二
カラの弁当箱を鞄に収めふうっと息をついた彬は、「これで文句ねぇだろ」と秀行を見据えた。
「それで? なんだって?」
少々呆れ気味の表情を浮かべた秀行が、窓の外の景色から彬へと視線を戻す。それにチッと小さく舌打ちした彬は、身を乗り出して喚くように言い放った。
「だぁからー、お前の幼馴染かなんかで、死んだ女の子がいねぇかって訊いてんだ」
少しばかり背を仰け反らせた秀行の眉が、ツイと寄せられる。
――意味が、解らない。
朝会った時の開口一番からして、この台詞だったのだ。
「何故、そんな事を訊くんだ?」
しつこく繰り返される質問に辟易しながら、秀行は机についた手で顎を支えた。
「お前変だろ、今朝からさ」
そんな子はいないと言えば、「そんな筈はない」と言い寄られ、理由を訊けば、黙りこくる。
黙ったかと思えば、睨みつけるようにジッと自分の肩辺りを見つめるのだ。その挙句に、「やっぱり、視えねぇーッ」と頭を抱えて大騒ぎを始める始末……。
コツ、コツ、と指先で机を小突きながら、フーッと大きな溜め息を吐く。探るような視線を彬に向けた秀行は、やはり昨日一緒に行くべきだったかなと心密かに後悔していた。
どう考えても、相沢に何かを吹き込まれたとしか思えない。
昨日も相沢に手を掴まれただけで、誰だかの声が聴こえたなどと、訳の解らない事を言って騒いでいたのだ。それに加えて今朝からのこの態度。
――取り敢えず。高橋が相沢みたいになったら嫌だなぁ。
虚ろな瞳で彬を見つめながら、そんな事をぼんやりと考える。
あんな、死んだ魚みたいな目で俺を見て、「濡れた女の人を背負ってるね」などと言われた日には、きっと笑顔で対処なんて出来ないだろう。「目を覚ませ!」と一発おみまいするか、すぐにその場で友情が決裂するか。
そのどちらかに違いない。
「仕方がない」と溜め息一つ吐いた秀行は、本格的に彬がおかしくなった原因を探る事にした。
「本当に死んだ女友達なんていないんだ。学校の違う幼馴染の女ならいるが、あいつは生きてるし」
「マジで? おっかしいなぁー。ゼッテーいる筈なんだよ。十年は前に死んでるらしいから、もしかしたら、お前が忘れちまってるのかも」
「俺がぁ?」
不満を含んだ声で訊き返した秀行は、「勘弁してくれ」と頭を振った。
これでも、記憶力には人並み以上の自信を持っている。例え幼稚園の頃の話であろうが、友達が一人死んでそれを忘れてしまうような、錆付いた頭は持ち合わせていなかった。
椅子の背に背中を預けた秀行は腕を組み、チロリと責めるような視線を彬に向けた。
「悪いけど、それは望み薄だな。でも、もう少し詳しく話してくれないと、思い出しようもない。そのお前が言うその女の子、本当に俺の友達か? 名前はなんて言うんだ?」
「……さあ?」
カクリと首を傾げる彬に、眉を顰めて身を乗り出す。
「そもそも、誰からの情報だ? 俺の記憶より、そいつの情報の方が信頼出来るとでも言うのか?」
低く、責める口調で言う。すると今度は、彬が身を引いた。「うーん」と唸りながら窓の外を眺めたかと思うと、彬は真っ直ぐに顔を戻してはっきりと頷いてみせた。
「ああ、俺はそう思ってる」
「それで? 誰の情報?」
「相沢隆哉」
――やっぱり。
予想通りの答えに、視線を逸らし嘆息する。
いつの間に、これ程の信頼を置くようになったのか。確か昨日の時点では、お世辞にも『仲の良いオトモダチ』、には見えなかったぞ。
腕を組み考え込んだ秀行を前に、懲りない彬は「あっ」と思いついたように声をあげ、彼を指差した。
「じゃあさ、今までの友達で死んだヤツは? 勿論、男も含めて」
「いない」
厳しい声で断言する秀行に、彬が「困ったな」と顔を顰める。
「どうしてお前は、そんなに俺の友達を殺したいワケ?」
呆れた声を出すと、彬は不満げに目を剥いた。
「なっ…! 人聞きのワリィ事言うな。言っとくけど俺はなぁ」
バンッと机を叩いて腰を浮かした彬は、ガリガリと頭を掻いて、再び体を投げ出すように椅子へと座り直した。
「ま、それはどーでもいいや。問題は、その子の事をお前が思い出せないってトコにあるんだから」
一向に進まない話に、いい加減ウンザリする。
「それなら」
上目遣いで彬を見据えると、秀行はズイと体を乗り出し低い声を出した。
「例えば俺が、『そんな女の子がいたな』という答えをお前に返したとしたら、どーいう事になるんだ?」
一瞬おかしな顔で絶句して、彬がカクリカクリと首を傾げてゆく。
「そ、うだなぁ。その子がやりたがってた事とかがないか、お前に思い出してもらう……かなぁ」
「何故?」
「それはだなぁ」
天井を仰いだ彬は、言い渋るように唸り声をあげた。
「――それよりお前さぁ、幽霊って信じてるか?」
フイッと顔を戻して真顔になると、彬は試すような瞳を秀行へと向けた。
その答え如何によっては『本当の事』は言えないぞ、とその瞳が脅しかけている。
「まあ。幽霊は信じないけど、お前の事は信じてるよ」
秀行は肩を竦めながらも、一応の誠意が伝わるよう、彬の視線を真っ直ぐ受け止めて答えた。
ここでいい加減な答えを出す訳にはいかない。そんな事をしようモノなら、彬はヘソを曲げてしまうだろう。
