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十七、止まった時間

 闇雲に走り、辿り着いたのは薄暗い路地だ。どこだっていい。人がいないところならどこでもよかった。


「はあっ――」


 呼吸は荒れ、息が苦しい。それなのに――


(静かなまま……) 


 当たり前だと自嘲気味に笑えば、また許可もしていないのに彼がその名を呼ぶ。


「メレディアナ!」


 急いで追いかけてくれたのかオルフェも息を乱していた。


(でも彼は、彼の胸は違う)


 どうして追って来たのかを考えて、すぐに答えにたどりつく。プレゼント選びはまだ途中、役目を放棄したいい加減な相手を追い掛けるなんて人が好いのか。


「ったく、足の速い奴だな。どうした? らしくないぜ」


「貴方に何が分かるのよ」


 こんな、八つ当たりのような言葉を吐くつもりはなかった。


「ごめんなさい。ただの八つ当たりだわ」


「いい。俺は何か癇に障ることをしたか?」


「いいわけないわよ。貴方は何も悪くない。ただ……少し驚いただけなの」


 放っておけばまた逃走するだろうと腕を掴まれる。それは手袋をした方の手だ。


「悪かった。俺のせいで嫌な思いをさせたんだろ」


 勝手に動揺して逃げ出したのはメレ。けれどオルフェは責めるどころか自分のせいだと言いだす。


「……今更ね。出会った瞬間から嫌な思いをさせられているのだから、その後の一つや二つ、どうということもないわ」


「強がるな」


 気にすることはないと好意で言い放った言葉は一蹴される。それは彼の優しさだ。強がりをやめたらどうなるのか、甘い誘惑がメレを侵食していく。

 触れるラーシェルの手は熱く心地良い。


「わたくし……」


 二人の間を雨粒が隔てた。


(何を言おうとした?)


 もはや自分でもわからない。ただ必死にオルフェリゼ・イヴァンはランプを奪った憎い相手、ただの人間にすぎないと警告していた。

 雨は互いを隔てる壁のよう。立ち尽くしていれば涙のように伝い、雫が冷静さを連れてくる。

 雨音は次第に強くなりオルフェは彼を呼んだ。


「ラーシェル、彼女に傘を」


「必要ないわ。貴方が使って。わたくしは雨に打たれたい気分なの」


 頭を冷やそう。


「風邪引くぞ」


「引かないわよ」


「体、こんなに冷えてるだろ」


 オルフェが頬に触れている。氷のような冷たさに眉をしかめた。


「触らないほうがいいわよ。貴方まで冷えてしまうから」


 メレは逃げなかった。


(きっと彼はどこまででも追ってくる。たとえわたくしがどこに逃げようと、閉じこもろうと無駄なことね)


 だから不毛な争いを続ける元気もない。

 諦めたメレは困ったように笑う。頬に触れていたラーシェルの手を掴み自らの左胸に導いた。


「メレディアナ?」


 オルフェは困惑しているだろう。


 全力で走って、感情を顕わにして――

 それなのに怖ろしいほどの静寂は生きていることを疑わせる。


「わたくしの時間は止まっているの。温かくはならない、静かなまま。こんなの、死んでいるのと同じね」


 老いない体はまるで人形、あるいは魔の者か。

 この身に熱があったなら――

 メレにとって単なる劇中の台詞では済まされない。


『貴女は良いですね。いつまでも若く美しいままで』

 悲しげに呟く弟の顔には深い皺が刻まれていた。老いない姉に対する妬み、異質な存在に対する怖れが宿る眼差しを受けて、メレは何も言い返せなかった。


「怖がらせて悪かったわね」


 オルフェからは何の感情も読み取れない。憐れんでいるのか畏怖しているのか、僅かに揺れた蒼は何を語るだろう。


(また同じことを言われたら……)


