届かなかった願い
振り返るといつも一番初めに浮かぶのは、あの狭い畳の部屋だった。
これから先何があろうと、あの頃のことを『いい思い出』などにできそうもない。何年経ったとて、決して。
アルコールの臭いが充満して、吐きそうだった。
苦しくて、辛くて、逃げ出したくて――でも唯一、オレが帰ることのできる場所だった。
幼いオレにとっては、あんなところでも世界の総てだったのだ。他の多くの幼い子供にとってもそうであるのと同じように。
「おい、龍之介。酒買ってこい」
父親は呑んだくれのDV男。
母親は、当然だろうがそんな父親の顔色を窺ってばかり。夫の逆鱗に触れないようにじっと息を潜め、自分の存在を消しながら、そしてオレにも消させながら毎日を生きていた。
それでも彼女は母親だった。オレに対する理不尽には、どうにかして抗おうとしてくれたのだ。
「あ、あなた……その子には、まだお酒は買えないわ……私が行ってくるから……」
オレに逃げるように目で促し、震えた声ながらもそう紡ぐ。
「あぁ……?」
それなのにオレは弱虫で。どうしようもなく弱くて。
母親が懸命に守ろうとしてくれているのに、守ってくれているのに、そこから逃げることも母親を庇うこともできなかった。
「調子に乗ってんじゃねえぞてめえ!!」
母親の悲鳴や殴打音が耳を通り抜けていくのを感じながら、ガチガチと歯を鳴らすだけで動けない。分かりやすく言えば、腰を抜かしていたのだろう。
血が舞う。悲鳴が断続的に鼓膜を揺らす。
そんな環境で、狂わないはずがなかった。狂っていった。
ただし、真っ先に狂ってしまったのはオレじゃない。
オレが小学生に上がった年の冬になって、しばらくしてからだっただろうか。彼女が徐々に、おかしくなっていったのは。
「おかあさん?」
父親は相変わらずの呑んだくれのまま、働きもせずに食事と酒と煙草を消費していくだけの日々。それだけならまだしも、ギャンブルに溺れ、勝ち負けにより機嫌が変動して母やオレを怯えさせた。
一家の収入を支えていたのは母のパートだけで、家計は火の車だった。
そんな状況じゃ、彼女はオレどころか自分の身なりにすら気を遣う余裕などなく。
母もオレも、ぐちゃぐちゃに汚れた部屋の中、薄汚れた格好で毎日を生きていた。
当然、友人などできるはずもない。いつだっていじめの対象だった。「汚い」「寄るな」「バイキン気持ち悪い」その他にも諸々、刃のような言葉を投げつけられるのが常。
そんな学校に通うのは苦痛でしかなかったけれど、行きたくないと言えば母が悲しむ気がして、言えなかった。
その日は確か早帰りの日だった。
「おかあさん?」
今にも崩れそうなボロアパートに帰ったら、休みだと聞いていたはずの母の姿が見えない。
父もパチンコに行ったかそれとも競馬に行ったかでいなかったが、狭い家だ、すぐに彼女は風呂場で見つかった。
稼いだ金はほぼ全て父に奪われてしまうため、水は止められて久しい。それは幼いオレでも知っていたので、「なぜ風呂場?」と首を傾げたことをよく覚えている。
「おかあさん?」
駆け寄ると、母は虚ろな目でどことも分からぬ場所を見ていた。
「おかあさん!? おかあさん!!」
オレはそれにひどく不安になって、繰り返し彼女の肩を揺さぶった。それにすら反応は薄くて、もしかすると具合が悪いのだろうかと不安になりかけた時。
「……っあ」
小さな声が母の唇から漏れ出た。
「おかあさん!」
「龍之介……」
言ったのは互いにほぼ同時。それまで空虚だった彼女の瞳は、いつものように怯えとオレへの優しさを孕みながらこちらへと向けられた。
「だいじょうぶ? ぐあいわるいの?」
心配になっていたオレは彼女に懸命に話しかけ、不安に思いながら尋ねる。母はそれに微笑み、「大丈夫よ」と頭を撫でてくれた。
「ごめんね。ぼうっとしていたのよ」
そのまま彼女に抱きしめられてほっとしてしまったから、その時のオレは気づくことができなかったのだ。彼女が何を思い、どうしてあんな場所にいたのか。何をしようとしていたのかを。
この日を境に彼女は少しずつ、しかし確実に狂い始めていた。
どうしてその予兆を感じることができなかったのかと、今でもよく後悔する。
その日から、約1年後――凍えるほど寒い日だったと記憶している。
