16話「チェックメイト」
邪悪な声があらゆる音を打ち消す。狩人に追い詰められた兎みたいな心地だ。死が間近まで迫っているんだ。
絶望的な現状に益々荒くなる息遣い。片眼に入ってきそうな汗を拭うことにさえ気が回らない。
だがそれは、僕が希望を捨てたからじゃない。勝ち筋に目を向けているからだ。
「さっき、頭が良い事に対する短所の話をしただろ?」
この期に及んで話を始めた僕に、律儀なイズさんは応えてくれる。
「……なに、また煽ろうとしているわけ?」
「いいや、違うね。訂正させてほしいんだ。僕はさっき嘘を吐いていたんだよ」
「嘘……?」
「そう、嘘さ。君の明晰な頭脳、その聡明さに付随する短所は、傲慢と慢心だ」
今の状況は君が作り出した物でも、自然にできた物でもない。この僕が誘導した、逆転のための一手である。
僕が壁伝いに逃げてきた理由。その内で最も大きなものは、ここに辿り着くためだ。箱の隅、舞台の角に行き着くのが、僕の目的だったんだよ。
「壁を背にしているだけなら百八十度を観察しなきゃならない。でも、ここでなら九十度だけで済む」
「ハッ。得意気に話し始めたと思ったら、そんなこと?」
「そんな事なのさ。次の攻撃で、僕は君の居場所を百パーセント突き止める。そして僕の呪文、コピーで、君の呪文を奪う。反撃の策って訳さ」
分かってる。彼女はすぐにでも僕を詰みに嵌めることができるんだ。
でも、イズさんはそうしない。できない。彼女は賢いけれど、それ以上の負けず嫌いだからだ。必ず僕の誘いに乗ってくる。
「……いいじゃない。面白そうだし、受けて立ってあげるわ。最期まで惨めに、負け犬として死にたいってことよね」
「言ったな。勇気ある挑戦を『無謀』と笑った奴ってのは、大抵の場合、何事もなく勝利できないんだぞ」
「下手なジンクスだわ。縁起に頼っている暇があるなら、辞世の句でも用意してなさい」
イズさんの声には自信しか無かった。彼女の目に映る未来は一つなんだ。有言実行をするつもりなんだ。この心の強さは敵に回すと厄介だな。
ここに来て、僕はようやく立ち上がる事ができる。怪しいダンスでも踊るみたいに両手を動かしてバランスをとった。
ふらついたまま、何とかして角を背にする。
頭がまたクラクラしてきたな。蒸し暑い空気と、背後から伝わる冷気が混ざりあって気持ち悪い。
「さあさあ、いよいよね。あんたに私の攻撃をかわす事は敵わないわ」
前方上空に数えきれない程の氷玉と炎の渦が作られる。それにより、彼女の潜伏している場所は限られたが、その前に攻撃の回避方法だろう。
イズさんは挑戦を受け入れた。壁や床からは攻撃してこない。僕の自尊心をズタズタにして、決着をつける気だ。
そして、僕にできる事はもう無い。やるべき事は全てやり尽くした。あとはあの氷の礫達が全部当たらないことを祈るだけだ。
正直なところ、滑る床については完全に予想外だった。だから対抗手段も持ってない。
僕の本来のプランでは、速攻でイズさんの姿を見つけて木に隠れ、どうにか被弾を免れるって感じだったんだが、これじゃどうしようもないな。
そういう訳で、残るは結果を待つだけだ。無駄な抵抗はしない。ただ祈るのみ。
「ここには既に、『チェックメイト』という状況が出来上がっているのよ!」
火炎達が堰を切ったように僕へ向かってきた。僕自身は勿論、移動可能な位置まで的確に狙っている。
駄目だ。このままじゃ間違いなく当たる。
顔面へ向かってくる氷の一つを見つめる。掠っただけで耳や鼻が吹き飛びそうな速さだ。
自分の死が脳裏をよぎった。手足がもげ、顔面を溶かされ、最終的にそこらの魔物達の餌になる。そして消化され、糞になってしまう。身の毛のよだつ末路だ。
だが、目は瞑らない。勇気だけは忘れない。
炎の渦の放つ熱が僕の髪をチリチリと鳴かせる。死が現実となるまで、もう一秒もかからないだろう。
時がゆっくりに感じだした。
走馬灯のような何かが僕の死を演出し始める。
昨日ぶりの『幸せになりなさい』警報が、頭の中に鳴り響いていた。
「しかし、それでも僕は殺されない」
氷の球体が届くまで残り三メートル程になった瞬間、僕の目の前に壁が現れた。人を覆い隠す程の、紫色の壁だ。盾と言ってもいい。
その盾や近くの壁、床に氷がぶつかり、激しい音が鳴る。盾の横から火の手が伸びてきて、高熱で僕の頬を撫でた。実にスリルのある状況だ。
「笑わせないでくれよ。我慢するのに苦労したじゃないか。相手の手駒を見誤っておいて、よく決め台詞を唱えられたものだ」
音が止んだ後、壁の陰から身を出す。今度は心底から出る余裕を湛えられた。
「何ですって……? 一体何が……」
「我らが賢者さんにも分かりやすいよう簡単に説明してあげるよ。この状況を作り上げたのは君じゃなくて、僕だ」
僕は仲間達に助けを求めた後、その場にネメスのワンピースを置いた。少し離れた場所にウィッチから借りていた鞄を投げ捨て、その次はジャージの上着を放っておいたんだ。
それからイズさんを怒らせ、近くの壁や木々に傷を付けながら進んできた。足跡をつけるように目印を残し続けてここまで来たんだ。
辿ってくる人がいるって信じていたから、あんな事をしていたんだよ。意味が無いように見えたのは君に友達がいないからさ。
「そして、勝つのも君じゃない。僕でもない。勝利を掴むのは、『僕達』なのさ!」
「お待たせしました! 勇者ネメス、ここに参上です!」
僕の隣に二人の少女が颯爽と登場した。
小さな勇者は紫色の弓矢を携え、赤毛の女性は氷の飛んできた方向に睨みを利かせている。
床はネメスの魔力が氷の上から薄く上書きしていた。僕の足元以外はほとんど紫だ。
乗ってみると、全く滑らない。普通に歩ける床だぞ。
イズさんの隠れている場所は判明した。彼女に魔力を消費させ、勝負に勝った。それにより、戦意も多少は削いだだろう。策は成ったんだ。仲間への祈りも届いた。
「よく耐えましたわね。流石は私の使い魔です」
「朝飯前さ。こっちも助かったよ。ありがとう、二人とも」
ネメスから呪文をコピーしながら、一歩を踏み出す。形勢逆転を宣告するため、枝葉の合間を指差した。
「『チェックメイト』だ。君は知らなかったろうけど、チェスは僕の方が上手いんだぜ」
とうとう姿を捉えたぞ、イズさん。




