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 ――ここには誰も、君を傷つける人はいないよ。

「どういう意味だよ……」

 座り込んだまま、半ば睨むように珠里を見上げる。

 彼女は微笑んだ。嘘みたいに綺麗に。

「さあ? それはわたしよりも君が、一番よく分かってるんじゃないの?」

 確かに、思い当たる節はたくさんある。ありすぎて彼女がどれを指しているのだか分からなくなるくらいに、数多く。

 だから顔を俯けることしかできなくなってしまった。

「君を傷つけた人たちが君に強いたもの全て、ぼくは要求しないよ」

 『わたし』かと思えば『ぼく』と言う、定まらない一人称に翻弄される。オレのことを全て知っているのだろうか、と思えるくらい、彼女の目には迷いがない。

 珠里の手が伸びてきて、人差し指がつとオレの頬を撫でる。

「ぼくが君に望むのは、たったひとつだけ」

 それにぴくりと反応してまた見上げれば、彼女は身を屈めてにっこりと笑った。

「ここに一緒にいて。ずっと」

 ど ろ り

 そんな表現しかできないような、くらい目の色。狂気が混じると言うよりは、狂気こそが支配している。

 何度目か、悪寒が襲いかかってきた。

 離さない、と呟きながら頭をぎゅっと抱きしめられ、視界が彼女の身につけているポンチョで埋まる。ゆっくりとオレの髪を梳くその指に、恐怖からか、暖房がしっかりと効いた室内だというのにざわざわと肌が粟立って仕方がなかった。

「何で……」

「ん?」

「何でオレなんだよ……」

 ニットの生地に吸収され、発した声がくぐもっている。いや、そうでなくともきっと、震えておかしなものになっていただろうとは容易に予測がついた。

 珠里はくすくすと笑いながら、相変わらず髪を撫でている。

「言ったでしょ? 君に一目惚れしたからだよ。その他に理由が必要?」

 他の理由だとか何とかそれ以前に、そもそも根本的に間違えていると思う。しかし、恐ろしくてそんなこと言えない。オレはもう何も口にすることができず押し黙り、ただされるがままになった。

「さ、あいちゃん。プレゼントがあるって言ったでしょう? おいで」

 しばらく無言の時間が流れた後、珠里はオレを離してにこっとする。そしてオレは彼女に引かれるままのろのろと立ち上がり、ついて歩き始めた。

 どうせ出ることができないのなら、こんなところで頑張っていたって意味がない。

「君はこんなもの持たない方がいいよ」

 ほとんど力の抜けていた手から包丁を取られた。抵抗はしようとも思えなかった。

 傷つける覚悟がない人間がそんなものを持っていたところで、何の役にも立たないと分かっていたから。

 連れて行かれたのは、元いた本だらけの部屋だった。

「こっち向いて? あいちゃん」

 室内に入った途端、そっと頬に触れて珠里の方を向かされ、目が合った瞬間に彼女が微笑む。思わず息を詰めると――唇を奪われた。

「……っ!?」

 驚いて声にならない声を上げるが、珠里は離さない。どうにもできず抵抗を忘れているうちに、するりと舌が入り込んできた。

「……っ、ふ」

 そこでやっと我に返り、肩を掴んで引き剥がそうとした。けれども首に回された珠里の力は強く、どうにもならないでされるがままになる。

 主導権は完全に彼女の手の中で、どちらのものともつかない唾液が口の端から流れて顎を伝っていく。

 その唐突で半ば無理矢理なキスに気を取られていると、カチャリという不穏な音が耳に届いた。加えて、首で金属の何かが填まるような感触がする。驚くオレを置き去りにするように、珠里はようやく唇を離した。

 状況が把握できないで目を回しているオレを憐れんだのか、珠里は手に持った何かをこちらに示してみせる。


 その正体は、見た目にも重量感のある鎖。


 目を見張って両端を目で追えば、珠里がしっかりと握っているそれは、いつの間にか填められた首輪から伸びていた。

「……な、」

 やられた、と思う。あの口づけはこのためのフェイントだったのだ。

「ぼくだけのあいちゃん……やっぱりとっても似合うよ、このプレゼント」

 えへへ、と可愛らしく笑ってオレを抱き寄せるが、やっている内容は全然可愛らしくはない。

 だが珠里は変わらぬ笑顔のままオレの頬に唇を触れさせた。それから持っていた鎖の端を引っ張っていき、部屋の中心にあった器具のようなものに繋ぐ。

「さ、これで逃げられない。一生一緒にいようね?」

 ふふ、と柔らかく笑い、抱きついてくる。

 逃げられない。逃げられない。

 彼女の声が頭の中で繰り返し繰り返し再生され、震えが生じる。まるで凍ってしまったかのように感覚のない手も、地面がふにゃふにゃになってしまったかのように頼りにならない足も、噛み合わない歯の根も、全身が震えていることを端的に表していた。


 オレハ一生、コノ狂ッタ女ト過ゴシテイカナケレバナラナイノカ?


