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愚かしき愛

 ただ、愛されたかっただけなのに。


 後藤はわたしを大切にしてくれていた。

 ――音楽がお好きですか、お嬢さま。それならばこれを聴かれてはいかがでしょう。

 ――星は美しいですね。あの星はペテルギウスという名であるそうですよ。

 生きている意味を親に見出してもらえず、笑えずにいたわたし。無意味に過ぎていく毎日が、正直のところどうでもよかった。でも、後藤はいくつもの楽しいことを見つけ出してくれた。

 彼がわたしを慈しむのは、わたし越しに誰かを見ているからだ。

 何となく悟っていたけれど、それでもよかった。

 どんな理由だって、わたしを見て、わたしと話して、わたしを守ってくれた初めての人だったから。

 だから彼になら、利用されてもいいや、って思えた。わたしにとっても、彼はとても大切な人だ。慈しんで愛してくれる、かけがえのない人。

 でもわたしは、彼が愛してくれるだけでは満足できなかったのだ。


 どんなに性根が腐っていたとしても、あの男はわたしにとっては父親だった。


 わたしの母親を――後藤が愛していた女性を殺し、監獄のような家に閉じ込めて、法律的に『人間』として存在することを認めてくれなかった男。

 憎んでいた。いいや、憎むなんて言葉では足りないほど強く憎悪した。殺したいと呟いておいて、それでもなお父親と思っているなんて、滑稽すぎる。

 だが、いくら懸命に繕ったところで、わたしがずっと父親を求めていたことは事実。

 どうして父さまはわたしに会いに来てくれないの。幾度も訊いては、使用人たちを困らせた。

 彼らは知っていたから。父親が自主的にわたしに会いに来るなんて出来事、天地がひっくり返ったって起こりはしないと。

 わたしもいつしかそれを悟っていって、父を求める気持ちは姉への嫉妬へと変わっていった。

 姉が羨ましくて羨ましくて、妬ましくて。

 常に父親の傍にいて、姿を目に映してもらって。真正面から言葉を交わして。学校に通って、友達と笑い合って、自由に買い物をしたり食事に言ったりしているくせに。わたしと違って愛されているくせに。

 だけど彼女はそういう恵まれた環境を自ら捨てた。たったひとつ許されなかった自由の『結婚』をいとい、自分が好いた男の許へと逃げた。

 そんな姉が許せなかった。

 上條を、ひいては世界を壊そうと覚悟した瞬間、姉を殺すこともまた決意したのは、わたしにとっては当然の成り行きだった。

 しかし、想像と現実は全くと言っていいほど一致しなかったらしい。

 ――可愛いお子さんですね。

 そう言いながら近づいて、生まれて初めて会った異母姉あねと言葉を交わした。

 子供を遊ばせる姉は笑顔で、また憎悪が湧いていた。隙を見て触れて、彼女の心を覗き見るその瞬間までは、間違いなくその後で殺そうと思っていた。

 触れた姉の心は、あたたかかった。自分を救い出してくれた夫、腹を痛めて産んだ子供への愛情。今の生活で感じているたくさんの幸せ。

 でもわたしが知りたかったのは、姉の父親に対する思いで。意識的に探って見つけ出したそれが、たったひとつの、わたしが予想していたものと全く違った感情で塗り潰されていることに愕然とした。

 姉が父に向けていたのは、深い哀しみと後悔だった。

 後藤の心に触れた時ぐらいしか味わったことのない、わたしの胸まで苦しくなるほどの深い哀切。

 あんなにも父親の近くにいたのに、彼女もわたしと同じ願いを抱いていたのだ。

 わたしを愛して、こっちを見て、と。

 そして姉の後悔の感情を通して、父の本妻――つまり姉の母親が垣間見えた。

 知ってしまった。父親が愛しているのは、正真正銘たった一人だけだったのだと。

 それは姉でも、わたしの母でも、もちろんわたしでもない。


 妻と名乗ることを許された人――上條夫人、姉の母親だけ。


 信じたくなくて、考えたくなくて、姉の元を離れた。

 簡単に納得できるはずがない。だって、それはわたしの今までの世界への憎悪を揺らがしかねない事実だったから。

 世界の表側で生きる姉はたくさん愛されて、父はそんな姉だけを娘と認め、慈しむ。それがわたしの憎しみの根源だったのに。

 姉も愛されてはいなかったなんて、信じたくなかった。

 本当は愛情を向けられていたのに、姉が感じられなかっただけ。愛されていないなんて勘違いしていただけ。父親に会えばすぐに分かる。ぐらぐらと揺れている頭で言い聞かせて、上條の本社ビルへと赴いた。

