心
ゆかりさんの制止する叫びを聞きながらも、血を溢れさせ続けるシュリを視界の端に映して、オレは間違いなく引き金を引こうとしていた。
シュリに苦しみを強いた上、彼女の求めるものは何ひとつ与えずに自分の都合のみを通し続けた、目前に立つ男に銃口を向けて。
だけど、できなかった。
「そのような男のために貴方の手を汚してはなりませんよ、相川さま」
凛とした耳なじみのある声が後ろから響く。はっとして振り返る間もなく手が伸びてきて、拳銃は奪い取られた。
「後藤、さん……」
あまりの早業に、手にしていたものがなくなって初めて、彼の方を振り返ることができる。
いつの間にそこに現れたのか、確かに後藤さんがそこにはいた。
彼は微かに口角を持ち上げてみせて、オレの背中をとんとんと二度叩く。
「貴方のなさるべきことは、一時の憎悪の衝動に惑わされて殺人を犯すことではなく、珠里お嬢さまの元に駆け付けて、抱きしめることではないですか。大人になろうとして姉への意見を飲み込み、結果的に喪った私の二の舞になられますか」
しっかり目を合わせ、噛んで含めるようにして掛けられた言葉。
オレには言い返すこともできない。
シュリが血を流し倒れた瞬間、オレはシュリに駆け寄るべきだった。真っ白になっていた頭が思考を再開し、後藤さんの言葉の意味を理解し始める。
どうして彼女が、憎いはずの父親ではなく彼女自身を撃ち抜いたのかを考えれば、代表に憎悪を向けたところで意味がないと分かる。この人には何も通じないのだから。だからこそシュリは、もはや言葉を紡ぐことを諦めたのだから。
難しくもないことだったのに。
後藤さんにはただ深い一礼をして、オレはゆかりさんが抱えているシュリの方へと向かう。
今からでも遅くない。後藤さんが止めてくれたおかげで間に合う。そう思っての行動だったけれど、シュリの顔を見ることはできず、意識的に視線を逸らした。
自分がしようとしていたことのせいで顔向けできないというのはもちろんある。でもそれ以上に、シュリの今の状態を思うに、死の香りがそこから感じられてしまいそうで怖かった。
「後藤……」
ふとゆかりさんに視線を移すと、そんな風に葛藤しているオレさえ視界に入っていないというような驚愕の表情で、ゆかりさんは後藤さんを見ている。
「大変ご無沙汰しております、ゆかりお嬢さま」
呼ばれた彼は慇懃に頭を下げ、また微かに笑ってみせた。
ゆかりさんは彼の声や姿を改めて確認する素振りを見せ、幻でないことが分かったとでも言うように首肯を返す。
それを見届け、後藤さんが代表の前に立った。
一方のゆかりさんは、抱えていたシュリをそっとオレに受け渡してくれる。そしてすでに行ってくれていたらしい止血に集中し始めていた。
自分もそれに協力しながらも、生ぬるい液体がじわじわとシュリから染み出してくるのを感じる。
まるで命が流れていくかのようで、オレはシュリを抱きしめる腕に力を込めた。
「後藤……貴様だったか。この馬鹿者に要らん入れ知恵をしたのは」
今まで黙って話の流れを確認していた代表が、憤怒の様相で後藤さんを見ている。今の少ない情報で後藤さんに思考が辿り着く辺り、やはり頭の回転は早い人なのだと思う。
それなのに、シュリが求めたものは何ひとつ分からなかった。分かろうとさえしてくれなかった。悔しくて、唇を噛みしめる。
「私は入れ知恵など一切しておりません。総て、珠里お嬢さま自身が疑問を持ち、御自分なりに調べられ、知るべくしてお知りになったことです」
代表の睨みにも動じず、後藤さんははっきりと言って返した。
「何を……」
ますます不快そう目を細めるが、後藤さんはただ肩を竦めるだけ。
「お嬢さまは人間です。御自分がなぜ生まれたのか。母親がなぜ亡くなったのか。どうして父親は一度も自分に会いに来てくれないのか。そもそも、『外』に世界は広がっているのに、自分があの牢獄のような白い家から出られない理由は何なのか。気にならないはずがないではありませんか」
自分のことを、自分を取り巻いているもののことを知りたい――何より、愛されたい、というのは、ごく自然な欲望ではないのか。
シュリは当たり前のことを望み、叶えるための行動に移した。たとえその手段が常人ならばとらないようなものだったとしても。
彼女のちっぽけな願いを叶えなかったのは、つまりこの状況を引き起こしたのは、他の誰でもない。上條代表自身だ。
