11.欠落、或いは
これは、夢だ。
真っ先に浮かんだのはそんな言葉だった。
「ユウ……ユウ、聞こえる?」
轟々と燃え上がる炎と、黒々した煙が視界の半分以上を埋めている。
残りは何かと言われれば、目の前に居る姉の顔だけ。
血だらけで、火傷が浮かび、涙で歪んだ姉の顔だけ。
「聞こえるなら頷いて。何でもいいから、お願い」
何故そんな表情を浮かべているのか、夢に居る俺には思い出せない。
だが、頷けと言っているのだ。姉の言う通りにするのが正解なのだろう。
混濁し、ふわふわと曖昧になった思考は姉の命令を忠実に実行した。
「良かった……まだ自意識はあるわね。
でも、とても薄い……いつ消えても、おかしく――ごほっ!」
顔を歪め、咳き込む姉。
びちゃりと俺の顔に暖かいものが張り付いたのが判る。
「あは、真っ赤……ゴメンね。口に当てる手も、動かなくて」
言われてみれば、姉の左腕は見るも無残に捩じれ、骨が突き出て原型が判らないような有様だった。
右腕は俺の背に添えられているから、俺の顔に何かが吐きかけられたとしても、それは咎める事はできないだろう。
謝る必要はない。つまり、彼女の謝罪を否定すべきだ。
否定。
つまり……つまり、否定とはなんだっただろうか。
判らない。
「お互い、時間が無い……ね。本当に、ゴメン」
時間が無いのか。それは何に対してだろう。
疑問が浮かぶが、それに対してリアクションするより先によろよろと立ち上がった彼女が俺の身体を引きずり歩き出した。
その歩みは酷く遅い。
人ひとりを引きずりながら、満身創痍の身体を推して歩んでいるからだろう。
左腕だけではない。彼女の左足さえ歪に変形していた。
「だい、じょうぶ。お姉ちゃんが、ユウだけは、護る、から」
ずり、ずり……
夥しい量の血を、移動の痕跡として残しながら俺たちは進んだ。
無限にも感じられる復路の無い旅路。
時間の感覚も曖昧になった俺には、僅かな間でしかなかった。
辿り着いた場所は、やはり炎と煙で埋められている。
だが、ある一角だけはまだ火の手が回らず、やや煤で汚れるにとどめていた。
「よか、った。かたほう、は、無事、だ」
気が付けば姉の顔色は青く、そして呼吸は荒く乱れていた。
一言に言えば、死相が出ていた。
ともすれば、瞬きの間に横たわっているかもしれない程に。
彼女は気力でその生命を繋ぎとめている。
そして、彼女に生きる活力を与えているものは、その視線の先にあった。
培養液に満たされた、薄緑色のカプセル。2mほどの円筒形をしたそれは、2つ並んでいる。いや、並んでいた。
左側のカプセルは、崩落した天井によって砕け、緑色の培養液と何者かの血が混じったものが垂れ流しになっていた。隙間からは、恐らく下敷きになったであろう者の手が投げ出されている。
無事なカプセルには、一人の女性が目を閉じたまま浮かんでいる。
綺麗な生まれたままの裸身は、今にも死にそうな姉とうり二つであった。
「私の身体、だけど……しかた、ない、ね?」
そのカプセルが何か、俺は知識を持っている。
〈銀化〉対策として打ち立てられた、"人造体"の試作品だ。
試作として、俺と姉のクローンを作っていた。無残に下敷きになっているほうが、俺のカプセルだろう。
これは欠点だらけであった。
〈魂〉が消失した人間を救済する事が目的である。その為には、退避先の肉体には何物にも染まらない〈魂〉がある程度満たされた状態でなければいけない。
そこに色のついた〈魂〉を移動させ、残りをその色へ染める。そうすることで〈魂〉の補強を成すはずだった。
だが、どうやっても無色の〈魂〉を満たした状態で生み出すことは出来なかったのだ。〈器〉が空では意味がない。
〈自立型人形〉製造のように、確固たる"自身"を持つ極小の〈魂〉を生み出すことは出来なくも無かったが、それではまた意味がない。仮に生み出したとしても人形と勝手が異なり直ぐに〈魂〉が無くなって〈空人〉となってしまった。
生み、すぐ殺すというあまりの冒涜さに、俺も姉もその時点で〈魂〉を内蔵した人間を造りだすことは諦めていた。
