキーは微妙だと思ってお店のものをお礼に渡したけれど、いつか食べてもらえたらいいなと思いながら話した。

 木内くんの趣味はパズルゲームで、アナログでもデジタルでもやっているらしい。黙々とジグソーパズルを完成させる姿が簡単に想像ついておもしろかった。

 本もそれなりに読むらしく、お互いのおすすめを紹介し合ったりもした。

 好きなアーティストがかぶっていたときは、以前CDを貸してくれてハマるきっかけになった多恵ちゃんに心底感謝した。

 はさみを持っていた謎もすぐに解決した。

 少し年の離れた弟と妹の面倒を見るときの癖で、木内くんのカバンの中には常備薬に絆創膏、ソーイングセットまで完備されていたのだ。そんな男子高校生はなかなかいないと思う。



 ひとつひとつ彼のことを教えてもらって、ひとつひとつ私のことを知ってもらって。

 毎朝の通学時間が、いつしかとても特別なものになっていた。







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