「……まあ確かに、珠里お嬢さまご自身がそうなさらなければ、私の知る限りのことをお教え致していたかもしれませんが。しかし、それはまた別な話でしょう」
未だに分かろうとしない代表の顔を見てか、後藤さんは密やかにため息をついている。
オレの中でも叫び出したいほどのいくつもの感情が、またも奔流のように激しく絡み合って渦巻いていた。
「私は珠里お嬢さまの使用人です。この方が進まれる道ならば、たとえその先が破滅だろうと参りましょう。いいえ、むしろ私がその破滅を肩代わりしても構わない。お嬢さまが愛した人ならば、我が身を挺してでもお護り申し上げましょう。それだけの覚悟で以て、私は珠里お嬢さまの御傍におりました」
その口調には何の迷いも衒いもなく。本心から言っていると、そう分かる。
代表の顔がますます歪められている。後藤さんの表情は全く動かないのとあまりに対照的だった。
――姉さんが、残してくれた光を……消したくないのです。エゴだと言われたとしても。
シュリを利用しようとしたのが本心で、シュリを守ろうと思ったのも本心で。それなら、シュリと共に破滅に向かおうと思ったのも、だけど生きてほしいと願ったのも、本心であるはず。
オレは再びシュリの体を抱きしめる力を強めた。
血が流れ出るにしたがって冷たくなっていくようで、繋ぎ止めたくて、何度も何度もシュリの名を頭の中で呼ぶ。
シュリ。行くな。オレを置いて、もうどこにも行かないでくれ。
お前を愛さない人のために、犠牲になんてなるな。
「……世話役であるというただそれだけのことで、お前はそれにそこまで入れ込むようなモノか? おかしな男だ」
数拍置いて、代表が口角を歪めながら言う。
モノ。その言い様に腹が沸騰するような感覚がオレを襲うが、遠くに聞こえるサイレンに気づいて、それに耳を澄ますことで気を紛らわせた。
もしかしたら後藤さんが呼んだのかもしれない。そう思って見ると、彼は安い挑発には乗らず、ただ憐れむように代表を見ていた。
「ええ、私にとってはそれだけの価値がございますよ。……珠里さまは上條家のお嬢さまである以前に、私の可愛い姪でございますから」
刹那、その場に流れる空気が止まったような感覚があった。
オレは知っていたけれど、それ以外の人にとっては寝耳に水だっただろう。案の定、代表は口をぽかんと開けている。
「貴方が殺した小池沙里は……いいえ、宮苑沙里は、私の姉であると同時に、深く愛した女性だったのですよ。貴方自身が復讐者を自らの懐に招き入れたのです」
後藤さんは飄々(ひょうひょう)と語る。
「…………、貴様がこの小娘を逃がしたのか」
一方の代表は、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「いいえ。私ではありません。お嬢さまの独力であり、協力したのは前上です」
問いへの答えを聞いた瞬間、代表は目を剥いた。
「前上が、だと……?」
その反応を見るにつけ、この人は本当に何も見てはいなかったのだと悟る。シュリのことだけじゃない。『娘』だと認めたゆかりさんのことも、ゆかりさんを取り巻いていた人たちのことも、自らに向けられた感情も。一切目を向ける気がなかったのだ。
「彼はゆかりお嬢さまに心酔していた。ゆかりお嬢さまの事件以来、貴方に対して憎しみを抱いていた。それを読み取れず、能力のみを見るばかりに彼を重用し続けた。珠里お嬢さまはそういう前上の思いをも読み取った。何も知ろうとしなかった貴方の負けです」
初めて会った時の前上さんの暗い瞳と、今日の決意に満ちた瞳を思い出す。
短期間でさえ、人間はあれだけの変化をすることがある。前上さんがどれぐらい代表に仕えていたのかはわからないけれど、きっと短くはない期間だろう。それならなおさら変化が起きないわけがない。
自らのしようとすること以外はどうでもよく、他は総て景色。どこまでも利己的な考えが透けて見えるようだ。
さっきまで確かに怒っていたはずなのに、どうでもよくなっていく。すっとクリアになって、冴え渡っていく。
「あの、馬鹿が……!」
こらえきれない怒りのためかわなわなと体を震わせている代表を見ながら、オレはそんな思考を持て余していた。
「あんた……可哀相なくらい、人の感情が分からないんだな」
故に、だろうか。オレは思わず口走っていた。
「何……?」
鋭い視線が向けられるが、全く怖くなかった。
