毛布
珠里は糸が切れたようにソファに倒れ込む。眠りに引きずり込まれたのか、閉じられた目はそのままだ。
その辛そうな寝顔に、またも胸を何か針のようなものがちくりと刺す。
さらさらの蜂蜜色の髪は乱れ、汗で肌に張り付いている。
かく言うオレも背中はじっとりと濡れており、それが冷えてくるような感覚と共に疲労感が押し寄せてくる。
全ての行為が終わった後、彼女は残った力を振り絞った様子でオレに唇を重ねてきた。
――大丈夫だよ……。
そう言って強く強く抱きしめてきながら。
何がだよ、と訊き返そうとしたところで彼女は眠りに就いてしまったから、何から「大丈夫」だと言われたのかさっぱり分からない。
「ん……」
生まれたままの姿で寝返りを打つ姿はかなり艶かしく、いたたまれない思いで目を逸らす。
今さら、猛烈な後悔が押し寄せていた。
どうしてこんなことをしてしまったのだろう。苦しそうにする珠里を見ようともせず、自分がやりたいように揺さぶった。これじゃ、自分勝手にオレをここに封じた珠里と何も変わらない。
汗が乾いてきた頃合を見計らって服を元通りに身につけたところでまた彼女を見遣ると、いくらか落ち着いたのか、先ほどよりは穏やかに眠っていた。ほっとしてから辺りを見渡す。
混乱し通しだったために、この部屋の中がどうなっているのかを把握できていなかった。閉じ込められ鎖を付けられ、体を繋がされるという形で見えない楔まで刻まれた今となっては、諦めが湧いてきたのか比較的冷静になれている。周囲について確認できるぐらいの余裕はあった。
初めて入った時に圧倒された本棚以外には、大画面のテレビやパソコン、そして今までいたソファがある。それ以外には空調設備があるようだ。しかし、リモコンの類いがテレビのもの以外は一切見当たらない。
「まさかこの空調、自動調節……?」
顔がひきつった。
ちょうどいい室温に保たれている室内。外気温に合わせて年中付けっぱなしだとしたら、年間いくらの光熱費がこれだけでかかっているのだろうか。
やっぱりいろいろなことがあったために失念していたけれど、そういえば珠里はさっき『お嬢さま』とか言われていたような気がする。それも関係しているのかもしれない。
ふと窓が目に入り、近寄っていく。半ば悪足掻きと知りつつ、そこからなら出られるのではないかと思ったのだ。
しかし、期待は見事に裏切られてしまった。
鍵がなく、レールもない。つまり、この窓を開ける方法はない。息を呑み揺さぶってみるがびくともせず、ただ手が痛くなっただけだった。
まさかと思って他の窓に移動し同じように揺さぶるが、やはり全く以て動かなかった。
思わず珠里を振り返ると、彼女は未だ眠り続けている。
「……まじかよ」
――言ったでしょ? ここはぼくだって一度入ったら出られないの。
他の部屋を確かめてみないことには何とも言えないが、あの台詞は本当に偽りなどではなかったのかもしれない。
「……ん、……」
彼女が寒そうに体を丸めていくのに目が行って、少しはっとした。
パソコンの傍に柔らかそうな素材が使われている毛布を見つけ、それを持って珠里の傍へと戻る。そっとそれで包み込むようにしてやれば、わずかに彼女の肩が跳ねた。
起こしたか? ひやりとすれば、閉じられていた瞼がゆっくりと開けられる。
「……あいちゃん……?」
唐突に絡まった視線にどうしたらいいか分からなくなって、ただ無言になる。どう返したらいいか分からないし、第一こんな行動をとっている理由だってよく分からない。
オレはこの犯罪者に対して何がしたいのだろう。
「毛布……あいちゃんが?」
毛布の端を小さな手で掴んで、オレを見上げてくる珠里。やはり何も言えなくていると、とても嬉しそうにふにゃりと笑った。怪訝に思って彼女を見ても「えへへ」とますますにこにこしている。
「あいちゃんが優しくしてくれた……」
それに目を見張り、視線がそのまま釘付けになりかけてすぐに逸らした。
一瞬、絆されそうになったからだ。まるで純粋にオレを想っているかのような台詞だが、騙されない。天使のような笑顔の裏側にある悪魔のような表情を、オレは知っている。
「あいちゃん?」
オレを不思議そうに見つめてくる、澄んでいるようなその瞳に騙されるのは、最初だけで充分である。
「……窓」
そんなことを考えていたからか、話題を変えるかのようにこぼれ落ちる。
珠里はますますきょとんとして、「窓?」と訊き返してきた。
