手を伸ばし求めたのはひとつ
「変わっていないわ」
ゆかりさんは、そう呟きながら小さく笑っていた。
「……そうなんですか?」
「ええ。目の前に見える村田本社があんな姿になってしまったこと以外は、何ひとつ」
その言葉に、オレは無残な姿になった村田本社を振り返る。
それとは対照的に、破片が飛んできたせいか街路樹が傷んでいたり建物に痕が残っていたりはするが、上條のビル群はどれもほとんど綺麗なままだ。
ここは最後に自らの手で壊す。シュリの決意が見えた気がして、オレはぐっと唇を引き結んだ。
改めてゆかりさんを見ると、やはり建物を見上げている。勤めている人でもなければ馴染みのないはずの、このある種異質な空間にさすが馴染んでいる。オレにはまるで似つかわしくない空気感があるのに。
彼女は、昨日オレと出会った時のようなラフな格好はしていなかった。『上條令嬢』という代名詞に相応しい、簡素な造りながらも高級だと分かるワンピースを身に纏っている。
背筋をぴんと伸ばしたその立ち姿は、とても美しいと思った。
秋月夫妻の住まいに一泊させてもって夜を明かしたオレも、あまり背格好が変わらなかった和馬さんにかっちりめの服を借り、それを着ている。だが明らかに借り物と分かる、服に着られているような雰囲気で、ある意味少し笑えてしまう。
やはり、普段から着慣れていたのだろう人は、そういう服の魅せ方を知っているのだと思う。
「じゃあ、行こうか」
そんな心情を知る由もないゆかりさんが微笑んだ。
「はい」
頷いて、歩き始めたその背中を追いかける。
昨日の晩、詳細を話し終えた後、一秒でも早くシュリに会わなければとオレは急いてばかりいた。
――父は爆破事件からこっち、アジアに出張に出ているわ。
その様子を見かねたのか、ゆかりさんは諭すようにそう言った。
シュリが今一番に恨みを晴らしたいであろう相手は、海の向こうにいる。脳が意味を理解した瞬間、自分の体から力が抜けるのが分かった。
――といっても、明日の午前中には帰国するみたい。その後、あの人は多分一旦社に戻るはずよ。私がまだ『娘』として扱われていた頃は、いつもそうしていたから。習慣はそうそう変えない人だし、今回もそうだと思う。
頭の回転の速いシュリのことだ。外国まで追うより、帰国してから警備が多少緩くなっている時に狙った方が早いと考えるに違いなかった。
――明日、上條本社に行きましょう。話は通しておくから。
だからオレもその説明に納得し、素直に従ったのだ。
いよいよその瞬間が目の前に近づいてきているのだと思うと、心臓が音を立てて軋むように弾んだ。
シュリにもう一度会える。会って、止めなくてはならない。
ゆかりさんはヒールの軽やかな音を鳴らしながらエントランスを歩いていく。どこに向かうのだろうと思ったら、誰かを待っている様子の一人の男性に近づいていって、やがて止まった。
遠目では分からなかったが、その人はオレにとってもよく見覚えのある人である。
「……久しぶりね、前上」
微笑んだゆかりさんは、そう呼びかけた。
「お久しぶりでございます……ゆかりお嬢さま」
呼びかけに瞳をゆらゆらと揺らしているその人は、確かに前上さんだった。
「御息災でおられるようで何よりでございます」
シュリに利用されていたその人は、感動からか声まで震わせて、深々と頭を下げている。薄っすらとではあるが、目にはとうとう涙さえ浮かんでいた。
――ゆかりお嬢さまが好きだっただけなのです。
そう言っていたけれど、どれだけ彼女を愛していたのか、それを見て初めて分かった気がする。
罪悪感がまたひとつ、心に降り積もった。
「急なお願いだったのに、本当にありがとう。私の力だけじゃ入れないところが多いから」