愛しているから閉じ込める。そう言って笑った彼女の方がずっとずっと怖かった。それも情けない話ではあるけれど、でもその歴然とした差はおかげで分かりやすい。
シュリはいつでも本気だった。真っ直ぐに感情を向けてきた。たとえ言葉が嘘に固められていようとも、その根底には愛が、憎しみが、怒りが、総て流れていた。そのどれもをちゃんと彼女は知っていたからこそ怖かったのだ。
代表の真正面から受け止めて返す。
「だって、そうだろ? 分からないから、分かろうとしないからこんなことになったんだろ。分からないまでも、せめて理解しようとする姿勢さえ向けることがあれば、最初からこんなことにはなってないんだよ。能力とか、名誉とか、そういうものばっかりに縋り続けて、『人』そのものを知ろうとしなかったせいでこうなったんだよ」
沙里さんと関係を持っていた時、彼女の愛が本気であったことを知っていれば。
後藤さんを雇う時、沙里さんとの繋がりを調べて、沙里さんのことでの復讐を企んでいるかもしれないことに察しが行けば。
前上さんがゆかりさんを想っていて、想う人を苦しめたことで恨んでいるだろうことを、推し量ることができれば。
何より、シュリの子としての親への愛を、そして表裏一体の憎しみを見抜けてさえいれば。
どれかひとつだってよかったのに、そうすればこんなことにはならなかったのに。しかも、どこかしらに必ずヒントが残されていたはずなのに。
爆発した感情は時に、その人の持っているポテンシャル以上のものや、通常の性格からは考えられない行動を呼ぶものだ。
だから、人間は怖い。
そしてそれを無意識のうちに悟っているからこそ、人間は感情を互いに読み取りながら関わっていく。
この人は、心など、と高をくくって能力しか見なかった。そのために最終的に自分が追いつめられている。
大なり小なり、人の思いへの配慮を行っていればよかった。そう今さら後悔したところで、後の祭りである。後悔する、ということさえないのかもしれないけれど。
「シュリは、自分で自分のことを狂ってると言った。確かに、狂ってたよ。おかしかったよ。それは否定しない。オレは恐怖に晒されたっていう事実を、なかったことにはできないから」
腕の中にいるシュリを未だに見られない。シュリがもし息をすでに止めてしまっていたらと考えただけで怖くてたまらない。
オレはまた、世界に見捨てられる?
なあ、神様。この先ずっと不幸だって、オレはもう構わない。なけなしの幸福を総て捧げるから、シュリをの命を救ってください。
そうやって強く強く願うのだって、心があるからだ。
「でもシュリは人間だよ。足掻いてはどうにもならないって諦めて、でももう一度だけって期待して、立ち上がった。何があっても、どんな動機だったとしても、前に進むのは止めなかった」
生きていくことで変わるのなら、変わることが生きていくことでもあるのだろう。変化していくことは、きっと人に刻まれた普遍的なもの。
「そういう意味では、ずっと足を止めたままのあんたは、正真正銘の、芯からの狂人だ」
シュリはシュリ自身の手で命を終わらせようとした。
だけど、その引き金に力を籠めさせたのは、このシュリの父親だ。
「あんたは、シュリが生まれてから今日に至るまで、ずっとシュリを殺し続けてたのに……今日、止めを刺したんだよ」
代表はもう何も言わなかった。
反論できないならそれでいい。オレももう、言うべきことなんて見つからなかった。
ようやくシュリの顔を見る。
いつものように天使のように美しいその顔は、まるで眠っているかのよう。でも、元々白い彼女の肌が更に白くなり、むしろ土気色へと変わっている。
だけど、まだあたたかい。生きている。シュリは、今この瞬間も、生きている。
大丈夫。絶対助かる。自らに言い聞かせても、歯の根が合わない。
聞こえていたサイレンがひときわ大きくなり、近くで留まり続けている。助けは近づいている。分かっていても、体が震える。怖い。怖い。怖くてたまらない。
「シュリ、シュリ、シュリ……っ!! 死ぬな、お願いだから……!!」
謝るから。今度こそちゃんと言うから。
もう逃げない。自分の不幸を言い訳にしない。
たとえ神に不幸の申し子として産み落とされたのだとしたって、抗うから。お前となら抗うことができると思うから。
「好きだよ」って、何度だって伝える。それでお前が起きてくれるのなら、いくらだって言う。お前を一人になんてしない。
いつか君が、一人だと泣くオレにそうしてくれたように。