 ずっと会いたくてたまらなかった男を執務室の手前で捕まえた時、総てを確かめようとして、姉にしたのと同じように探りを入れた。

 父の思いや記憶が見える中、姉の思いは誤りであるという証拠を探そうと躍起になって、長いこと触れていたと思う。

 でも、結局何も変わらなかった。

 分かったことと言えば――彼が弱い人間だったこと。

 母が父と出会った頃、本妻は大病を得て床に臥せっていた。もう余命幾ばくもないほどのもので、いつ意識が失われてしまってもおかしくなかったらしい。

 そうなったら、普通の夫ならば、妻の傍で残された短い時間を大切にし、一秒でも長く共に過ごそうとするのだろう。それが弱い彼にはできなかった。

 自らの妻が近くこの世を去っていってしまうことを認められず、現実から目を背けて。仕事の付き合いでたまたま入ったクラブに勤めていたわたしの母と出会い、ただ逃げたいがために母と関係を結んだのだ。

 惚れた男に無邪気に尽くす母。本当は何の感情もないくせに、そういう女を想っているふりをしている父。

 初めから想いは交わってなどいなかった。

 逃避するばかりに、本妻が亡くなった時にも父は母のところにいた。それほど愛していた妻の死に目にすら遭えなかったのだ。

 妻が死んだ時初めて、父は己の行為を悔やむ。どうして逃げたのかと。なぜ死ぬ間際に傍にいてやらなかったのかと。

 そんな折、わたしが産まれた。

 自業自得とはいえ、父にとっては耐え難かった。本妻に責められているようで。そして、自分の罪を思い知らされているようで。

 母は代表の罪の象徴だったがために殺された。見るたびに裏切りの記憶を呼び起こす存在だったから。そうすることで罪を消そうとした。

 訊かなくたって分かっていたんだ。

 ならばどうして、わたしを殺さなかったのだろう。

 わたしこそ、父の罪を一心に押し固めて生まれたような存在だろう。母を殺したのなら、どうしてわたしだけ生かしたのだろう。

 長年抱き続けていたその疑問も、前上がこの間持ってきてくれた情報のおかげで解決された。

 ――秘密裏に戸籍を与え、認知した上で……十六歳となった際には貴女さまと結婚させて、りょうさまを婿養子とするおつもりのようです。

 涼、とは、村田涼。姉の元婚約者だ。

 家の格式を上げるために村田の血を引き入れたかったらしい父。そのために村田の分家筋の男と姉と婚約させたのに、彼女は決められた相手を受け入れられず、上條を去ってしまった。

 だったら、自らの『隠し子』であるわたしの存在を利用しようと思ったのだろう。

 つまりは、そういうこと。


 わたしは姉のスペアとして生かされた。


 駆け落ちに限らず、よしんば姉に何かがあって後を継げなくても、首がすげ替えられるように。『上條』を守るために。

 人の気持ちが分からない代わりに、「上條を守る」ということに関してだけは頭が切れる。

 わたしが長い間幻想を抱いていた『父』という人は、驚くぐらいに弱くて、呆れるくらいに脆くて、笑えるくらいに強かな男だった。簡単に幻滅できるほどに。

 好きでもない男と肉体関係を持ってまで関連する情報を仕入れ、たいそうな事件を起こした果てに会いに来た男かと思うと、虚しい笑いが込み上げる。

 後には憎しみしか残らず、今度こそ総て壊れてしまえばいいと思った。

 読み取り終えた瞬間に突き飛ばして距離を置いたがために、二人の間に距離が生まれる。

 薄っぺらい人間性のおかげで、父親の人間性を総て読み取るのにさほどの時間を要さずに済んだ。だから繰り返して浚ったのに、結論は変わらない。そのことがまた悲しくて、たまらなく胸が痛んだ。

