彼女の熱
いつの間にかうとうとしていたようだ。ドアが開く音で目が覚め、目を繰り返ししばたたかせた。
意識が覚醒していくにつれ、空腹を自覚していく。外を見れば、冬の短い日はもうだいぶ傾き始めていた。目まぐるしくて時間感覚が鈍っていたけれど、それだけ経っていたのだろう。腹が減ってもおかしくない。しかもあまりの出来事に昼は食べていなかったのだ。
こんな状況でも腹は減るし眠くもなるのだから、人間というものは案外図太いものである。
開いたドアの方に視線をやれば、予想通り、入ってきたのは珠里だった。
バスタオルを頭から被っていて、露出した部分の肌は抜けるような白さから一転、ピンク色に染まっている。長い髪からはぽたぽたと雫が垂れていて、シャワーを浴びてきたと一目で分かる。
先ほどまでとは異なり、パジャマをしっかり着ていたが、変わっていないところがひとつだけあった。
「……その毛布」
少し躊躇ったけど、気になることには違いないので、寄ってきた彼女に呟くような口調で小さく尋ねる。
「いつまでそうしてんの?」
さっきオレが珠里にかけた毛布を、彼女はまだ体に巻き付けていた。シャワーに向かう前は服代わりに使っていたから分かるが、何で湯上がりの今まで。
すると珠里ははにかんだように笑む。
「あいちゃんがわたしに優しくしてくれた証だから。宝物にするの。うちにいる間はなるべく手放したくない」
――また、あの天使のような笑顔だ。
居心地が悪くなる。最初に会った時と同じく単純なことで喜んでは見せられるこの笑顔と、オレをここに連れ去ったときの悪魔のような表情。いったい、どちらが本当の彼女なのだろうか。
「あいちゃんもシャワー浴びる? 冷えたでしょ」
オレのそんな思いはつゆ知らず、可愛らしく首を傾げる珠里。何だかもう抗うのも面倒で、それにただ頷いた。
「じゃあこっちおいで」
彼女はにこにこ笑いながら床の器具から鎖の片方の端を外し、そこを持ってオレをドアの方に導いていく。首輪に鎖、しかも人に引かれているとは、犬にでもなった気分だった。
「あ、そこがトイレなんだぁ。行きたいときには、鎖は絶対に届く長さだから好きに行っていいよーぉ」
廊下に出てすぐにあったドアを指し示し言ってから、珠里は廊下をずんずんと歩く。ついていく途中、「そこが衣装部屋でー、そこは納戸」などと逐一ドアを指し示してされる説明を聞いた。2階だけなら部屋数はさほど多くはないようだ。
「そしてここがお風呂場ー」
彼女はそう言いつつひとつのドアに手をかけ、開け放った。
洗面脱衣所が見え、その奥に風呂に繋がる扉がある。洗濯機はここにはないのか見当たらず、代わりによく銭湯や温泉施設で見られるような竹でできた籠があった。脱いだものを入れるのだろう。
「ぼくは脱衣所の外にいるから。タオルとか着替え、持ってくるね」
それに軽く頷いて応じるが、珠里はそれでもまだ距離を詰めてくる。
目を瞬かせると、かちゃん、と音がして首輪が外された。さすがに入浴時まで付けさせておく気はないのだろう。
微笑みを残し、外した鎖を持ったまま珠里が脱衣所を出ていったので、オレ一人が取り残される。
閉められたドアをぼんやりと見つめていたことに気づき、はっとした。
服を一枚一枚脱いでいって洗い場に足を踏み入れ、煮詰まった頭を落ち着かせようと熱いシャワーを頭から被る。
だが、珠里の顔は脳裏に張り付いたまま消えない。
オレの取るちょっとした行動に喜んで天使の顔を見せてきたかと思えば、包丁で脅してきたときやあの『後藤』という男を恫喝したときのような悪魔の顔を見せる。ふたつの表情が頭の中をぐるぐる回って、酔っ払っているかのようで気持ちが悪い。
どちらが彼女の本当の顔なのか、やっぱり分からない。そして何より、こんな複雑な気分になっている自分が一番よく分からない。
