6.屋上にて1
◆
放課後を告げるチャイムが鳴った。
「ふあ~あ・・・・・・」
長い長い一日をなんとか乗り切り、盛大に欠伸をする。
やはり一睡もしないままで授業を受けるのはなかなかに辛いものがある。
僕は眠い目をこすりながら、教室の窓から外を見渡した。
校庭では学課から早々に開放された生徒達が部活動の準備を始めていた。
まばらだった生徒達の声も次第にざわめきに変わり、活気のある掛け声も混じってくる。
これが、夜になればあの静謐な空間に変わるなんてとても想像出来ない。
まるで学校がまるごと異世界に飛ばされた様だった。
それくらい、昨日の夜の出来事は僕にとって現実感の無いものだったのだ。
「・・・・・・。」
僕は昨日の夜の出来事を思い出す。
僕は月姫を目撃したという噂を聞きつけて、十六夜と共に夜の学校に侵入した。
そして・・・・・・事実、僕はそこで月姫を見つけた。
しかし・・・・・・しかし。
それは手放しで喜べる状況ではなかったのだ。
月姫は自分が人間では無くなったと言った。
幽霊になったのだと。
・・・・・・それは、実質的に月姫が死んだ事を示唆していた。
それでも・・・・・・それでも、僕のこの体質なら。
たとえ幽霊であっても、一緒に暮らせると思った。
彼女が見えて、触れることが出来て、会話する事が出来るのならば、普通の人間と同じだろう、と。
でも、その考えさえ否定された。
彼女は言った。
自分は学校の怪談そのものになったのだと・・・・・・そう言ったのだ。
本当の意味でそれが何を意味するのか、昨日の混乱した僕の頭では理解する事が出来なかった。
分かったのは月姫が学校から動く事が出来ないという事。
そして、いつでも現われる事が出来るわけではないらしいという事。
つまり月姫とは・・・・・・一緒に暮らす事さえ、出来なくなったのだ。
「さて・・・・・・と。」
僕はおもむろに席を立つと、部活動や帰りの準備をしているクラスメイト達を尻目に教室を出た。
向かう先はいつもの屋上だ。
昨日、月姫とは放課後に屋上で会う約束をして別れた。
あそこなら人目を気にせず月姫と会話が出来る。
・・・・・・もっとも、まだ明るいうちから月姫に会う事が出来るのならば、だが。
僕は屋上に続く非常扉の前まで来ると、周囲に人目が無いことを確認してからそれを開けた。
非常扉の先にある外付け階段を、外から見られないように身を屈めて上り、屋上へと出る。
日は傾きかけていたが、まだ夕方と言うには早い時間。
眼下の校庭からは、部活動の掛け声が聞こえてくる。
やはりと言うべきか。
月姫の姿はそこには無かった。
「・・・・・・。」
僕は、ふぅ、と一つため息を吐いた。
期待はずれで落ち込み半分、やはりかと納得半分。
昼間から簡単に会えるようならば、昨日の夜を待たずして僕と月姫はとっくに再会していただろう。
そうならなかったのは、やはり月姫の存在が夜限定だからだ。
少し低い位置にある太陽は、それでも未だ熱量を持って肌を焼いてくる。
視線をめぐらせると、屋上の正規の出入り口となる構造物が目に付いた。
ただ校舎内へ続く階段があるだけの四角いコンクリートの塊は、しかし僕一人が入るには十分な日陰を作っている。
僕はその出入り口の影に腰を下ろすと、そのまま大の字に寝転がった。
少しだけくすんだ青空とコンクリートの壁が視界に広がる。
長い間日陰になっていたのか、背中に伝わる固い感触のコンクリートからは思ったほどの熱を感じない。
むしろ少し冷たいくらいだ。
時折吹く風は生ぬるいが、それと相殺して比較的過ごし易い温度を作り出す。
「あ~、目が回る・・・・・・」
思った以上に間抜けな声が出た。
単に寝不足のためか、それとも考え事が多すぎて本当に目を回しているのか。
昨夜の無理が祟っているのは間違いない。
視界が安定せず、平衡感覚が曖昧だ。
少し気持ち悪くなって、目を閉じる。
視界を失う代わりに、周囲の音が浮かび上がる。
聞こえてくるのはセミの鳴き声。そしてそれをBGMにした部活動をする生徒達の掛け声。さらに遠くからは吹奏楽部の、まだ少し不恰好な楽器の音色が聞こえる。その中に時々ホイッスルの音が混じる。
そして時折風が吹くと、それらを覆い隠すように、ザァッという葉擦れの音が辺りを覆う。
そんな音の中にありながら無音のままの屋上は、ある種、現実世界から切り離されているように思えた。
ザワザワと賑やかな下界。その頭上に、何の支えも無くポツンと浮かぶコンクリートで出来た庭園を幻視する。
もっとも、理由も無く浮かんでいるというなら、後は落ちるのが道理だ。
突然の浮遊感と共に落下する。
落ちていく、落ちていく、落ちていく。