正直言って、これ以上回りくどくなるのはご免だった。
思った通りこの答えは目の前にいる友人のツボを突いたようで、彬はニヤリと笑うと満足げに頷いた。
「よし。上等」
ビッと親指を突き立て、上機嫌で説明を始める。
「その、十年以上前に死んだ女の子さ、お前に取り憑いてるらしいんだ。なんでかお前に執着してるらしい。相沢の話を聞く限りじゃ、どうも『友達』ってのにこだわってるようだから、その子にとってお前は『特別な友達』なのかもしれない」
「特別な友達?」
疑り深い声で彬の言葉を繰り返した秀行は、等閑な態度で机に頬杖をつき「それで?」と先を促した。
「だって、俺考えたんだけどさ。四、五歳くらいの子供なら、普通友達より家族の方に執着しねぇ? それこそ、母親とかさ。それなのにその子は、お前に取り憑いてんだぜ。親兄弟じゃなく、友達のお前にさ」
「……何故なんだ?」
「な? ってなんだろ?」
ズイと顔を寄せ人差し指を振った彬は、したり顔で「だからだなぁ」と言葉を続けた。
「お前に執着する理由があるとすれば、単純に考えて答えは二つ。『兄弟同然な程仲がよかった』か、『お前と何かやりたい事があった』かだ」
「だから」
「まあ聞けって。お前に心当たりがないって事は、勿論一つ目は消える訳だ。二つ目も、まあ条件付きでって感じで残るな。お前が俺の事を信じてくれるのと同様、俺もお前の記憶力を信じてるから、お前の知らないところで死んでる可能性が高いと思う」
意外と物事を考えてる友人を目の前に、秀行は「へぇ」と感心の声をあげた。
普段は能天気な彬がここまで頭を使っているとなると、『幽霊に取り憑かれている』という秀行にとっては馬鹿馬鹿しいとしか言えない話も、本人は至極真剣に取り組んでいるらしかった。
「でも。四、五歳くらいの時の友達だろ? 幼稚園の頃を含めたにしても、人数は限られてくる。その上、そこまで仲良くなった女の子で死んだ可能性のある子なんて……」
彬の真剣さに、秀行も真面目に昔を思い出そうと頭を捻る。しかしどう考えてみても、それに該当する女の子などいはしなかった。
「例えば、なんか約束したまま引っ越して行った子がいるとか」
「いいや」
「親の知り合いの子供かなんかで、昔はよく遊びに来てたけどその後音信不通になった子がいるとか」
「いないな」
「そうなると。話は更にややこしくなんだよなぁ」
「え?」
眉間に人差し指をあてた彬は、「むー」と唸りながら顔を顰めた。
「つまり。お前の知らないトコで、相手が勝手にお前を『特別な友達』と思ってる可能性があるって事だ」
「…………」
怪訝な顔の秀行にニンマリと笑ってみせて、彬は窓の外に視線を移した。
「でも、もしそうならさ。ほんと、些細な事だと思うんだ。彼女がお前に執着した理由って。それこそ、お前が忘れちまうぐらいの、ちっぽけなさ。例えば、たまたま行った公園でそこにいたその子と一日だけ二人で遊んで、それがえらく楽しかったとかさ。何気に言った「またね」ってお前の言葉を信じてるとか。田舎に帰った時か旅行の時に、現地の子とそん時だけ仲良くなって、お前にとってはそれだけの事だったんだけど、その子はお前がまた来てくれると思ってた……とか」
「そんな事で?」
非難めいた秀行の言葉に額に手をあてた彬は、ハハッと笑って前髪をかき上げた。
「ちょっと、思い込み強過ぎか。――でもさ、健気じゃねぇ? そんな、人が簡単に忘れちまうような思い出を大事にして、ずっとお前に憑いてるならさ」
「でも、憶測にすぎないんだろ」
「ま、ね」
今までより少しトーンの下がった声で応じて、彬は頬杖をついた。暫く俯き加減のまま無言でいた彬は、独り言のように言葉を紡いだ。
「上手く言えないけど、でもこれって少し嬉しい事だよな。光栄っていうかさ。他にもそいつを取り巻く人間はいっぱいいただろうに、そん中から自分を選んでくれたんだぜ。『想いを遺す相手』としてさ。――応えてやんなきゃって、思うよな」
ぼんやりと呟く彬は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
それに対し不満げな表情を浮かべた秀行が、やれやれと肩を竦めてみせる。
「自分で言うのもなんだけど、俺がそんな叶いもしない約束をするとも思えないな。仮に、高橋の言う『勝手に特別な友達説』が正しいとして、それなら尚更その子の情報が欲しい。せめて容姿だけでもさ」
「うーん。相沢が言うには、俺にはその子の姿、視える筈なんだ。その子の望みも、聴ける筈だって」
チロリ、と。言葉と共に向けられた上目遣いの視線を受けて、秀行は溜め息混じりに背筋を伸ばした。
「どうぞ。好きに視てくれ。立った方がいいとか、後ろ向いた方がいいとか、指示があるんなら、その通りにするけど?」
その秀行を恨めしそうな瞳で見つめた彬は、呻き声と共に両手で頭を抱え込み、机に突っ伏した。
「そぉーれが出来ねぇから、困ってんだろぉーッ!」
「……は?」
眉を寄せる秀行にジロリと目だけを覗かせると、彬はその瞳とは裏腹に、情けない声で秀行に告げた。
「俺にはその子、白い影にしか視えねぇんだもん」