「あいちゃん?」
体を洗い終わり、湯船に浸かろうとした時、珠里の呼ぶ声が聞こえた。
「タオルと着替え、ここに置いておくね」
擦りガラスの向こう側には彼女の影が見える。脱衣所にいるのだ。何と答えたらいいのか思いつかず、ただ「うん」と言って湯船に浸かると、お湯のあたたかさが体に染みた。
「ねぇ、あいちゃん?」
用が済んだのだからいなくなったと思ったのに、まだいたらしい。再び珠里の声が響いたので、声は出さずにドアの方を見た。
「あいちゃんは何であそこにいたの?」
返事は最初から期待していなかったらしく、すぐに言葉は続く。
ちゃぷんとお湯が鳴り、それに引きずり出されるようにして耳に蘇るのは、あの午前10時の時報。眼裏に浮かぶのは、オレから未来を奪った白い雪。
「……高校受験に失敗した」
湯船から出た湯気がゆらゆらと天井に向かって立ち昇る。その白い煙は、絶望に包まれたあの時、自分が吐いた息のようにも見えた。
「いろいろ考えてたのに、全部失敗した」
何て簡単な一文で済んでしまうのだろう。オレなんて、世界に対してはあまりにちっぽけだ。
珠里は何を考えているのか、特に言葉を発しない。自分で訊いたくせに。
オレも何と言葉を継いでいいか分からず、それきりで黙る。
「学校、好きなの?」
流れた無言の時を割ったのは、珠里だった。楽しいの? と。ともすれば聞き逃してしまうくらいに小さく尋ねてきた。
「そういう、わけじゃない。でも先生の期待もあったし、オレだってできるなら高校までは出たかった。将来のためにも」
むしろ嫌いだ。あの、学校という空間は、大嫌いだ。息が詰まって、居場所がなくて、それでも負けたくなくてしがみついていた。
「……それに、プライドもあったのかもな」
「プライド? ああ……成績よかったんだ?」
今までの話の少ない手がかりでそこまで予測できる珠里も相当頭の回転が速いと思う。
「まあ……」
自慢するみたいであまり言いたいことでもなかったので、聞こえるか聞こえないかくらいの声で返した。
「そっかぁ。じゃあセンセイたちもいいところに行かせたがったんだろうねぇ」
実際、彼女の言葉は的を射ていた。
――相川、お前の成績ならここは余裕だ。頑張って入れ。
――ここが第一志望? お前ならもう少し上を目指せるだろう。
でも期待されるのは別に嫌いじゃなかった。それは一応とはいえオレをその視界に入れてくれているということだから。
オレが何より一番嫌なものは、他にある。
「でもそんな期待も何もかも裏切って、全部失敗したんだよ」
ふっと自嘲の笑みが漏れる。
オレはこんなところに連れてこられて、閉じ込められて、そしてその当の『犯人』に何を言っているんだろう。こんな同情を買うような話、普通は監禁『された』側じゃなくて『した』側の方がするもののはずなのに、何だかいろいろとおかしい。
「推薦も、一般も、今日の二次募集も。全部あまりにもくっだらない理由で失敗したし」
だけど語り出すと止まらなかった。馬鹿みたいだと思っても。誰かに聞いてほしいって、きっと思っていたからかもしれない。
珠里は何を思っているのかまた無言になっていた。
「ねぇ、あいちゃん」
少し間が空いて、珠里の声がようやく聞こえた。
「……何?」
反応して顔を上げたら、またお湯が小さな音を立てる。
「学校の重要性とか、ぼくにはよく分かんないけどさ?」
「…………は?」
「ここにいれば大丈夫だよ。ね?」
優しく鼓膜を揺らす彼女の声を聞いた瞬間、さっき感じていたような、罪悪感にもよく似た訳の分からない感情がまた込み上げてくる。
本当に、意味が分からない。
「何が大丈夫なんだよ。出る」
されるだろう反論を総て打ち消すように、わざと大きく音を立てて立ち上がった。すると珠里が脱衣所を出てドアを閉めたのが気配で分かる。