父親は日増しにギャンブルと酒への依存を強め、明らかに病的なまでになっていて、『その時』も酒がないと知った父がいつも通りに暴れていた。
だがその暴力の向かう先はいつも通りではなく、オレだった。
パートで稼いだお金の総てを父親に持っていかれる前に、と考えたようで、母は日持ちのする食料を買いに外出していたのだ。父がいなかったからこそ踏み切れたのだろう。
オレも『その時』の直前までは学校に行っていたし、帰ってきたときには母の書き置きがあったから、さほど不安になることもなかった。
小さなちゃぶ台に勉強道具を広げて宿題に取りかかろうとしていたら、ガチャリ、とドアが音を立てる。母かと思い勢いよく振り返ったオレは――そこに父の姿を認めて、愕然とした。
逃げようにも全身に震えが襲って動けない。彼は少しふらついた足を引きずるようにしながらこちらに近づいてくる。
「おい、クソガキ……酒はどこだぁ……?」
怯えて立つこともできず、畳に尻をつけたまま後じさりするだけのオレ。そんな様子に苛立ったのか、父親は思い切りちゃぶ台を蹴り上げた。
「どこだっつってんだよ!! 言葉も分かんねえのかこのウスノロが!!」
ばらばらと降ってくる教科書やノート、筆記用具たち。新しいものなんてなかなか買えないためにだいぶ短くなった鉛筆や小さくなった消しゴムを、父の大きな足が容赦なく蹂躙する。ぼろぼろのノートがぐしゃりと無残な音を立てた。
「やめて、やめてよおとうさん……おさけなんてしらないよ……うあっ!」
懸命にその足をどかして鉛筆と消しゴムを助け出そうと前屈みになると、その腹を彼は容赦なく再び蹴り上げる。痛みに転がり咳き込んで嘔吐いたが、その間も父の蹴りは絶え間なく飛んできた。
痛まない場所などないというほど断続的に振るわれる暴力に、オレはただ泣き叫ぶことしかできなくて。
「この、クソガキ!! あいつそっくりの顔しやがって!! 酒も煙草も寄越さねぇ、ろくに金も稼げやしねぇあの愚図女そのものだ!!」
父親はオレをどかどかと蹴りつけながら唾を飛ばして怒鳴る。
優しく、このごみ溜めのような場所で懸命にオレを育ててくれている母を侮辱する言葉を聞いて、さすがのオレも我慢ができなかった。
「おかあさんのわるくちいうな!! おとうさんのほうがずっとずっとバカでひどいだろ!!」
口にしてしまってから、しいんと静まり返る部屋。
しまった、とすぐさま後悔した。
不気味なほどの静寂は、父の怒りが爆発する数秒前、嵐の前の静けさだったのだ。
彼の顔がみるみる真っ赤になっていったのが見えれば、これからどうなるのかを想像するのなど容易い。
「こんの……クソガキィ!! もっかい言ってみろてめえ!!」
今までで一番の威力があるだろう蹴りがオレの体に命中しようとした、その時だ。
「りゅ、龍之介ッ……!? あなたやめて!!」
ドアの開く音とともに、そんな金切り声が聞こえた。
「おか、さ……」
恐怖に震えながらもその人の呼び名を紡ぐ。
だが父親は、その声に反応して数瞬動きを止めただけだった。
炸裂した蹴りがオレの体を吹き飛ばし、軽い体は強く壁に激突。オレは体験したことのないほど強烈な痛みに声を出すこともできず、重力に従って床に転がった。
それがスイッチだった。
完全なる崩壊へ向けて、父が無意識に、母の背をとんっと押したのだ。
そう、とても、分かりやすく。
「い、やああああああぁぁああぁぁぁ!!!!」
朦朧とする意識の中、母が狂ったように叫ぶのが見える。それも、全然止まる様子がない。
さすがの父もこれには度肝を抜かれたようで、目を剥いて呆けたように母を見ていた。
「おか、あ、さん……おかあさん……」
動くことも嫌になるくらいの痛みを無視し、そんな母を見たくなくて、彼女の元まで匍匐前進で進む。
その間も、悲鳴とも叫び声とも呼び難い声は止まることを知らなかった。
「おかあさん!」
どうにか立ち上がって彼女を揺さぶると、唐突に叫びは止まる。
だけど現実は、安心しかかったオレを嘲笑ったのだった。
「あははははははは!!」
叫び声だったとき以上に狂ったように、彼女は笑った。
いや、『嗤った』。
狂おしく。そして同時に、馬鹿みたいに明るく。
いつも何かに怯えたようで、優しい笑みもいつも無理をしているような控えめなもので、こんな姿は一度も見たことのないものだった。