 ふと駆け巡った想像にぞっとして、刹那にどうしようもない嫌悪感が襲いかかってくる。

「ふっざけんなよ……! 触んな……っ」

 力一杯突き飛ばすと、華奢な見た目通り軽い彼女は思いきり吹き飛んだ。どすん、と嫌な音がして、床に倒れ込んでしまう。

 それにはっとするが、すぐに思い直す。この女はオレを脅し、唐突に攫って、こうして鎖で繋いだのだ。同情する必要がどこにある?

「痛いよ……あいちゃん」

 思おうとするのに、ぐす、と鼻を鳴らす少女に言葉が詰まる。

 だって、目の前で泣くこの少女が、とても弱く小さいものに思えたから。オレを無理矢理ここに連れ込んだ張本人なのに。お人好しにもほどがあると自分自身に呆れ返る。

 だが、その気持ちも次の発言で一瞬にして吹き飛んだ。

「ぼくはちゃんとあいちゃんがすきだよ……?」

 ぐすぐすと鼻を啜り、痛みから出たのだろう涙を拭って呟く。

 初めて会ってから1時間も経っていない相手にそんなことを言われたところで、信じられるはずがない。急速に頭に血が昇った。

「な、に……都合のいいこと……っ! 今日会ったばっかで何言ってんだよ……出せよ、ここから! 出せよ!」

 彼女に詰め寄ると、オレの首に繋がれた鎖がじゃらじゃらと耳障りな音を立てる。満身の力を込めて肩を掴めば、珠里は痛そうに顔をしかめた。

「痛いよあいちゃん……」

「出せよ!」

 構っていられずにそのままで揺さぶると、犯人たる人物は逃れようと身をよじった。

「出してあげたくてもあげられないの……言ったでしょ? ここはぼくだって一度入ったら出られないの」

「どういうことだよ!」

 感情的になるオレ。対する珠里は、痛みに顔を歪めるだけで、やっぱりどこまでも冷静だった。

「『あいつ』……ぼくをここに閉じ込めてる奴が、鍵の所有権は全部握ってる。表から開けるためにさっき使ったカードキーは一度きりしか使えない代物だし、ぼくにはどうしようもないの」

 言う間もオレから目を逸らさない。嘘はついていないと示しているかのようだ。鋭くないのに、薄茶の瞳はしっかりとオレを射抜く。

 自分の方がいけないことをしている気分になるのはどうしてだろう。

「閉じ込めてる、って……」

 しばらく見つめ合うような形になった後、口からは終にそれだけがこぼれた。

「……わたしは確かに、君を監禁した」

 肩を掴んでいる力を無意識に緩めたからか彼女は表情を和らがせ、手を伸ばして頬に触れてくる。


「だけどそれ以前にまず、ぼくがここに監禁されてるんだ」


 どういうことだよ、と尋ねようとしたところで、言葉を遮るようにキスされた。それ以上訊くことは許さない、と暗に伝えるがごとく。

 オレの肩が跳ねたのを意に介さず、珠里はぎゅっと抱きしめてくる。

「今はここまで」

 一瞬離した隙に囁いて、また唇は塞がれた。呼吸するので精一杯だったので何も言い返すことができない。

 入り込んできた舌が絡み、重なり合う隙間から小さく音が漏れる。さっきと同じように濃密に絡む舌に翻弄されるまま、巻いていたマフラーが解かれるのが分かった。

「ッ!?」

 驚愕で反射的に身を引くが、珠里は首に巻き付けた腕の力を強め、しっかりと唇を押し当ててくる。

 だんだんと上がる息。またも、だが先ほど以上に、どちらのものとも分からない唾液が口の端から流れる。足の力が抜けていくと、後ろにあったソファに押し倒されるような形で倒れた。