 一人で銃を向けている間、沸々と煮えたぎる黒い感情のままに、わたしはほとんど迷いなく憎い男を殺そうとしていたのだ。

 だけど、そこに彼が現れてしまった。

 あいちゃんが――。

 彼を監禁したのは、悲しかったからだ。

 初めて出会ったあの大雪の日は、父親から月に一度だけ許された外出日だった。

 視界を染める白い牡丹雪が舞う中に、彼は佇むんでいた。その姿が、わたしはどうしようもなく悲しくて。

 最初はそれが自分の感情ではないなんて思いもしなかった。直接触れなければわたしには人の心を読むことはできないと思い込んでいたから、考えもしない。その感情が、能力から来る共感であることなんて。

 でも、聞こえたのだ。だから分かった。湧き上がる悲しみは、わたしの感情ではなくて、すぐ傍を歩いていく男の子のものだったのだと。


 どうして。どうしてオレはこんなにも不幸なんだ。幸せになることは許されないのか。オレがおかしいのか。それとも周囲の方がおかしいのか。分からない。分からないよ。


 『オレ』を『わたし』に置き換えれば、それは常にわたしの頭を支配している自問。

 気づいたら、その後ろ姿を追いかけていた。

 きっと一目惚れというもの。

 自分と同じ心情を相手から読み取ったせいで恋に落ちるなんて、数々読んだ小説や漫画の登場人物たちの関係でも見たことがない。

 でもあるいは、最もよく見かけるものでもあったのかもしれなかった。

 彼を守りたい。この世の地獄から救い上げたい。心の底から笑ってもらいたい。彼の帰ろうとしている場所は、彼を傷つけるだけの場所だと分かって、帰したくなかった。一緒にいてほしくて、おかしなやり方で引き留めて、そして監禁した。

 とことんエゴイスティックな想い。正当化するべきでないことは知っている。だけど恋がそういうものだというのなら、わたしの胸を焦がした激情もまた恋だった。

 『恋』という大義名分の下に、様々なことを彼には強いた。恨まれても憎まれても文句は言えない。そうされて当然の仕打ちをしてきたつもりだから。

 でも、酷いことをしたのに、彼は怯えながらも傍にいてくれた。

 最初はそれだけで嬉しかった。

 もっと、もっと気持ちを返してほしい。そんな風にいつの間にか欲張りになり、彼の全部を手に入れたくてたまらなかった。

 ――言えよ! 理不尽に閉じ込めといて、その理由にしたこと全部否定するような真似して、何したいんだよ!! だったらもう解放してくれよッ……。

 わたしをそうしてなじった時、まるで裏切られた気分になり、ますます酷い仕打ちをした。彼の言う通り、最初に裏切ったのはわたしだったのに。

 地下牢に閉じ込めたのは、彼を守るため――なんて、嘘ではなかったけれど、後付けの言い訳だった。

 彼なら何も言わなくても分かってくれると思っていたなんて、笑ってしまう。

 言葉にしなければわかるわけがない。人間はだからこそ言葉を持っているのに、わたしは甘えていた。

 心を直接通わせることができるのなんて、奇妙な力を持った宮苑の血を引く者ぐらいだ。

 言葉を放棄してでも分かってもらえるなんて、酷く身勝手な言い分。

 それは安い恋愛小説の中に登場する女たちが多く持っていた特色。読みながらそういう部分を嘲っていたわたし自身が、どう足掻いても『女』だった。

 それに打ちひしがれてようやく、ああわたしは男になりたかったんだな――と漠然と思った。

 男に生まれていたならばきっと、父のわたしに対する扱いも違っていたはずだから。

 『女』として血を繋ぐための道具として利用されると分かり気が狂いそうになった時、自分の長い髪が『女』を象徴するかのようにわたしの目には映った。だから耐えられずに、ばっさりと切り捨てた。