「いいえ。お役に立てたのならば何よりでございます」
申し訳なさそうな表情のゆかりさんに、前上は首を振って何かを手渡している。見てみると、それは訪問用の入館証だった。プラスチックのカードケースに、首からかけるためかストラップがついていた。
「ありがとう」
彼女はふたつ用意されたそれを受け取り、大事そうに手のひらで包み込んでいる。
倣うようにしてオレも深く頭を垂れた。今回のことに関するお礼と、前回の時の謝罪を込めて。
「あの時は、すみませんでした」
どこかでずっと気にかかっていた。自分勝手な物言いで、感情に身を任せるままに彼を詰り、殴り飛ばしたこと。
オレだって、この人と同じだったのに。何も変わらなかったのに。
シュリが自分だけのものではなかったことに、狂おしいほどの嫉妬心が湧いた。そんなただの独りよがりから八つ当たりして、酷い言葉を投げつけてしまった。
「いいえ。貴方のおっしゃった通りですから」
首を振った前上さんは、前回会った時とは打って変わって、晴れやかな表情をしている。
「母が、静養のために田舎へと移ることになりました。世話をしてくれた知人がおりまして……近いうち、私も使用人を辞してそちらへ参ります」
それにはオレもゆかりさんも目を大きく見張った。
「これが、私の使用人としての最後の務めだと思っております」
だからどうかご無事で。そう言いながら、彼はオレたちを心配そうに見遣る。
前上の決意と、環境の大きな変化。この短期間で、彼なりに思うところがあったのだろう。
オレは何か変われているのだろうか。
自分では分からない。でも、変わっていたならばそれはシュリの力だし、変われていないのならば、シュリと共に生きることで今度こそ変わりたい。
何をどうやって変わるのかなんて分からないけれど、自分を不幸の申し子だなんて思って生きるのはもう嫌なのだ。
救うなんておこがましい。だがもう一度会うことでシュリの暴走を止められるのならば、それに賭けたい。
そういう心情に気づいていたのだろうか。ゆかりさんは酷く優しい目でオレを見ていた。
「父は最上階よ」
オレの背をぽんと軽く叩いて、エレベータへと向かっていくゆかりさん。
それを追って駆け出しかけて、ふと足を止める。
前上さんに確認したいことがあったのだ。
振り返ったことで目が合うと、彼は少し怪訝そうな様相をしている。それを真正面から見つめ、問いかけた。
「前上さん。あの日、シュリに何を教えたんですか?」
シュリが狂ったように叫び、髪を自ら切り落とし、オレを地下牢へ閉じ込めたあの日。
彼女の様子がおかしくなったのは、前上さんとの面会の後だ。前上さんによってもたらされた何かしらの情報が、シュリに火をつけたとしか思えなかった。
「ああ、あの日の情報でございますか」
前上さんは得心がいった表情になって、思い出すように宙に視線を遣る。
「いくつかございましたが、一番大きなものは――――」
前上さんの口から零れ出てきたもの。時間が数瞬止まった気がした。
おおよそ予想もしていなかった内容で、オレでさえ嫌悪感を覚えて。きっとシュリにとっては、何よりも耐え難い。
ふつふつと沸き上がる怒りから、強く拳を握りしめた。
前上さんにではなく、シュリを長年の間苦しめて悲しませ続けている上條代表に、強い感情が生じる。抑えきれないほどに。
あの日シュリがなぜ叫んだのか、よく分かった。叫ばないはずがない。こらえきれるはずがない。彼女のようにオレもまた叫び出したいのを、何とかこらえた。
「……ありがとうございます。行きます」
一礼を残してようやく駆け出す。
「行ってらっしゃいませ」
すると、後ろから声がかかった。
