傷口の一致
期待なんてやめてしまえ。そんなものしたところで無駄なんだ。何度も何度も自分で言い聞かせてきたくせに、結局諦められなかった。
あの人たちがオレを見ることなど絶対にありえないんだって、知っていたはずなのに。
「あいちゃん……?」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。分からないし、分かりたくもなかった。
「あいちゃん?」
呼び声にすら顔を上げられない。
シュリがオレの前に座ったのが視界に入り、ようやくそちらに視線だけは遣ることができた。
「どうしたの?」
彼女に随分と心配そうな表情をされているということは、それだけ今のオレが腑抜けているということなのだろう。
ふ、と笑みが漏れた。
くだらない。本当にこの世の中の何もかも、くだらないと思う。
「――――オレは世界に見捨てられたんだよ。永遠に」
何とも子供っぽくて芝居がかっている言葉。でも事実だ。
誰もが普通に息をしているはずのこの世界、オレを受け入れることはない。
え? と戸惑う彼女にもお構いなしにくつくつと笑う。
シュリのように分かりやすく狂ってしまえたら、どれだけ楽だったのだろうか。でもオレには無理だった。じわじわと蝕まれるようにゆっくりと狂っていくことしか、きっとできない。
「オレの存在、全く認められてなかった。7年、一緒にいたのに。馬鹿みてえ……」
あの後、そうしなければならない義務でもあったのか、後藤は知っていること総てを教えてくれた。オレを憐れむような目で見ながらも。
――お嬢さまの存在は、ごくごく一部にしか知られておりません。それなのにお嬢様はここに貴方を連れてこられた。そこで代表はお考えになったようです。
――貴方は未成年。行方不明となって、捜索願のひとつでも出されては大騒ぎになる。そのような状況は阻止するため、私に命じて、提出する恐れがあるだろう保護者の方に連絡を取らせました。充分な金額と引き換えに、あなたの身柄をこちら預かりにさせてほしいとお願いするためです。
後藤は、その金額がいったいどれぐらいになるのかは言わなかった。でも、それはそれは相当なものなのだろう。
オレはその大金と引き換えに、人身御供となったのだ。
心配されるどころか犯罪者の元に差し出されるという、オレを打ちのめすには威力がありすぎるほどの事実。
「オレは金で売られた。厄介者扱いされてるのは知ってた。知ってたけど、そこまでなんて考えもしてなかった」
何と甘い。あの人たちにとってオレは重荷で、苦痛で、いない方がいい存在だったのだというのに。
そんなオレがいなくなる上、大金まで手に入る。飛びつかないはずはない、と断言できる。
そもそも、「保護者に連絡を取った」と言われた時点でそれくらい分かりそうなものだ。
「……泣いてるの?」
頭を抱え込むようにして抱きすくめられる。抵抗はできない。もうオレが抗う理由なんて、どこにもなくなった。金のなる木と化したオレの利用価値は、「ここから出ないこと」。どうにか脱出したところで、帰る場所はすでに存在しない。
違う、そうじゃない。最初からありはしなかったのだ。
目を逸らしていただけ。気づきたくなかっただけ。分かっているのに、勝手に頬を伝う雫が腹立たしくなってくる。
「言ったでしょう?」
優しく髪を梳く手。返事をしないオレを一向に気にすることなく、シュリは穏やかに続ける。
「ここには誰も、君を傷つけるような人はいないよ、って」
確かにこの耳ではっきりと聞いた。でも、そんなもの。
「……信じられるかよ……」
「信じてくれなくてもそれが事実」
更に強く抱きしめてくる腕の力を感じながら、オレは何を考えているのだろう、と自分に呆れ返る。これは決して持ってはいけない感情だったのに。
そう、決して。
だっておかしいだろう? この腕を、彼女の穏やかな熱を――手放したくないと思っているなんて。
「大丈夫だよ……」
オレの思考が分かっているのか何なのか、ただただそれだけをくり返し言い、撫でる。彼女の体温を心地いいと感じている時点で、完全にオレは末期だ。
「何でお前は、そんなふうにいられるわけ……?」
親から見放され、こうして牢獄のように造られている家のことにもめげることなしに、彼女は笑っている。
オレにはそんなふうになることなど無理だ。期待して期待して、裏切られて、一方では絶望しているのに。それでもなお、まだ可能性が残っているのではないか、なんて足掻こうとしている。
「わたしはこれでいいんだよう。こうしかどうせ生きられない。初めから知ってるの」
諦めているとでも言いたいのだろうが、そんなふうにはとても思えない。
「……お前、嘘つきだよな」
掻き抱くようにしてぎゅっとオレの腕の中に引っ張り込むと、驚いたのか彼女の体がびくりと震えた。
「あいちゃん……?」
酷く驚いたようなのは、ここに閉じ込められてから誘われもせずに自分から触れるなんて初めてだったからだろう。
「苦しいよ……」
言いながらもオレを突き放そうとはしない彼女を、手放したくない。このままでいたい。
それはオレが彼女を求めているからなのか、それともただ、自分が大切にしていたものが独り善がりだと知った寂しさを埋めたいだけなのか、分かりはしなかったが。
涙はいつの間にか止まっていた。
「どうしたの?」
相変わらずぎゅうっと抱きしめるオレに、ほんの少し戸惑っているシュリ。構わず、しっかり抱きしめる。
オレの鼓動と、シュリの鼓動しか聞こえない。世界はそれで収束している。これほど安心することはなかった。