 そうやって中途半端に女を拒絶したくせに、それでもあいちゃんを――龍之介を求めたのは、憧れていたのかもしれない。

 母にとっての父の存在に。姉にとっての夫の存在に。

 ごめんね。傷つけることしかできなかった。

 今さら無意味な謝罪を口にしても、届かない。

 だって、わたしは死ぬから。自分を撃ち抜いて、たくさん血が流れたのだから。

 期待も何もかも打ち砕いたあんな男に利用されるなんて、真っ平御免である。抱いていた青写真が目の前で消えていく様を見て、絶望すればいいと思った。

 そして、せいぜい後悔することだ。

 名声も地位もきっと、わたしの自殺でその手からこぼれ落ちていく。都合のいい時だけ利用しようとした罪への、罰だ。

 ああ、真っ暗な世界が愛おしい。

「――――……リ」

 死ねばきっと楽になれる。自分を受け入れてくれない世界も何もかも、見なくて済む。

「シ…………リ」

 それなのに。せっかく眠ろうとしているのに、誰が繰り返し繰り返しわたしを呼ぶの?


「シュリ……!!」


 ああ――あの子だ。唯一無二の愛しい人が、呼んでいる。

 わたしは目を開けなくてはいけない?

「シュリ……っ」

 泣いているの?

 ねえ、泣かないでよ。

 この世界で生きていくことが苦しいのなら、辛いのならば、一緒に籠の中に帰ろう?

 今度こそ、離れずに傍にいる。

 わたしを恐れても、怯えた目を向けても、そして非をなじっても、結局は見捨てずに傍にいてくれた君のことは、独りにしたくないから。




 ゆっくりと瞼を開いたその瞬間、飛び込んできた光が目の奥を焼く。

「シュリ!! シュリ……ッ!!」

 叫びのような呼び声が聞こえる。彼の目から溢れ出す熱い雫が、ぱたぱたと頬に降ってくる。

 ああ、呼びたい名前が張り付いてしまうほどに喉がからからで、彼を呼ぶことができない。

 何度か呼吸と唾を飲むことを繰り返して、ようやく声を絞り出す。

「あ、い……ちゃん?」

 酷く掠れていたけれど、届いたはずだ。彼の涙の量が増したから。

 どうしてわたしのためになんて泣くの。

「……っ、よかった……!!」

 あいちゃんは自分の幸せを考えなければいけないのに。

 だけど。

 震える手で握りしめられた手を感じて、思う。

 わたしは本来、存在しない人間で。生まれてくることさえ許されなかった存在で。君となんて出会うはずもなかった。それなのに何の偶然か、彼とわたしは出会ったのだ。

 そして彼は今、わたしの無事を喜んで泣いてくれている。

 自惚れてもいいのかもしれない。わたしは、彼が幸せを得るために必要な人間なのだと、少しくらいは。

「あいちゃん……?」

 もう一度呼ぶと、彼はしっかりと真っ直ぐに目線を返してくれる。

「不幸の子なんて、言わないで……」

 大丈夫。分かっている。この世界には、決して不幸ばかりが溢れているわけではないことを。

 戸惑ったように瞬かせられるその黒曜石のような目に、懸命に笑みを向けた。

「わたし、強運なんだから。君の不幸ぐらい、わたしの幸運で、滅してあげる」

 生まれてすぐ殺されてもおかしくなかったところを生き延びた。今回だって、自分で自分の命を終わりにしようとしたのに、あれだけ血を流したのに、しぶとく生き残った。

 閉じ込められて生きていたことだって、君と出会うためだったのかもしれないと考えたら、ある意味強運じゃないか。

 そうしたら君の不幸だって、わたしと出会うためにあったのだと、わたしを救ってくれるためにあったのだと思えはしない?