反射的に顧みると、そこには使用人として彼が過ごした年月を物語るかのような、美しいお辞儀があった。
「……行ってきます」
小さく返して、だいぶ離れてしまったゆかりさんの方へと向かう。
彼女の隣に立ったちょうどその時、エレベータの到着を知らせる軽やかな音が鳴った。
「ナイスタイミング」
彼女はお嬢さまらしからぬ調子でぴゅうとひとつ口笛を吹いて、悪戯っぽく笑った。
オレも釣られて思わず笑いながら、一緒に扉の中へと飛び込んでいく。
箱入りのお嬢さまだった頃しか知らない人はきっと、彼女の変化に大きく戸惑うだろう。
周囲にはお金持ちだらけの学校に通っていたオレにも、そういう人たちのステレオタイプのようなものはある。オレはゆかりさんのことも同じようなフィルターを通して見ていたと思う。
だけど、現実の彼女はあまりにそのイメージからはかけ離れていた。
昨日の夜。
「どうして逃げ出したんですか」
オレはそんなド直球な問いかけをゆかりさんにしていた。
彼女の方にも何かしらの事情があった。頭では分かっていたけれど、シュリが壊れた一因には間違いなくゆかりさんの駆け落ちがあって、それに対し何も思っていないわけではない。
すごく失礼なことを訊いている。自覚はあっても、答えを貰えるまで逸らすつもりはなかった。
そういうオレの様子から、真剣さを感じ取ってくれたのだろうか。ゆかりさんは苦笑と微笑ましさが混じり合ったような複雑な笑みを見せた。
「和馬と幸せになりたかったから……なんて答えじゃ、あなたは納得しないわね」
それは表面的な理由であり、ゆかりさんの心情総てを物語ってはいないはず。だから即座に首肯した。
オレの返答を見てまた苦笑いしつつも、彼女は言葉を探すようにじっと黙り込んだ。間がしばらく空き、少ししてからようやく口を開く。
「一人の人間として、どう在りたいかを考えたから。人間として生きることを……自分の足で前に進むことを、やめたくはなかったから」
目を見張ると、ゆかりさんは悲しげな瞳で笑っていた。
「梅優学園にいたのなら、龍之介くんも見たでしょう? 私が元々いた『お金持ち』の世界の人たちが、何を大切にして何を切り捨てていたのか。それは『人間らしい』と言えるものであったかしら?」
何も言い返すことができない。
それこそ偏見かもしれないこと、ステレオタイプであることは分かっている。
でも、オレの見たコンツェルンの人間たちは、地位だとか名誉だとか、そういうものは懸命に集めて守る割に、人間の愛情や絆を軽んじていたと思う。
そういう世界を、彼女は厭った。
「逃げ出したことを責められても、自分だけ幸せになったと白い目を向けられても、何も言えない。だけどそれでも……あのままじゃ、私は人であって人でないイキモノになると思って、逃げた。元が弱い人間だから」
呟きながら、ゆかりさんは和馬さんの腕の中でうつらうつらとしている和人くんを見遣る。
「それにね、何より、この子を殺すなんて私にはできなかったの」
語りながらもしっかりと組まれた彼女の指は、水仕事の結果からだとは思うが、荒れていた。そこだけ見れば、『お嬢さま』であったことが想像もつかないくらいだ。
格好もシンプルで、量販店で売っている安価なものだろうと窺えるものを着ている。
子育てだって、本来ならば世話係がやってくれていただろうことまで引き受けて、世話をしなければならない。
それはオレたちにとっては『普通』でも、ゆかりさんにとっては違ったはずの生き方。
多くの人が憧れるだろう、優雅で裕福な生活。その引き換えに失うことになっていたものを手放したくなくて、ゆかりさんは上條家を飛び出したのだ。
なあ、シュリ。沙里さんとゆかりさんに、お前は違いを見つけられたのか?