いつの間にか下界の喧騒は消え、ただ暗いだけの世界に落ちていく。
足掻いても、もう遅い。
人間に翼は無く、その落下には抗えない。
僕は無力なまま暗闇の中へと──
「先輩。」
突然耳元で呼ばれ、目を覚ました。
この場所で落下などするはずもなく、背中にはやはり硬いコンクリートの感触。
しかし目を開けた先に広がるはずの青空と四角い構造物は既に無く、代わりにそこにあったのは僕を覗き込む十六夜の顔だった。
「・・・・・・!?」
思わず固まる。
十六夜のそれほど長くは無い髪が頬をくすぐっている。
その距離で、僕と十六夜は瞬きもせずに見つめ合った。
こいつ睫長いなぁとか、しょうもない感想が頭をよぎっていく。
・・・・・・数秒か、それとも数十秒か。
いずれにせよそう長くはなく、けれど僕にとっては十分に長すぎる時間が過ぎ、十六夜はそっと顔を離した。
「先輩、大丈夫ですか?凄いうなされてましたけど。」
「え?あ、ああ・・・・・・。」
寝起きの頭と気恥ずかしさでしどろもどろに返事をする。
鼓動がうるさい。あたかも頭痛で頭を押さえるように、赤くなった顔を両手で覆う。
「・・・・・・ちょっと変な夢を見てたんだ。たぶん、そのせいだと思う。」
気付けば、シャツは汗でじっとりと湿っていた。
もし体を横たえていたコンクリートの地面を見返せば、人型の染みになっているだろう。
「そうなんですか。でも、こんなところで寝たら風邪引きますよ?夏だとは言っても、夕方以降は冷え込みますから。」
見れば、まだ青かった空はすっかり茜色へと変わっていた。
校庭から聞こえていた部活の掛け声も、今はまばらになっている。
少し目を閉じた程度のつもりが、ずいぶんと長い間眠ってしまっていたらしい。
「起こしてくれてありがとう。危うく寝過ごす所だった。」
僕は服についたゴミを払い落としながら立ち上がった。
固まった体をほぐすように、グッと伸びをする。
「・・・・・・で、十六夜は屋上なんかに来て、今日はどうしたの?」
「『どうしたんだ』って・・・・・・酷いです。せっかく心配して様子を見に来たのに。」
そう言って、十六夜は拗ねたように唇を尖らす。
可愛らしい仕草だが、彼女にしては何やら本気で怒っている気配がある。
「昨日も私を置いて行っちゃうし・・・・・・。」
「う・・・・・・、それは、その・・・・・・ごめん。」
昨日、月姫を見つけた僕は十六夜を置き去りにしてしまった。
取り残された十六夜は、あの後ずっと僕を探し回っていたらしい。
結局、彼女と合流できたのは、月姫との話が終わった後。日付が変わってしばらくのことだった。
その後はろくに彼女へのフォローも出来ずに、そのまま別れて帰宅したのだった。
「ごめん・・・・・・。昨日は僕も気が動転してて。いきなり月姫が現われたものだから・・・・・・。」
謝りつつもついつい言い訳がましくなってしまう。
そんな僕を見て、十六夜は一転して申し訳無さそうに顔を伏せた。
「・・・・・・ごめんなさい。そうですよね。久々の再会ですもんね。私も、冗談が過ぎました。」
「え・・・・・・いや、あの・・・・・・良いんだ。悪いのは僕なんだから。」
僕と同じ体質を持つ十六夜にとって、夜の校舎に一人取り残される恐怖は普通の人間の比では無かっただろう。
彼女が僕に怒るのは当然だ。
それでもなお、僕の心情を汲み取ろうとする彼女に少々うろたえる。
「それで、今日は月姫さんとは会えたんですか?」
そんな僕の様子を気遣ってか。
月姫はそんな事を聞いてきた。
「いや、あいつ、どうも夜しか現われないみたいだ。屋上で会う約束をしたんだけど、現われなかった。」
僕はその問いに乗って、素直に首を横に振る。
「そうですか・・・・・・。」
十六夜は僅かに俯いて言う。
もう少しで山並みに沈もうとしている夕日が彼女の顔に影を落とす。
こうやって他人が落ち込んでいる時、それに共感できるのが彼女の良いところだろう。
ここ数ヶ月、そんな彼女の在り方に何度救われたか分からない。
「あの、先輩。私、何て言ったら良いか分からないですけど、月姫さんの事は――。」
「ううん。良いんだ。」
十六夜が何を言わんとしているかは、その表情から分かった。
僕はその言葉を遮って言う。
「僕だって月姫がああなっている事は覚悟していたし。それに、僕なら今の月姫でも見えて、触れて、話も出来るから。そんなに落ち込んで無いよ。」
少しわざとらし過ぎたかもしれない。それでも僕は十六夜に微笑んだ。
もちろん、そんな言葉は全て嘘だ。けれど、僕はこれ以上、十六夜に心配をかけたくなかった。
そんな僕を見て、十六夜はまだ困った顔をしていたけれど、それ以上は何も言わなかった。