白い家
「着いたよ」
少女は今自分がしている行為にはとても似つかわしくない様子で、美しく笑む。
脇腹に包丁を押し付けられて連れて行かれるまま、オレは歩みを進めてきた。
目前に見えているのは、まるで監獄のようだと思える白い家。
まず、窓が極端に少ない。そして何というか、真っ白すぎるために「人が住んでいる」ということの現実味がないのだ。
それにしても、どうしたらいいのだろう、これは。恐怖で声すらも出てこないという状況にいて、情けないけれど手が震えている。
そうしている間にも珠里はカードキーを打ち込み、玄関のドアを開けていた。
「入って」
とん、と背中を押されて室内に導かれる。相変わらず包丁は押し当てられているし、何も言えないままそれに従った。間もなく音を立てて閉められたドアに、絶望感が押し寄せる。
これからどうなるのだろう。
オレの頭を悩ませさせている原因である少女は、ご機嫌で靴を脱いでいるが。
「……お帰りなさいませ、お嬢さま。そちらの方は?」
いつの間にいたのか、地味目のスーツに身を包んだ男がいた。オレはびくっと肩を跳ねさせたが、少女は初めから存在が分かっていたらしく、にっこりと笑いかける。
「ただいま、後藤。この子はわたしのトモダチーぃ。言っとくけど、あいつに妙なこと言ったら、あんたの首も切るから」
笑んでいたのはどこへやら、最後のくだりは無表情になり、据わった目で言う。その表情を見てしまったせいで悪寒が走った。
怖い。よくある、小悪魔とか悪女とかに抱くような恐怖感ではない。人間の根源的な恐れを煽られ、生存本能を引き出されるのだ。
「……承知致しました。しかしお嬢さま。あの方への定例のご報告はさせていただきますので、そこはご承服願います」
オレが怯えた一方で、後藤と呼ばれた男は一礼するのみで特に気にしたふうもない。
あの方? 定例報告? というか、そもそも『お嬢さま』って?
クエスチョンマークが飛び交うオレ。だが当然ながら珠里には話が通じていて、「好きにすれば?」と肩を竦めていた。
「ただ、こう言ってたってあいつには伝えておいて」
冷たい声に、先ほど見たような口元だけの笑み。据わったままの瞳が男を射抜いている。
「『あんたは好き勝手にわたしを放っておくんだから、わたしも好きにする』――ってね」
彼女はいつの間にかオレの手首を掴んでいて、相当な力を込めて握られていたから、正直痛かった。さっきも思ったけど、この子は見かけによらず力が強い。
相変わらず話が分からないまま、オレだけが取り残されていく。
「ああそれと、『このことで何か口出ししてきたら、あんたがバラされて都合が悪いこと、全部ネットに流出してやる』っても伝えておいて。今時、ネットの中傷って侮れないから」
くすくすと笑いつつ、掴む力が更に増した。さすがに耐え切れず、痛みに顔をしかめる。
それが目に入ったことで初めて気づいたのか、珠里は小さく「ごめんね」と言ってから緩めた。けれども、それだけ。離そうとはしない。
「…………承知致しました」
「じゃあ消えて」
「はい」
再び一礼し、後藤は現れた時と同じぐらいに気配なく、姿を消した。
「さっ、靴脱いで上がって!」
今までの張り詰めた空気も、後藤がいなくなった途端に影を潜める。いったい何だったというのだ。そう思ってしまうくらい、呆気なく。
しかも、相変わらず刃物が押し当てられたままでは、従う以外に道はなかった。
靴を脱ぎ、珠里に導かれるまま、階段の方に向かう。
「ついてきてねー」
そのまま歩いて行きながら、控えめに家の中を見渡した。
外から見た時に窓が少ないと感じた印象は室内に入ってもそのままだったし、家の中まで真っ白である。
どこかで見たような雰囲気だな、と思ったら、病院だ。道理で居心地が悪いはずである。
「ここに入って」
いくつかある部屋のドアからひとつをチョイスし、オレを再び導き入れた。そこの光景に息を呑む。
明かり取りの窓以外の壁という壁、天井までが本棚で埋め尽くされていたのだ。本棚自体もいっぱいいっぱいに埋まっているのがほとんどだが、半分しか埋まっていないもの、まだ全く空っぽであるものもある。
それでも、この広くて天井の高い部屋にこれだけの本棚があるのなら、まず間違いなく図書館に負けないくらいの蔵書数はあるだろう。
とりあえず、こんな小柄な珠里が、上の方の本をどうやって取るのか不思議で仕方がないのだが。と思ったら、すぐに梯子が目に入って納得した。
そんなくだらないことを考えていないと、今にも気絶してしまいそうだった。
「ようこそ、ぼくの城へ」
にこにこと笑う珠里に、やはり何も言えない。恐怖がオレの声を奪っていた。