ゆかりさんの様子を思い出しながら、心の中で呼びかける。
二人とも、愛した人を追いかけて、その末に授かった大切な命を守ろうと奔走した。
シュリ。お前もきっと、気づいたんだろう? 憎んでいるはずの代表と同じことを、自分がしようとしていること。和人くんに自分と同じ思いを抱かせるだけだということ。
だから、復讐を遂げるために姉に会いに行ったのに、何の危害も加えることなくその場を去ったのではないのか。
だったらお前はまだ壊れていないよ。完全に狂ってなんかいないよ。
他に何も望まないから、オレの隣に帰ってきてほしい。
「着くよ」
階数表示を見上げていたゆかりさんが言う。
直通のエレベータだったのか、一度も止められることなく最上階まで辿り着いたようだ。程なく扉が静かに開いていく。
とうとうシュリに会えるのかもしれないと思ったら、知らず知らず鼓動が激しくなっていた。
再会の瞬間がいよいよ近づいてくると、途端に怖気づいていくのが分かる。
何と声をかけたらいい? どうやって彼女を説得したらいいのだ。どんな言葉なら彼女に届くのか。彼女の憎悪を止める資格があるのか。
息が止まりそうになって胸の辺りをぎゅっと掴んだその瞬間、背中がばしんと音を立てる。
「しっかりしなさい」
驚いて見ると、そこには叱咤するような表情を浮かべたゆかりさんがいた。
「好きなんでしょう? 本当に好きかどうか分からなくなってるんだとしても、会いたかったんでしょ? 会いたいんでしょう。だったらそれだけでいいの」
揺らぐオレをもう一度奮い立たせる、シュリとよく似た強い瞳。
「龍之介くん。あなたは、どうしたいの?」
オレがどうしたいのか、なんて、ひとつ。
シュリに会いたい。
一歩、また一歩と踏み出し――気づいたら、駆け出していた。
突き当たりには重厚な作りのドア。あの向こうに上條代表がいる。それなら十中八九、シュリもここにいる。
代表が帰る瞬間をエントランスで待ち伏せしてくるかも、とも考えたが、結局その考えは没にした。
玄関で襲撃したとしても、人が多い。警備の人たちもいることだろうし、下手をすると代表を殺せない可能性がある。そんな方法を、シュリは選ばない。
最上階まではかなりの階数がある。子供が一人でエレベータを使っては目立ってしまうし、それ以外の手段としたら階段ぐらいのものだ。やはり玄関を狙う方が現実的ではないのかとも考えたけれど、彼女の執念ならば、この高層ビルの非常階段をひたすら上ったとしても驚かないと思った。
思考の方向は外れていないはずだけど、彼女がここに現れなかったら、オレはまたツイていない記録を増やすことだろう。
でも、珍しく確信があった。
シュリがいる。気配がする。懐かしい髪の香りがした気がする。
息を弾ませながらドアの前に立って、ドアノブに手をかけた。
ドアを開けるのが怖い。いないという結末もある以上、結果を知るのが嫌なのだ。
ゆかりさんはオレにすぐに追いついたけれど、何も言わずにそんなオレの後ろに立っている。
ここまで来たいと願ったのはオレで、彼女は手助けをくれただけ。そして背中まで押してくれた。ゆかりさんはもう、きっと見守るだけ。
分かっている。オレが踏み出さなくてはならないのだ。
ひとつ大きく深呼吸をして、ドアノブをゆっくりと下ろした、その瞬間。
パァン――と、耳を劈く強烈な破裂音が轟いた。
銃声。
悟った刹那、血の気が引く。
「……っシュリ!」
声を張り上げて、ドアを大きく開け放った。
まず初めに目に入ったのは、部屋の奥にある重厚な机。窓から射し込む光に精緻な彫刻が照らされている。
その机の横に、男が立っていた。
「お父さま!」