「全部、嵌め殺し? この家」
一度口にしたものを引っ込めることは不可能だから、仕方なく頷いてから続ける。
「そうだよーぉ。この部屋も、キッチンもダイニングも、トイレもお風呂もぜーんぶ嵌め殺し。ぼくが立ち入るところ全て、ね」
納得したようにして、へにゃへにゃと笑いながら答える彼女は、今しがたオレが格闘していた窓の方を振り返った。
「確かめてみてもいいよ? 鎖はぼくが握っててあげるから」
かぶりを振る。そこまで言うのなら、確かめたところで仕方がない。きっと徒労に終わるだけだ。
「そっか」
珠里は笑い、上体を起こした後、躊躇いがちに体重を預けてきた。行為の前とは大きな差である。さっきはほとんど彼女の方から誘ってきたようなものなのに。
不思議に思って眉を顰めると、彼女はまたそっと擦り寄ってきた。
「あいちゃん、優しいから」
最後は突き放したりしないから、と、そのままの姿勢で言う。
オレは唇を噛んだ。
また訳の分からない罪悪感が込み上げてくる。
「……あんな乱暴にしたのに優しいって?」
呟くと、珠里は吹き出すようにしてまた笑った。
予想外の反応に顔をしかめる。何で笑われているのかいまいちよく分からない。理由もなく笑われているんだとしたら腹が立つし。
「ごめんごめん。だって、あいちゃんは怒ってるんでしょ? そりゃあいきなりこんな頭おかしい奴に監禁されたら当たり前だよね。だったら少しくらい乱暴になったって普通だし、わたしは平気だよ?」
オレはこの天使の仮面を被った悪魔のような少女に囚われたと、だから怒って当然だと、そう思っていた。それなのにこうも真っ向から肯定されると、何だか自分が悪いように思えてしまう。罪悪感が余計に胸を刺してしまう。
「それに最後の最後は、わたしの頭、撫でてくれたじゃない」
ましてや、そんなふうに言われてしまっては。
「あいちゃんがかけてくれた毛布、いつもよりあったかいなー」
嬉しそうにはにかむ彼女の表情は酷く幼くて、それにふと疑問が湧いた。
「……お前、年いくつ?」
年下だ年下だとは思っていたが、いったいいくつなのだろう。大人っぽい表情をすると思えば今のように幼い顔も見せるし、正確な年齢が把握できない。
「ぼくー? 13歳。7月で14歳だけどね」
つまり、学年にしたら中1を終えたばかりということである。オレは一瞬頭の中が真っ白になり、硬直した。
そんなふたつも年下の、本当の少女と言ってもいい存在にオレは手を出してしまったのだ。愕然ともする。
「別に初めてでもないんだからいいんだよーぅ」
「そういう問題じゃねえだろ……」
けらけらと笑う彼女には緊張感とかそういうものが欠如しているように思えて、再び眉を顰めた。
「つーか……初めてじゃない、って」
まさかオレ以外のこともこんなふうに閉じ込めたりしているのだろうか。それが顔に出ていたらしく、彼女はまたくすくすと笑う。
「まさか。閉じ込めるのはあいちゃんが最初で最後っ」
何とも嬉しくない『初めて』だが、他に被害が及んでいないことにはほっとした。
「じゃあその『初めて』とやらは誰だよ」
それを聞かなければ、自分があんなカタチで彼女の大切なものを奪ってしまったのではないかと不安で仕方がない。小心者と言われようが不安なものは不安だ。
珠里は一拍置いた後、おどけたように唇に人差し指を当ててみせた。
「ナイショ。女の子の秘密は暴くものじゃないよん。大丈夫、命を賭けてもあいちゃんじゃないことは確かだから」
そして立ち上がってしまったが、なぜだろう。『一拍』というその短い間だけ、珠里の瞳が翳ったように見えた。
「……なあ」
「さてと、ぼくはシャワー浴びてくるよーぉ。あいちゃんも一緒に入る?」
どうしてそんな表情をするのか訊こうとしていたオレを遮って、珠里は毛布を服代わりにしたまま立ち上がる。わざとなのか偶然なのかいまいち分からないタイミングだ。
「誰が入るか」
オレが毒づくように返すと、珠里はけたけたと笑いながら部屋を出ていく。
途端、しんと静まり返る室内。
最初にオレを導いてきた時、彼女はここを自分の城だと言った。それにしては女子らしい装飾品は少ない。
さっきの毛布がちらりと頭を掠めた。あれすらもシンプルなタータンチェック柄だった――と思ったところで、一緒に浮かんだのは、あの顔。
『あいちゃんが優しくしてくれた……』
毛布をかけてあげた、たったそれだけのことで、頬を赤らめて喜んだ彼女の笑顔だった。