「そんな怖がらないでよーぉ。ぼくはただ、君と仲良くなりたいだけ」
不意に近づけられた顔にビクつけば、珠里はその反応をくすくすと楽しげに笑う。
「何が……目的なんだよ……」
やっと出てきた声は酷く掠れていて、情けなさが倍増した。オレを見てますます楽しげに笑い転げ、彼女は肩を竦める。
「だから目的も何も、君と仲良くなりたいの。理由は君に一目惚れしたから」
どこか恍惚とした、そして芝居がかった表情でオレを見上げ、頬を挟み込んだ。またも背中を寒気が這い上がる。
――……狂っている。
改めて何を、と自分でも思うが、認めたくなかったのだ。
自分がそんな狂った相手に一方的に惚れられて、しかも脅されて、こんなところにまで連れてこられているなんて。これからどうなるのだろう、という怯えがぐるぐると頭を回る。
この、珠里という少女の目的は、いったい何なのだろうか。一目惚れだと告白されたところで、この状況では全く以て嬉しくない。だけど、珠里は相変わらずの悦に入った表情でオレの頬に両手で触れていた。
「相川龍之介くん、って言ったっけ?」
逆上させないよう、それに繰り返し繰り返し頷く。
「じゃあ、あいちゃんって呼ぶね。ふふ、わたしだけの呼び名……」
珠里は一人で嬉しそうに笑んだ。オレは「『あいちゃん』!?」と異議を唱えたいところだったが、そんなことは自殺行為だと分かりきっているので、黙るしかない。
でも、彼女はそんなオレの心情も見抜いているかのような、「総て分かってるよ」と言うかのような、不気味な笑みを向けていた。
「そうだ、あいちゃんにプレゼントしたいものがあるんだぁ」
ようやくオレから離れ、珠里は何かを探しに部屋の奥の方へ向かっていく。邪魔になったのか何なのか、その途中でガシャンと言う音を立てて包丁が投げ出された。
「どこにやったかなぁー。あれ? ぼくったら片付け下手ー」
彼女を見て、チャンスだと気づく。気取られないように、足を床にすっと滑らせるようにして移動し、刃物を拾い上げた。
「あったあったー……って、ありゃ。あいちゃん、いけない子ーぉ」
振り返った珠里は、包丁を手にドアに向かうオレに目を留める。悪戯をした幼子を母親が見る目付きでこちらを見ながら、頬を掻いていた。
「く、来るな!」
彼女を傷つけるつもりは一切なかった。ただ、ここから逃げ出すことができればそれでいい。
「無駄なのに」
だが珠里には焦りの色なんてこれっぽっちもなくて、そのまま下がっていくオレを憐れむように見ている。視線の意味が分からない。せっかく捕まえた人間が逃げようとしているのに、どうしてそこまで落ち着いていられる?
「く、来るなよ……!」
不可解ながら、そんな震えた台詞を吐き出して部屋を飛び出した。彼女に動く気がないことなんて見れば分かるのに。
今さっき上ってきた階段を、転げ落ちるようにして駆け下りる。そして靴を履くのももどかしく、玄関扉に手をかけて押し開けようとした。
だが、動かない。諦められずに今度はがちゃがちゃと引くがそれでも動かず、オレは鍵がかかっていることにようやく思い当たった。
「無駄だって、あいちゃん」
背後からかかる声に反応する暇も惜しく、ただ逃れたいがために鍵を探す。
もちろん、一般的なツマミ形のものであると想像していた。けれどもそんなものは見つからず、代わりにあったのはホテルにあるようなカードキーの差し込み口だった。これでは、そのカードキーがなければ開けられないのだろう。
「ぼくは持ってないよ」
勢いよく振り返ったオレが何を言いたいのか分かっているらしい。彼女は静かに告げる。
「そんなの嘘だろうが……! ここはあんたの家だろ、鍵持ってて当然――」
「持ってない。……ここはぼくでさえ、一度入ったら『あいつ』の許可なしには出れない」
半ばパニックになって荒らげたオレの声を遮って、珠里はあくまで冷静に言葉を重ねた。その目の色とあまりに真剣な表情に、彼女は嘘を言っていないことを知る。
「何だよそれ……」
絶望に打ちひしがれ、ずるずると座り込む。
家の住人すら、許可なしには出られない? じゃあ本来住人ではないオレは、どうしたら外に出られるんだ。
いや、方法は分かっている。住人からその『あいつ』とやらに許可を仰いでくれなければ外に出ることは叶わない。
だけど、そんな許可を求めようとする監禁犯がいるだろうか。十中八九、いやしない。
白い足が、ぺたぺたと小さな音を立ててこちらに近づいてくる。顔を上げることすら億劫だ。
動こうとしないオレの顔に、何かが近づいてくる。視界の端で蜂蜜色が揺れて、それが珠里の顔だということが分かった。
「ここには誰も、君を傷つける人はいないよ」
耳元で、そんな声が響いた。