 沈黙に耐え切れず逃げたのはメレだ。


「なあにその顔、同情でもした? いいわよ、同情するならランプを寄こしなさい」


「俺はただ――っておい、待てよ!」


 聞きたくないとメレは拘束から逃げた。


「待てですって? 犬ではないの、貴方の命令に従う義理もない。そんなに引き止めたければラーシェルに願えばいいことよ」


「そんなことしたって何の解決にもならないだろ!」


 オルフェが再びメレの腕を掴む。手袋を忘れた手は、やはり生きているのか疑うほど冷え切っていた。


「わたくしを哀れだと思う気持ちが少しでもあるのなら、今は放っておいて。頭を冷やすから。……お願い」


 冷静でいられなかった。彼の口から自分を怖れるような発言が飛び出したら――

 拒絶されるのはもうたくさん。ただ拒まれるのが嫌なわけじゃない。それがオルフェだから、彼ならどんな自分でも対等でいてくれると勝手に期待を押しつけてしまった。そんな自己嫌悪もメレの感情を暗くさせていた。

 離れていく温もりに背を向ける。オルフェは追ってこなかった。

 それで良い。これ以上そばにいたら惨めになるだけだ。


 後悔したことはない。


『もしかして僕の声、聞こえます? 僕が見えるんですか!?』


 彼女と出会って魔女の存在を知った。彼女と出会ったことが運命だというのなら、運命に感謝する。

 亡き両親から託された領地、病気がちな弟――たった一人の家族。いずれもただのメレディアナには守れなかった。

 魔女と呼ばれ、恐れられても構わない。

 市販の薬では治らない弟のため、独自に薬の研究を始めた。研究の産物か、化粧水や魔法薬まで生み出していた。

 魔女の世界で名を馳せ、彼女の紹介で本物にも弟子入りした。 

 大切なものを守るためなら、体の時が止まっても構わない。それは十九歳のことだった。

 後悔したことはない。でも……

 魔女になっても悲しみは感じる。いっそ心まで凍ってしまえば良かったのに。


 行くあてもなく雨の中を彷徨う。そうして感情的になって逃げ出したことを恥じている最中だ。次に会ったら素直に謝ろうと心に決めた。尤もオルフェが逃げ出さずに次があればの話だが。たとえ怖れられても全力でランプは取り戻すし、むしろ恐怖心を利用してやろうと考えられるほどには復活していた。

 どれくらい歩いたのだろう。自己嫌悪に陥っていると傘が差しだされる。オルフェの差し金か。もしそうなら謝罪をと顔を上げ、想像もしていなかった相手に目を見張る。


「シューミット様?」


 エセル・シューミット、侯爵家の長男。無理やり植えつけられた情報が再生される。そうでなくとも先日のパーティーで延々と話し込まされた相手だ忘れようがない。


「こんなに酷い雨の中を、傘も差さずにどうしました?」


 心配そうに傘の中へ招き入れられる。


「ありがとうございます。急な雨でしたから、用意していなかったもので」


 苦笑して誤魔化せばエセルはその言葉を信じた。


「確かに、災難でしたね。よければ自宅までお送りします」


「どうかお気になさらずに。お心遣い感謝致しますが、手間をかけさせるつもりはありません。家も近くですから」


 身を引こうとした途端、肩を抱き寄せられる。


「ああ、濡れますよ! そうもいきません。親友の恋人に風邪を引かせては僕が怒られてしまう」


 丁寧に断りを入れていたメレの顔が固まったのは文脈がおかしいからだ。


「……誰が、誰の恋人ですって?」


「ですから、あなたがオルフェの恋人だと」


 どうやら決定的に意見が食い違っている。


「大いなる誤解が生じているようですが」


「そう、ですか? 先日のパーティーでは、やけに親密な雰囲気でしたので、てっきり……」


 物は言いようだ。親密というよりは秘密を共有しているだけである。


「大変失礼しました。勘違いとは、お恥ずかしい限りですね。夜会はあなたの噂でもちきりでしたから、僕も気になってしまって」


「新参者のわたくしがよほど珍しかっただけですわ」


「とんでもない。僕も貴女に心を奪われた一人ですから」


(いえ、貴方婚約者がいるでしょうに)


「どうか見送りを許可していただけませんか?」


 さほど遠い距離でもない。ここまで言われては折れるべきかとメレは諦めた。

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