ゆかりさんの呼び名からして、間違いなく、その人が上條現代表だった。
「ゆかり……!?」
絶縁状態のはずの娘が突然に現れた理由を、とっさには理解できないのだろう。代表は目を剥いている。
そういう彼に向かい合うようにしてドアのすぐ傍に立っている、小柄な人影。
金色の髪、薄茶の目、淡雪のように白い肌。
シュリだった。
「シュリ!!」
その姿を、オレが見間違えるはずがない。思わず呼ぶと、彼女は振り返った。
「あい、ちゃん……?」
状況が把握できていないような彼女の手には、どこで手に入れたのだろう、拳銃が握られている。
それに息を呑みつつも注視してみれば、代表の後ろにある壁に小さな穴が開いていた。先ほどの発砲音の正体の弾で、逸れてあそこに当たったに違いない。
「どうして」
明らかに動揺している彼女に、ゆっくりと近づく。
「シュリ……」
言いたいことも、言わなければいけないことも、たくさんあったはず。
それなのに、いざとなると何も言えなかった。
オレが言葉を探している間に、彼女の表情からは驚きの色が消えた。そしてまるで嘲笑うかのようなものに変わっていく。
「何、わざわざ殺されに来たの? あいちゃんも、……あんたも」
シュリが冷え切った目を向けたのは、ゆかりさんだった。纏うその空気に冗談である様子は見えない。本気なのだ。
存在を知ったのはつい昨日であるとはいえ、実の妹から向けられた偽りのない殺気。ゆかりさんはたじろいだようにしている。
「それとも何? 救世主気取り? それはご苦労さま。でも残念なことに、ぼくはあんたを殺したいほど憎んでるよ。そこにいるクズ男と同じように。だから、安心して。あいつを殺したら、あんたのことも殺してあげるから」
言いながら、シュリは手に持った拳銃を代表に向かって突きつけている。
己に向かって寸分違わず突きつけられた銃口に、代表は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
迂闊に近づいては却って状況を悪化させそうな気がして、オレもその場から一歩も動けなかった。唯一できたのは、彼女を止めたい思いのままに、ただ見つめることだけ。
でもシュリはまるでオレの姿なんて目に入っていないとでも言うかのように、もはや一瞥さえくれなかった。
「どう? 自分が今までずっと下等な存在として見てきた人間に、牙を剥かれた気分は?」
そう笑い声をあげながら、代表に視線を移して尋ねている。幼子が楽しいことを見つけ、夢中になっているみたいな笑みだった。あまりにも明るい笑顔が却って恐ろしい。
だが、上條代表は何も言おうとしない。
「まあ、いいや。聞いたところで理解できるとも、したいとも思えないし。それよりもねぇ、前からずーっとあんたに訊きたいことがあったの。後藤の前任が死んだ時にも訊いたけど、全然答えてくれなかったし」
シュリは自らの父親のそういう様子には特に動じることなく、口元だけで笑んだ。瞳は代表を冷徹に射抜いている。
ゆかりさんも、オレも、呼吸音さえ憚るようにして二人の間に流れる緊張を見ていた。
「どうして母さまを殺したの?」
その声に抑揚はない。彼女は懸命に感情を押し殺そうとしているのだとよく分かる。
しかし、隠したはずのその感情は大きすぎて、オレには伝わってきていた。
かなしい。かなしい。どうして。どうして、どうして。
誰にも拾い上げてもらえなかった感情。ずっと答えが見えない問い。
「どうして、わたしを殺さなかったの。わたしだけを生かしたの」
その問いの言外の意味がオレにはよく分かる。彼女が必死で繕おうとしているのは、もっと単純で、もっと本能的な思い。