何かを恐れているのは察しているのか、それとも諦めたのか、シュリはオレを振りほどかないでいてくれる。優しく髪を撫でるから、さらさらと頬をかすめてくすぐったい。
「……辛いことが、あったんだね」
聞こえなくてもいいのかというほど小さな声を、少し前までなら拒絶していたかもしれない。お前に何が分かるんだ、って。
でも、今となってはそんなことできない。彼女の抱えている痛みとオレの抱えている痛みが近いものであると、知ってしまったから。
「……辛いって、言えなかった?」
まっすぐに、どこまでもまっすぐに、ただ問う声。
「…………うん……」
たった二文字だ。その『たった二文字』を紡ぎ出すためだけに、それこそ1日分の労力を使った気がする。
手も、声も、震えていた。
何と格好悪いザマだろう。
彼女は幻滅するだろうか。でも、それでも、
「辛いなんて……思いたくなかったんだ……」
怖くて怖くて仕方がないんだ。
ぎゅっと抱きしめて返してくれる力に、甘えてもいいのだろうか。
目の前の自分がしがみついている人物は自分を攫った誘拐犯で、監禁している張本人だということくらい、オレ自身が一番よく分かっている。
だけどこんなふうに優しく触れてくれる人、初めてなんだ。
欲しいと思ったものは皆、いつだって手に入りはしなかった。
人から与えられる優しさも、こうして背をさすってくれるあたたかな温度も、オレを心配そうに見つめる瞳も、全部全部縁遠いものだった。
それがたとえ犯罪者のもたらすものだったとしても、欲しい。そう思ってしまうのはオレがおかしいのだろうか。
「聞くよ」
自分を覗き込む澄んだ瞳。
初対面の時は恐ろしくて仕方がないくらいに昏かった彼女の目は、今や穏やかにオレを映している。ますます本当の彼女を見失ってしまいそうだ。
「……オレが育ったのは、こことは別な意味で狂ってた家だった」
それなのに、ぼろりと口の端からこぼれ落ちていく言の葉。
「『狂ってた』?」
オウム返しには静かに首肯する。
狂っていた。その一言で表すことのできる家なんてどうなのだと思うけれど、きっとこの国には見えないだけで腐るほどの『狂った家』がある。
「父親は呑んだくれ。母親はそんな父親から……暴力を振るわれてた」
一語一語を紡ぐのが辛くて仕方ない。逆流してくる記憶や気持ちを抑えきれない。
自然とシュリを抱きすくめる腕に力がこもっていたらしく、「……っつ」と小さく彼女が声を漏らしたことで気づいた。
「……ごめん」
それを口実にするように言葉を止め、力も緩める。
――ああ、弱いな。
自嘲の笑みが自然と唇に弧を描かせた。
シュリはオレの弱さも痛みも分かっているかのように、「辛いなら言わなくていいよ」と頭を撫でてくる。
「無理になんて、訊くつもりない。聞かせてくれるのなら、あいちゃんが話したい時……それで充分」
本心から言っているのだろう。そのまま頬に触れる手はとてもあたたかい。
だがオレはそれに強く首を振った。それが分かっていても嫌だったから。
オレはどうしようもなく弱くて、どうにもならないくらい脆いけど、一度決めたなら曲げたくない。そこだけは貫かなければ駄目だと思った。
「オレはガキで、母親が殴られてるとこをただただ黙って見てることしかできなかったんだ……」
身の毛のよだつ感覚が走って、しばらくしてからようやく消える。
「何も……できなかった」
何もできなかったんだ。
シュリの服の背中を掴む。
オレは弱い。弱くて、それを分かっていたくせに目を背けていたから、守りたいと思ったたった一人さえ壊してしまったんだ。
「あいちゃん……」
両手でオレの頬を挟み込み、じっと目を覗き込む。オレの瞳に何が見えたのか、シュリはすぐに表情を悲しげに歪め、ぎゅうっとオレへ力を返してきた。明らかにあらん限りと分かる力で。
「ひとりぼっちは、怖いよ」
でも痛みを感じない。
「独りは、怖い」
心が震えて震えて仕方がない。
「…………この世界に、この皆が何かしらで誰かと繋がっているはずの広い世界に……一人、なんて、……独り、なんて――――怖い。怖くて、いいんだよ……」
すがるように腕の力を強める彼女は、オレに向かって言っているのか。はたまた自分のために言っているのか、それは知りようもないけれど。
怖くていいのだろうか。ひとりぼっちだということを嘆いてもいいのだろうか。
なあ、シュリ?
「怖い、よ……」
やはり、オレたちは似ていると思うよ。
手放したくないもの。手に入れたくても叶わないもの。無様にしがみついて、いい加減にやめたいと思っているのに、無様だとわかっているのにやめられない。
見つめ返してきた目は、今にも壊れてしまいそうな硝子玉のようだった。
呼んだのは、唇を重ねたのは、どちらからだったのだろう。
互いに互いへと向けた同情なのかもしれない。ただ単に、仲間意識であるだけなのかもしれない。傷口を舐め合っているだけなのだとも思う。
愛ではない。かといって、恋かどうかも判然としない。
はっきりしているのは、誰かの温度がなければ、オレたちは二人とも壊れるだろうということのみ。
シュリをきつく抱きしめ、体をどこにも隙間がないというくらいに密着させる。
「んぅ……っ」
奪い合うようにしながら同時にどちらも相手にしがみつこうともがくように、何度も何度も唇を奪い合った。
シュリは苦しげに声を上げているが、自らも唇を押し当ててくる。オレも決して逃さぬように舌を絡め、息を継いだ。
ようやく離れた時には、お互いに息が上がっていた。体は離れたが、キスの間ずっと指を絡め合っていた手は離れない。
「……オレは守れなかったんだ」
出来れば思い出したくない過去を掘り起こしながら、どちらともなく凭れ合い、思いをそっと言葉に変えた。