何か言っていたのかもしれないが、オレには聞こえなかった。いや、聞こえなかったことにした。
そういうことにしておかないと、いつかおかしくなってしまいそうだ。
脱衣所に立ってタオルを手に取ると、驚くくらい触り心地がいい。修学旅行で泊まった少しグレードが高めのホテルのものも相当にふかふかで気持ちがよかったが、それよりも更に高級感がある。ただの白いタオルだというのに。
しかも、いつの間に用意していたのか下着を含めた衣服はオレのサイズにぴったりだし、総て一目で上質と分かる生地を使っている。珠里が「お嬢さま」と後藤という男に呼ばれているのも納得できる話だ。
「あいちゃん、着替え終わった?」
さっきと場所は変わったが、またもドア越しにかかった声に軽く返事をする。それに間もなく珠里が入ってくると、オレを見て安心したように――さっきの話はまるでなかったかのようにして、笑う。
「お腹空いたでしょ? 今日は冷えるし、あったまるように卵雑炊だって」
それは明らかにオレへの気遣いだと分かった。
幾度も思った通り、本当の珠里を掴めないで見失う。いったいどれが真実の彼女なのか、見つけ出すことができない。
戸惑っているうちに首輪を戻され、こっち、と手を取られて導かれるままに歩き始める。いつかと同じだが、反抗も忘れていた。
「普段はここじゃ食べないんだけどねー」
あいちゃんが来てくれたから、今日は特別。そう言いながらひとつの部屋に入っていく。
一歩足を踏み入れれば、そこが何の部屋か瞬時に悟ることができた。
珠里のベッドルームだ。
クイーンサイズのベッドに、本だらけの部屋のものに比べたらサイズはやや劣るが、やっぱり大画面のテレビと、パソコン。それと簡素なテーブルセットがある。
部屋の中心部に取り付けられた器具も、本の部屋だけでなくここにも存在した。珠里はにこにこと笑いながら鎖の端を繋ぎ、「さあさ、こっち!」とテーブルセットのへと着席させられる。
卓上には卵雑炊が乗っていた。先ほどの言葉の通りであり、とても美味しそうだ。
まさか彼女が自分で作ったのだろうか。珠里をちらりと見ると、
「期待を裏切るようで悪いけど、ぼくが作ったんじゃないよー。お手伝いさんのお手製」
先手を打って否定された。そして別に『期待』は全くしていないのだが。
そういえば、「卵雑炊だって」と伝聞形だったのを思い出す。自分が作ったのならあんな言い方はしないのは当たり前だった。
「あいちゃんも食べて食べてっ。いただきます」
向かいに座った珠里はしっかりと挨拶し、冷ましながら少しずつ口に運んでいく。しばしの間は器をじっと見つめたが、空腹には勝てなかった。「いただきます」と小さく言って、蓮華を手に取る。
監禁犯と差し向かいで食べるなんてと最初は躊躇していたのに、食べ始めるともう駄目だった。もっともっとと要求する胃に従うようにして一気に平らげてしまう。
「食べっぷりいいねぇ」
彼女はそうやって満足げにし、オレにだいぶ遅れて食べ終えた。
「やっと生きた表情になった」
開いた皿を盆に重ねて戻しながら、彼女は独り言のように呟くけれども、オレのことを指しているのは明白である。目を丸くすると、珠里は幼く笑った。
「偏にぼくのせいだけどねっ」
椅子から降り盆を持ち上げて歩き始める彼女の背中が、何だか少し悲しげな思いを伝えているように感じられて、思わず見てしまう。
「……だったらここから出せよ」
頭の中に浮かんできた何度目かのわけの分からない感情を打ち消し、駄目元で言えば、「無理だし嫌」と即答が飛んできた。半ば諦めてはいたけれど、むっとすることはする。
「あいちゃんはぼくとずっと一緒にいるの」
だが強い光の灯った目に真正面から見つめられてしまい、これ以上何を言っても堂々巡りのような気がしたオレは口を噤んだ。