「お、かあさん……?」
こうして嗤うこの人が、自分の大好きな母だということが信じられなかった。それ以上に信じたくなくて、震える声で呼ぶ。
「お母さん? お母さん!」
こっちを見て。返事をして。願いながら何度も何度も声が枯れそうなぐらいに繰り返し怒鳴って、揺さぶって、見上げた。
だけど母がオレを見ることはない。
父は相も変わらず圧倒されたように呆けたままだ。
魂が抜けたような父と、ただひたすら笑い転げる母と、そんな母を揺さぶるオレ。端から見たら異様な光景でしかないが、その時間も間もなく終わった。彼女がまたも唐突にぴたりと笑い止むことによって。
ようやくオレを見た目は楽しげで、澄んでいて、だが同時に背筋がぞくりとするくらいに真っ暗だった。
言葉が出ないオレに母はにこりと笑い、言い放つ。オレがこの先、生涯忘れ得ぬだろう言葉を。
「あら坊や、あなただあれ?」
少女のように無邪気な口調、言葉、態度。
彼女はもはや、オレの知る彼女ではなくなっていたのだ。母でも、あのろくでなしのような父の妻でも、誰でもない。
簡単なこと。母は狂ってしまっていた。シュリとは方向性が違いつつも、同じようにとても分かりやすく。
それからの出来事はとても簡単で呆気ない。
オレたち家族の異常さに気づいたらしい近所の人たちが警察に通報し、オレや母は病院に運ばれた。
父は虐待とか母に対する暴行とかの罪で捕まったけれど、結局アル中で病院送り。
文章にすればそんな数行で済んでしまうような結末。
彼も母も、病院の中から出してもらうことは恐らく一生ない。
オレはその後しばらく経って退院し、母の従妹夫婦に引き取られた。
やはりというか何というか、幸せや救いを求めていったはずのその場所は、また別種の地獄であったのだけれど。
● ● ●
ぽつぽつと過去を語る間、シュリは何も訊いてはこなかった。
時折、「うん」とか、相槌を打つだけ。ただひたすら、オレをぎゅうっと抱きしめていただけ。
両親と別れ、親戚に引き取られたという事実。誰にも話したことのないことを話そうとすると、言葉が上手く出てこない。
これから先のことなんて取り立てて話すのに迷うこともないくらい薄く簡単な内容だと分かっているのに、唇の動きは勝手に止まる。
頭が勝手に痛みを思い起こして、止まらない。
なんて弱いのだろう。あの頃からちっとも何も変わっていないじゃないか。
自嘲の笑みがこぼれ落ちる。
彼女は急かすこと求めることもしない。オレの意思を最大限に尊重してくれているからだと、考えるまでもなく分かった。
頬を撫でる手はオレを落ち着かせるかのように酷く優しかった。
背中を押されたかのように、どうにか声を振り絞る。
「それからは、簡単すぎるくらいに簡単だよ」
あの頃から笑えないと確信した。どんな楽しいことや嬉しいこと、面白いことがあったとしても、オレは絶対に心から笑える日などないと。
「雪玉が坂を転げ落ちて膨らんでくような……いや、下手するともっと簡単だったかもしれない」
嘲る笑みは止まらない。
自嘲だけじゃない、あの人たちに覚えた虚無感への空笑いも多分に含まれている。
「あの家にも、子供がいた。しかも生まれたばっかりの、本当に乳飲み子って言ってもいいような。だから、オレに構ってる暇なんてなかったんだよ」
むしろ、邪魔で仕方がない存在だっただろう。引き取られた最初から、可愛がられた記憶は一切ない。
成長していく再従弟を可愛がり、あたたかく見守る従叔母夫婦。
「今度こそ、『普通』が欲しくて。でもそれは……無いものねだりでしかなかった」
声が震えるが、もうこれ以上恥ずかしいところを晒したくはない。出てきそうになる涙をぐっとこらえた。
「こっちを見てほしくて。愛してはくれなくても、せめて好きになってほしくて。無駄だって分かってるのに、『お手伝い』に没頭した」
こうすれば褒めてくれるではないかという期待があった。笑ってくれるのではないかと。
事実、彼女たちは笑ってくれた。
――ありがとう。
そう言って頭を撫でてくれた。表面上でしかなかったけれど。
――何かしら、これ。ご機嫌取りのつもり? それとも私に対する当てつけ?
部屋の前を偶然通りかかろうとして聞いてしまった声。
どうして?