とはいえ、ここまで完成してしまった技術を、ただ腐らせるのは惜しかった。
俺はここで、違う切り口による運用法を考えたのだ。
肉体に何かあった時の予備として機能はするのか。
それを調査する為に、造るだけ造ったのが、この2体だ。
それも結局、無理があってここに安置されることになった。
〈魂〉の移動時にそれなりの量が欠落してしまうのがひとつ。
もうひとつは、肉体が損壊し死に至る直前の人間では……〈魂〉を移動させても、すぐに屍になってしまうだろうことがわかった。
〈魂〉と〈命〉は別である、という確認が取れただけ成果があったと言えるだろう。
「だけど……〈命〉を失いかけている、私、と……。
〈魂〉を失いかけている、ユウ。
二人、を……この〈人造体〉へ、封入すれ、ば……」
姉が、半ば虚ろな目になって呟く。
なるほど。その手は無くも無い。
いやに淡泊になった俺の心は、機械的に考える。
二人が身体へ収まった場合、〈魂〉の衝突が起こりどうなるか全く想像がつかない。最悪、二人とも共倒れだろう。
だが、すぐ〈命〉を喪失するであろう姉の〈魂〉は、封入後に無色に戻る。
〈命〉はあっても〈魂〉が欠落した俺が、その無色の〈魂〉を取り込むことはきっと可能だ。
もちろん、中古の〈魂〉だ。なにがしかの弊害は当然出るだろうし、危険と判っていたからやらなかった手法だ。
事ここに至り、選択肢の無くなった今では、十分"有り"な選択ではある。
「きっと、ユウは……恨む、よね。
いっしょに、死ぬほうが、本望だとか……言いそうだ」
ぎこちなく笑みを浮かべた彼女は、カプセルへ寄りかかるように俺を座らせる。
「でも……この、私の我儘で……始まった、ことは。
私の、我儘で、終わるの」
横合いから俺の上に座るように寄りかかる姉。
自然、整った……整っていたであろう血に穢れた彼女の顔が視界いっぱいに広がる。
わかって、しまった。
その顔色で。表情で。透けて見える、死相で。
ああ……彼女だけは、助からない。
「生きて」
短く。
だが、重く。
自分たちの半生全てが圧し掛かってくるような、言葉。
姉は弟の額に口付けを落とす。
血化粧の口紅が額へ残った事だろう。
重なり合った肌が、冷たい感触が、彼女との別れを連想させる。
唇が離れていく。
彼女は、もう死ぬ。残る力を〈魔法〉の行使に費やせば、永久の別れになるだろう。
まるで微動だにしなかった俺の〈魂〉が、ようやく動いた。
重く閉ざされていた口を開き、喉を震わせる。
俺の……密かに満たされていた俺の願望。
それが失われていく事を実感して、初めて我儘を言葉にした。
「独りは嫌だ、姉さん」
死にゆく姉に言う事ではないだろう。
死別が嫌なら、姉に死ぬなと願うべきだ。
けれど、口をついて出たのは自分のこと。
姉でなくてもいい。兎に角、独りになるのだけは、耐えられない。
孤独は俺を殺すだろう。
それが判っていたから、恋人が出来た身である姉も、俺の傍に居た。
仕方のない子だと笑いながら。
「『我ら、輪廻の輪を乱す者。世の理に逆らう者。今、反逆の時来たれり』」
彼女は笑った。
仕方のない子だと……笑うように。
別れの詩を謡いながら、残った右手で俺の頬を撫でる。
大丈夫だよ、ずっと一緒だ。
そんな言葉が浮いてくる。
姉の手から伝わる想い。
いや、もう既に俺と彼女の混じりあいが始まっているのか。
「――」
もう音も聞こえない。彼女が謡う〈魔法〉の締めくくりも、良く聞こえない。
ずるりと肉体から抜け出す感覚。
姉の精神体に手をひかれ、カプセルに横たわるもう一つの肉体へと向かっていく。
定着に時間は必要としなかった。
気が付けばそれは己の肉体になっていた。
目を開くと同時、培養液が排水され、カプセルが口を開く。
身体を動かす不自由はない。
関節が固いとか、筋力が無いとか、そんな些細なミスを俺はしない。
目覚めた瞬間から全力疾走だって可能な身体だ。
しかしズタズタの俺の心との食い違いに、カプセルから歩み出て一歩で崩れ落ちた。