わたしを見て。わたしを抱きしめて。貴方の子供だと認めて。
笑いかけて。それが作り物だっていいの。
どうしても笑いかけてさえくれないのならば、せめて、たったひとつ願う。
何だっていい、憎悪でも嫌忌でもいい――せめて感情を向けて。
彼女はオレと同じだった。
実の親に、そして育ての親に、ずっとずっと秘めながらもぶつけ続けた思い。
この世界にいる誰にも、親にとってさえ意味を為さない人間であるのならば、死んでいるのと同じではないかと。
先ほどまで以上に張り詰めた空気が流れる。誰一人、身じろぎひとつしなかった。
ややあって、ようやく上條代表が口を開く。
「……私の子は、そこにいる放蕩娘だけだ。だが、それとも疾うに縁を切った。つまり私にはもう子と呼べる者はいない」
今にも泣きそうな表情を浮かべているゆかりさんに一度だけ視線を向けつつ、代表は冷たく言い放った。
「つまり、お前とも、お前の母親とも、私は一切関係がない。そんな私がお前の母親が死んだ理由なぞ知るはずがないだろう」
聞いた瞬間、体の力が抜けるようだった。
この男は何も知らない。知ろうとしない。シュリが望んでいることはたったひとつで、オレでさえ簡単に分かることなのに。
「じゃあ、小池沙里はどうしてあんたに殺された!? わたしはどうして自由を奪われた! 戸籍さえ与えられない! 生きているのか死んでいるのかも分からないような存在にされて!! 殺してももらえないでッ……!!」
それは絶叫。
彼女のこんな悲愴な声を、オレは一度だって聞いたことがない。
シュリに駆け寄って止めたい。その気持ちで来たのだから動けばいいのに動けない。駆け寄りたいくせに、駆け寄りたくないのだ。
オレにも間違いなくあるから。母親を、父親を、育ての両親を憎悪する感情が。
憎む彼らが目の前にいる代表に総てダブって脳内でぐるぐると回転して、自分が巨大な渦の中に飛び込んでしまったかと勘違いするほどに視界も回転して、嘔吐感が止まらない。
そんな奴など殺してしまえ。殺してしまえ、殺してしまえ、殺せ! そうすればシュリもオレ自身も楽になる。悪魔が囁く。
やめろ、と声を上げたくても、何をやめてほしいのかすら判断できなくなっていく。
彼女は体を震えさせながら、けれど懸命に両手で拳銃を支え、銃口だけは正しく代表に向けている。致命傷に命枯れようとしてもなお生きようと、最後の砦にすがりつく兵士のように。
「何のために、将来、確実にあんたを脅かすって分かってたはずの存在を生かした!? それも中途半端な方法で!! 答えろ!!」
詰め寄るシュリの姿が痛々しくてたまらない。激しさを増した胸の痛みを抱えながら、一縷の願いを込めて代表を見る。
しかし、当の彼は、必死になって言葉を紡ぐシュリを醒めた態度で眺めているだけだった。
「小池沙里? ……ああ、あの愚かな女か」
違う。シュリが求めているのはそんな答えじゃない。
それに、『不倫』という手段しかとれなかったことを愚かだというのなら、あんたも同じだろう。
「飲み屋の女が、金に目が眩んでか知らんが、私を惚れさせようと策を弄した。その策に自ら溺れ、勘違いしただけだろう。私は一度たりともあの女を愛しいなどと感じたことはない」
自分は悪くないと、何もかもを誰かのせいにして逃げてしまう。こういう人物たちのお得意の手段が、オレは嫌いだった。
実父は酒。実母は狂気。養父母は、そんなオレの実の両親を逃げ道にした。
そしてこの人は、沙里さん。
自分は悪くなくて、総ての責任は沙里さんにあるのだとしか言わない。あんたは、そうやって逃げれば済むのかもしれない。
でも、じゃあシュリは?