愛してなんてくれなくていい。そんなの無理だって、最初から分かっている。
オレはただ、好きになってほしかっただけなのに。たったそれだけのことなのに。それさえ、この人は叶えてくれないのか。それを願う方が誤りだというのか。
痛いよ。
「――何でなんだろうな。馬鹿みたいだって、どうせ無理だって、知ってるのに。それでもやめられなかった。求めた。居場所が欲しくて、手伝い続けた。それがますますあの人たちを辟易させてるとも知らないで」
オレが何かをするたび、『親代わり』のあの人の表情はどんどんと作り笑顔へと変わった。
それに気づかないふり、鈍いふりを続ける生活を7年、歯を食いしばってどうにか維持した。
だけどオレはもう、疲れ切っていた。
「逃げたくて逃げたくて。もうここに一瞬だっているのが辛くて。だから、全寮制の高校を目指した。なかなか帰ってこられないような遠方の。奨学金の準備までしてさ」
シュリの腕の力が増す。
「……そこまでしたのに、あの日……」
久々に口を開いた彼女の声は掠れていた。
「……うん。この時期にはまず見ないほどの雪が降って、そもそも受験に行けなかった」
昔から運という運に見放されていたオレ。
母親の気は狂い、父親はアル中で、養父母たちには嫌われて。とうとう逃げ出せると思った地獄からも上手く抜けられないで。
神様とやらがもしもいるのならば、彼はどれだけの不幸をオレに背負わせたいのだろう。人生において幸と不幸はプラマイゼロだとよく聞くけれど、オレはそんなのハナから信じていない。だったらこれからオレの人生はこれからいいこと尽くめでなければおかしい。
だけど、さっそくこんなふうに不幸に襲われているではないか。
誘拐、拉致監禁。その末に養父母たちからは金と引き替えに見捨てられた。
でもそれはもういい。自分自身に不幸せを呼ぶのはもう慣れてしまった。
だから神様、お願いです。不幸になるのはオレだけでいいから。もうそれで充分だろう?
だから、震える腕で俺を抱きしめるこの子には、もっと幸せを。
本当にお人好しだなと自分でも思うし、自分は被害者で相手は犯罪者だという事実は揺るがないのに、願ってしまう。
幸せに。どうか幸せに――せめてこの子だけでも。
偽善者だと思われてもいい。オレには手に入れられなかったものを、同じような痛みを抱えるこの子には、手に入れさせてあげてください。
「あいちゃん……?」
「ん?」
「ぼくの幸せなんていいんだよ」
「え?」
シュリの強い力が痛いほどに加わる。
「ぼくの幸せなんていいの。ここで、あいちゃんの幸せを見つけてくれればいいの。ぼくと一緒にいて、その中に幸せを見つけてくれればいいの!」
言っているうちにヒートアップしてきたのか、声がどんどんと大きくなる。
どうしてオレの考えていることが分かったのだろう?
しかし、ただひとつだけ分かったことがある。
シュリは傷ついていた。オレが思い描いた言葉で、深く深く傷ついたのだ。
それは彼女の顔を見れば一発で、きっと馬鹿でも分かるはず。悔しそうに唇を噛みしめ、ひたすらにオレを抱きすくめる様子を見れば。
「シュリ……?」
どうしたのか訊こうと思ったのに、彼女は頑なに顔を隠してオレに見せようとしない。
「見ないで」
震えた声でそんなふうに呟いたりするから、オレは何も言えずにそっと力を返した。
「頑張ったね……あいちゃん。もう、泣いていいんだよ」
自分の声の方がずっとずっと泣きそうなくせに。
「何言ってんだよ」
「引いたりしないから。辛かったんでしょう?苦しかったのも、ちょっと聞いただけだって分かる。分かるの……」
自分の方がずっとずっと泣きたいくせに。
「泣いていいんだよ……」
手も声も、泣きそうな幼子みたいに震えているくせに。
そんなシュリが「泣いていい」だなんて、おかしなものだ。
でも、オレだって同じだった。
「素直に、一緒に泣いてって言えばいいだろ――」
どうにか笑みの形を唇で作りながらも、声はもう、平常通りなんて無理だった。半ば涙声で、彼女を抱きとめる腕だって力を懸命に込めているくらいで。
「泣きたくなんかないもん……」
シュリも今のオレと同じような状態だった。
「嘘つきだな」
「嘘なんかついてないよ」
「それも嘘」
「…………あいちゃんの意地悪」
ぼろぼろぼろぼろ、二人して涙をこぼしながらもオレは笑っていた。
笑っていたんだ、確かに。二度と無理だと思っていたのに、心から。
シュリが何を思っていたのかに気づきもせず、オレだけが癒されていた。
彼女はちゃんとSOSを出してくれていたのに、助けられてばっかりで気づいてやれなかった。だからオレは愚かだというのだけど。
「あいちゃんだけは、助けるから。絶対に助けるから。何を引き替えにしてでも」
彼女の言葉の真意に気付けなかったオレは、どこまでも。