「鎖はここからならトイレか洗面所まで動くから、歯を磨くなり何なりしてくれていいからね」
それを確認した珠里はすぐに無邪気な表情に戻り、部屋を出ていく。
「どういう……」
長めに取ってあるとはいえ、明らかに足りないだろう。ひとりごちたはずみで床を見ると、鎖を取り付けた器具が移動できるようにレールが敷かれているのが分かった。
何でこんなものがあるのだろう? 疑問は禁じ得ないが、考えても仕方がないし、先ほどまでいた風呂場の方向に歩くけれども、そのたびにじゃらじゃらと鎖が鳴って鬱陶しい。
洗面所にたどり着き、用意されていた真新しい歯ブラシを手にして磨き始めながら、改めてレールを見る。
水分が飛ばないようにという配慮だろう、それは脱衣所のだいぶ手前で終わっていた。鎖が長いから入るのには苦労しなかったが。
けれども、オレは歯を磨きつつ釈然としない思いで眉を顰めた。
珠里はおかしい。だけどこの家も同じくらいおかしい。
珠里の台詞からして、後藤という男の他に『お手伝いさん』とやらが少なくとも一人はいるのだろうけれど、それだけだ。
珠里の両親はどこに行った?
しかもまず、こんな簡単に人間を拘束できる準備のある家とはどうなのだろう。
最初に抱いた印象が消えない。
――監獄のような家。
ゆすいでコップに残った水を勢いよくぶちまけ、わざと水を跳ねさせて大きな音を立てる。嫌な考えを打ち消してしまいたかったのだ。
部屋に戻ると、まだ珠里はいないようだった。すると一人では何もすることがないため、また先ほどの考えが蘇ってきてしまう。
監獄のようだけれど、でも珠里はこうして捕らえたのはオレが初めてだと言ったし、嘘はないようだった。
それならば、オレの抱いた思考が正しいのだとしたら、その『監獄』に囚われているのは――。
「お待たせあいちゃんっ」
この、オレの目の前でにこにこ笑っている彼女ということになる。
――……わたしは確かに、君を監禁した。だけどそれ以前にまず、ぼくがここに監禁されてるんだ。
あの言葉こそ揺るぎのない真実だったのだとしたら?
「どうしたの?」
無言で見つめてくるオレに、きょとんとしている珠里。
「別に」
何を思っていたのか知られても嫌だし、ただ首を振る。
打ち消してしまいたかった。恐ろしい考えだと、誰に言われるまでもなく分かったから。
「そう? じゃあ寝ちゃおっかっ」
特に疑った様子もなく、どうせすることもないしね、と力強くオレをベッドに導き入れる。抵抗せずに力に従えば、柔らかなベッドがオレたちを受け止めてくれた。
「あいちゃん、ちゃんと布団かけて。風邪引くよ?」
そしてすぐ、オレはあたたかな温度に包まれる。珠里がオレを包むように抱きしめてきたのだ。
とくん、とくん、と聞こえる規則的な鼓動は、珠里のもの。自分以外の第三者の心音を身近に聞きながら眠るなんて、オレはとても慣れない。体をわずかに固くすると、珠里が笑った。
「こうしてれば寂しくないよ」
さらさらとオレの黒髪を撫でるその手を掴んで止め、半ば睨むように見る。
「……どういう意味だよ」
「わたしはあいちゃんを誰よりも必要としてるってこと」
鋭い視線なんて意に介さず彼女は笑った。悪戯に重なった唇が、ちゅ、と軽いリップノイズを奏でる。
「おやすみっ」
そしてそう言ったと思えば、珠里はオレを抱きしめたまま寝息を立て始めた。子供のようにいい寝付きである。
「……意味分かんねぇ」
そんなありきたりな、何より自分の『監禁』という行為を正当化するためだけの台詞に、オレは何で泣きそうになっているのだろう。
この少女は憎む対象のはずなのに、オレは何を抱きしめ返したりしているのだろう。
もう何を考えるのも面倒で、引き込まれていく眠りに抗わず、意識を手放した。