 自惚れすぎかな。君を監禁したという自分の罪の正当化かな。

 ああもう、何でもいい。君の隣にいられさえすれば。君がそれを望んでくれるのならば。

「……海に、行きたいなぁ……あいちゃんと一緒に」

 海の季節といえば、わたしの誕生日がある。相変わらず目をしばたたかせている彼にまた笑ってみせる。

「今まで、海、映像でしか、見たことないの。初めて見るなら、あいちゃんと一緒がいい……」

 大好きな君と、一緒に見たい。

 ぽかんとしていた彼だけど、少ししてそれに大きく表情を歪ませ、ぐっと唇を噛みしめる。

「馬鹿じゃねえの……オレは、お前を突き放したのに」

 確かに君は、わたしを異常だと罵った。

 でも、それは判然とした事実でしかない。『一般』からすれば、わたしの行動は狂っている。

 どんなに繕っても、小細工を施して自分自身の手は汚さぬようにしたといっても、多くの人を傷つけ、死なせた。

 そして何より、君を傷つけて自由を奪い、閉じ込めた。

 言い訳をするつもりはない。それでは、わたしの命以外の何もかもを殺し続けたあの男と、同等になってしまう。

「あいちゃんの言う通りだから」

 言ったでしょう、あいちゃん。

「わたしは君に一目惚れしたんだよ。愛してるから閉じ込めたんだよ。それなのに、わたしが君を簡単に嫌いになれるはずないでしょ?」

 彼はわたしの発言にまたも目を見張って、馬鹿じゃねえの、と再び呟く。

 しかし、震えるその手は、わたしの手をしっかりと握りしめたままだった。

 馬鹿なのはどっちなのだろう。

 父親が暴力を振るっていたことも、母親がそのせいで狂ったことも自分のせいにして、自分が『不幸の申し子』だって思い込むことで、育ての親に愛されなかったことを受け入れようとした。周囲の狭い世界に受け入れられなかったことはそのせいだと乗り越えようとした。そういう君の方が馬鹿じゃないか。

 でもそれは、わたしも同じこと。

 狭い世界でばっかりもがいて足掻いて、他の選択肢が見えていなかった。

 もっと広いところに目を向けて、自分から手を伸ばせば、存外世界は優しいものなのに。

 見えているよ。あいちゃんだけじゃなくて、姉も物陰にいて泣いていること。その傍にいる後藤も前上も、安心しきった表情をしていること。

 本当に君たちは優しくて、とってもお人好し。わたしとは大違いだ。

 愛おしい、馬鹿だ。

 わたしとはかけ離れているそんな君が、わたしと似たような思いを抱えていたからこそ、もしかしたら惹かれたのかもしれない。

 君は弱い。そしてわたしも弱い。

 だったら、共にいれば、少しくらい強く生きられるのではないか。

「あいちゃん……?」

 強烈な眠気が襲ってくる。握られたままの手だけが熱い。

 返事をするように少し力の込められた手に安心して、息を吐き出す。

「傍にいてね……」

 目が覚めた時に誰もいないのは嫌だから。

「……ちゃんといるよ」

 頷く彼に安心して、力が抜ける。彼のそれからわたしの手がするりと抜け出そうになって、しっかり握り直された。

 この手の力があれば、わたしはわたしとして生きていける気がする。

 母は自分を偽ってでも父を愛し、傍にいようとした。彼女の愛もまた、ひとつの愛し方なのだろう。

 そうだとしてもわたしは嫌だ。

 もう、彼の前にいるときぐらいは自分に嘘をつきたくない。

「……あいちゃん、すき……」

 眠りに誘い込まれる直前、絞り出して目を閉じた。霞む世界の向こうであいちゃんが何かを言っている。

「シュリ、――」

 何と言われたのだろう。

 ああでも、もう眠い。目を覚ましたらもう一度聞こう。大丈夫、目を覚ましたその時にも、彼は傍にいてくれる。

 そしてわたしからも、もう一度ちゃんと伝えるのだ。

 傷つけてごめんなさいと。

 わたしの傍にいてほしいと。

 わたしは君が好きだと――。

 君の優しさがたとえ、ストックホルム症候群から来るものだったとしても。

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