あんたたちの子供であることから逃げられないオレたちは、いったいどうしたらよかったんだよ。
「いい加減にしろよ!!」
気づいたら、叫んでいた。
ばたばたと涙が散って、落ちていく。
胸だけじゃない、体中が痛めつけられたかのように痛い。痛くてたまらないよ。
この痛みは、地下牢へと幽閉される直前と同じようにシュリとオレの意識がリンクしているせいなのか、それともオレ自身の痛みなのか。思いながらも、もうどっちでもよかったし、どっちでもあるのだと思う。
「母親が殺されたのに自分は生かされた訳を訊こうとしてる理由なんて、単純だろ!? 考えなくたって分かるだろ、それぐらい!!」
もうやめてくださいお父さま、と消え入るような声で零しているゆかりさんは、分かっている。赤の他人のオレにだって分かる。
「あんたにただ、娘だって認めてもらってるって証明が欲しいから……! どんなに憎んでも、恨んでも、殺したいと思ってても! たとえ矛盾してたって、それ以上に、あんたを愛してるから! 娘だから殺せなかったって、そんな単純な一言が欲しくて欲しくて欲しくて!! あんたにただ謝って、抱きしめてほしかったからだろうが……ッ!!」
必死で叫んだのに、上條代表は眉ひとつ動かさず、まるで汚物を見るような流し目を寄越した。
「突然現れて何をぎゃあぎゃあと……」
オレの思いは、届いていない。この人には届かない。
瞬間的に頭の中が真っ白になった。沸き立つ怒りのままに怒鳴りそうになって、何とかこらえる。
その時だった。
「もういいよ、あいちゃん」
割り込んだ静かな声は、紛れもなくシュリのもの。
彼女の目の端には、大きな雫が溜まっている。今にも重力に従って流れ落ちてしまいそうなほどに。
「知ってたの。分かってたの。この人がぼくを……『わたし』を、絶対に受け入れることなんかないって。だってこの人が見ているのはただ一人だから。そこにいる人でも、母さまでもない」
シュリが訥々と語る言葉の意味が分からずに惑う。
「シュリ……?」
不安になって呼ぶも、彼女は応じず、ただただ澄んだ笑みを浮かべていた。清らかと言い換えてもいいほどに。いつかお伽話で見た、死者をあたたかく迎えに訪れる天使がごとく。
彼女はそんな表情のまま、下ろしていた銃口をすっと持ち上げ、代表に向けて、そして――
「ばいばい、『龍之介』」
轟くのは、鋭い音ひとつ。
たったひとつの音が、空気を割るように思えた。映画で聞くような、ついさっきも耳にしたあの音。
待て、と言う暇さえ与えられなかった。
遅れて赤色が弾けた。嘘みたいに綺麗に。
まるで、散れていく花弁みたいだ。現実から目を背けようとする頭が、そんなことを考えている。
どさり。人が床に崩れ落ちていく様子が、膜を張った向こう側の世界での出来事であるかのように思えた。
代表が撃たれて、血飛沫を舞わせながら倒れて、そして床にまで赤い液体が広がっていく光景が目の前に広がる。
ああオレは止められなかった。でもいいじゃないか。こんな奴、生きていたところでシュリを苦しめるだけで、今までだって酷く痛めつけて。
娘だと認めることさえしない、血も涙もない、人間の情なんてないのではないかという男なんて、死んでしまったって構わなかったじゃないか。
「珠里ちゃん――ッ!!」
そんなオレの思考を遮るかのように、ゆかりさんの悲鳴が迸った。
違う。違う。違う。
蜂蜜色が緩やかな弧を描いた様子を、オレはこの目で見ていた。ごとん、と鈍い音がして、拳銃が床を滑っていくところも。傷ひとつない姿の憎い男が、何も分からず呆然と一連の様子を見ているのも、今まさに目前にしている。
代表が倒れた、なんて、オレが抱いた都合のいい夢想。そうであってほしかったがための幻視。
倒れたのは、シュリだった。
シュリの着ていた白いワンピースが、じわじわと毒々しい赤色に染まっていく。名を呼びながらゆかりさんがシュリの方へ駆け寄っている。
だけどオレは動けなかった。何も受け入れたくなかった。
シュリが、死ぬ?
「……ぁ、」
そんなの嫌だ認めたくない待って、オレはまだお前に何も伝えていないのに。
駆け巡る衝動のままに咆哮しそうに喉を押さえて体を折り、何とかこらえる。
そうしたことでふと目に入ったのは、シュリの手から落ちたらしい、一丁の拳銃。
オレの内側で何かが弾けた。
身を屈めて、足元に転がっていたものを拾い上げ、代表に向ける。
生涯で一度もこんなものを持ったことがないオレだ。構え方なんて知らないし、銃口が震えている。
一時に起こった出来事に呆然としたままだった代表が、はっとしたようにオレを見た。
「龍之介くん、駄目!!」
ゆかりさんが視界の端で悲鳴をあげる。
それでもオレの感情は止められない。溢れ出す怒りのまま、小刻みに揺れる指を、引き金に掛けていた。