目の前には、重なるように息絶えた死体が二つ。
一方は虚ろな表情で目を開いて死に。
一方は満足げな表情で目を閉じて死んでいた。
「あ、ああ……」
震える手で自分を抱く。
内側に残る姉が"死んでいく"のが判ってしまった。
"私"はこの事を悲しい事だと思わない。
だが、"俺"は悲しいと思ってしまっている。
心が裂けてしまいそうだ。
きっと"私"はこの肉体に残るだろう。
でもその"私"は"わたし"ではない。
紛れもない"あなた"である。
だからしっかり。
"私"は"俺"を励ます。
二重人格のほうが余程整理がついている。
俺は笑い飛ばそうとして、失敗した。
ぼろぼろと零れる涙が、止められない。これまで喪失していた感情が、"私"という存在に満たされたことで湧き出てきた。
悲しい、切ない、つらい、苦しい。
「あ……ああぁ……!」
声帯が変わっていて、上手く声が出ない。
押しつぶされたような慟哭だけが喉から溢れる。
"私"を自覚したことで、姉はもういないのだと理解してしまったが故に。
かなしい、という感情を、止めることが出来ない。
「ああああああ……!!」
周囲が燃え、崩れていることなど気にもならない。
このまま死んでしまえば楽になれるだろう。
だが、確かな〈魔力〉と確固たる〈魂〉を得たこの肉体が火災や崩落程度で死にはしない。
楽にはなれない。
でもそれでいい。それは、"私"の最後の我儘だから。
生きて、生きて、それから死ぬ。
そう決めた。
だから、今は精一杯泣こう。居なくなった、姉の為に。
周りを気にせず心のままに泣けることに――俺は、少しだけ感謝した。
唐突に目が覚めた。
視界いっぱいに広がる顔。
姉、ではない。銀髪、銀眼。つい最近拾ってきた迷い子。
死相より余程質の悪い硝子細工の顔つきでありながら、芯のある心を持つ少女。
「ユキ」
俺はベッドで寝ていた。
彼女は俺の手を握り、半ば馬乗りになるように上に乗って俺を見ている。
「何やってんだ、お前」
呆れながら身を起こそうとして、ギシリと痛む身体に小さく悲鳴を上げてベッドに沈む。
思い出した。手痛い傷を負って寝ていたんだ。
「おい、どいてくれ。起きるに起きれない」
彼女がどけば、ゆっくり身を起こせるだろう。
だが、彼女は俺の要求をまるっと無視して違う言葉を返してきた。
「ユウ。泣いてる」
「え?」
言われて、親指で目じりをなぞると……確かに濡れていた。
何の夢を見ていたか、はっきりとは思い出せないが、何かは想像がついた。
最近は見ることがなくなっていたのに、どうしたことか。
シュウと再会してセンチになっていたのだろうか。
「かなしい?」
「かなしい、な。でも、かなしいばかりじゃないんだ」
「どうして?」
「どうして……か」
ユキは縋るような眼を俺に向ける。
捨てられた猫のようだ。表情が動かないくせに、相変わらず瞳は多弁である。
ああ……そうか。
彼女もまた、独りが辛いのかもしれない。
俺がそうだったように。
だからだろうか。
普段やらないであろう行動に俺は出ていた。
「――とりあえず、今目の前にお前が居るから、ってのはどうだ」
繋いだままの手をくいと引き彼女を俺の上に引き倒す。
服越しに伝わる熱は確かなもので、安心と温もりを俺に与えてくれる。
「お前どうだ?」
手を繋いでいてくれたからだろう。
俺は穏やかな気持ちで、あの夢を経ても沈むことなく起き上がれた。
伝わる温もりが、俺を孤独にはしなかった。
ただ、彼女ぐらい凍り付いてしまっていると、手を繋いだぐらいでは駄目だろう。身体全身で相手を感じて、ようやく伝わる。
だから、そのまま抱き込んで背中をぽんぽんと叩く。
独りじゃない。
俺の〈魂〉は癒えた今でもズタズタだ。だが、その事実だけは俺の心を少しばかり支えてくれていた。
「判らない。でも、良い匂いがする」
「なんだよ、それ」
俺は声を上げて笑い、彼女は優しい瞳を俺に向けた。
じわじわとブックマーク数が増えていることにひっそり喜びを覚えている今日この頃です。
筆が乗らなければ明日も一日開けるかもしれません。