 それでも唇は離れず、脳の中心がとろかされていくような気がした。

 時間の感覚すら遠くなるほどの時間を経てからやっと彼女は離れる。だが、上に伸しかかったまま、酷く扇情的な潤んだ瞳でオレを見下ろしてきたので、思わず息を呑む。

「閉じ込める見返りは、ちゃんとあげるから」

 珠里は決してオレから目を逸らさない。その薄茶色に迷いの感情はなかった。

 オレにできたのは、ただ瞳を小刻みに揺らすことのみ。そのわずかな間に、珠里はすでにポンチョを脱いでいた。

 淡いピンクのブラウスが目に痛い。

「ね……? だから、傍にいてよ……」

 珠里の声も手も、震えていた。

 弱く小さいもの、という印象が拭えなくなる。突き放せなくなる。

 脳がぐらぐらと揺らされている気分になった。

「あいちゃん……」

 艶かしい瞳が、声が、オレの思考を狂わせる。

 オレのせいじゃない。

 そんな自分本位な思考が頭を掠めた瞬間、ほとんど無意識に体が動いていた。

「あいちゃ、――んんっ」

 初めてオレから唇を奪い、歯がぶつかりそうなほどの勢いで舌を絡め、歯列をなぞる。珠里は苦しそうに声を漏らして身をよじるけど、構いもしなかった。

 彼女の手が二人の間の狭い空間で動き、オレのブレザーに手をかけて床に落とした。続いてネクタイが解かれ、やはり床に落ちる。

 オレはその手を掴んで強く引き、体勢を入れ替えてからソファに縫い付けた。

 しばらくすると、酸欠になったらしい珠里の体からは完璧に力が抜けた。上がった息を宥めるように肩で呼吸をしている。組み敷かれた状態で身動ぎするその様は、かなり悩ましい。

 千切れてしまいそうな勢いで、ボタンを弾くように外していく。ブラウスの肌蹴た隙間から手を入れ、露わになった首筋や鎖骨に舌を這わせ、赤い痕を残した。

 珠里は相変わらず涙に潤んだ目でオレを見上げ、されるがままとなっている。

 オレを呼ぼうとしているのだろう唇を、聞きたくなくてまた塞ぐ。そのままで柔らかな膨らみに下着の上から触れれば、「……っあ」と珠里は体をわずかに跳ねさせた。

 背中に手を回して締め付けを外して今度は唇を落としたら、珠里は再び、だが更に大きく声を上げる。酷く柔い感触がする膨らみに荒々しく触れて、噛みつくように唇を落とした。


 けれど、珠里の上げる嬌声に欲望を煽られながらも、意識はどこか醒めている。


 彼女が履いていたニーハイを脱がせ、つっと脚を指でなぞった。

「ふ、……ぅ」

 また響く声のせいで、ますます熱くなっていく自分の体。こうなるとやっぱりオレはただの男で、くだらない、と思ったら吐き気がした。

 自分勝手な理由で監禁した、オレの下で甘い声を上げるこの女に腹が立つ。

 でも、結局誘われるまま抗わず、坂道を転げ落ちるようなこの状況に身を任せている自分自身には、もっと腹が立つ。

 スカートをたくしあげて乱し、太股の内側に触れた。空いている手で残っていた下着を脱がせ、指でその場所を暴いて触れる。珠里はひときわ甘く啼き、白い喉をオレに晒す。

「あ、い……ちゃん……」

 恥ずかしそうに体を縮め込ませ、快感で潤む目でオレを呼ぶ。無意識か意図的か、上目使いが更に扇情的だ。

 紅潮した頬。気持ちよさの合間に紡がれる震えた声。全部がオレを誘惑するけれど、頭の芯はますます醒めていく。

「……呼ぶな」

 舌を絡め取ることで声を奪い、その隙に腰を沈めた。

 予告なしで覚悟もできていなかったからか、珠里は「んぅ……!?」とくぐもった声を上げる。上体を起こして唇を離すと、頬を上気させたままだが苦しそうな色も見えた。縋るものを探して手を彷徨わせている。

 一切のことに構わず、そのまままた自分の欲望のまま揺さぶると、彼女は懸命に手を伸ばしてオレの背中にすがった。

 その表情には、やはり明らかに快感だけでなく苦痛も滲んでいる。

 オレは悪くない。悪いのは、オレを無理矢理に捕まえて監禁したこの女だ。苦しめて何が悪い。

 そう思う『オレ』は確かにいるのに、その顔を見ると、煽られた欲望の中でちくりと胸が痛んだ。

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