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光、寄り添う

 この監獄のような白い家に連れてこられた時と同じ服を身に纏う。

 すっかり身に馴染んでいたはずの制服だったのに、今ではとても異質なものに思えた。

 最近はスウェットのようなものしか身につけていなかった上に、卒業式には出られなかったものの、とっくに卒業しているはずの中等部の制服だからこその違和感だ。

 とはいえ、他に外に出られるような服がないのだから仕方ない。後藤さんのものはオレには大きすぎた。

 靴を履いていると、後藤さんが何かを手にして近づいてきた。立ち上がって振り返りながら目を瞬かせると、何かを押し付けられる。

「相川さま、これを」

 それは財布だった。

 シンプルな作りだが、革のもたらす感触からして相当にいいものだと思う。加えて、ずしりとした重さがやってくるということは、中身もしっかり入っている。

「これは……?」

 戸惑って見上げると、彼はいつもの無表情で告げた。

「私の私物です。お使いください」

 目を見張ったが、「お使いください」と繰り返されるだけ。

「お金がなければ何もできません。悲しいことですが」

 確かにオレの持ち合わせている金は微々たるものであるし、もらっておいて損はない、とは思う。しかも後藤さんの様子からして、受け取らないという選択肢はなさそうだ。

「……ちゃんと返します」

 だが、貰いっぱなしというのも気が引けて、それだけは告げる。

 後藤さんは首を振った。

「返していただかなくて結構です。罪滅ぼしのひとつとお考えください。もちろん、これだけで償えるなどと存じませんが」

 そう言われてしまえば、頷くしかなかった。

 この人に対し、オレには何ができるのか。何をしてあげられるのか。そんなことは自明だ。

 ――あいちゃん。

 弾けるような笑み。妖しい微笑。驚くほど無垢な涙。シュリのあらゆる表情が頭をよぎっていく。

 本当はオレ以上に後藤さん自身が捜しに行きたいだろうに、それでもオレに捜索を託すのは、どれほどの心の痛みだろうか。

「必ず、見つけます。あいつを」

 上條本家から何か連絡があったときに備え、彼にはここにいてもらわなければならない。シュリはどこにも行っていないと装うために。

「どうぞよろしくお願い申し上げます」

 深々と頭を下げた彼にまた頷いてから、シュリが出ていく時に置いていったらしいカードキーを鍵穴に挿し込んだ。

 ピッ、と小さな電子音。間もなくドアノブの引っかかりがなくなる。扉が開く。

「どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ、相川さま」

 背後では、ゆっくりとドアが閉まっていく気配と共に、後藤さんの声がしていた。



 外だ。

 家の中があまりに静かすぎたせいで、ドアを潜り抜けた途端に耳に飛び込んできた音の洪水に耳が痛くなる。

 しかも、オレが閉じ込められた日は、雪が降り芯から冷え入るくらいに寒かった。でも今はとても暖かい。さすがにコートは要らないだろう、と置いてきて正解だった気がする。

「……どうしよ」

 見つけます、などと大見得を切って出てきてしまったが、手がかりはほとんどないと言っていいのだ。

 最終的な目的であるはずの上條代表の傍で待ち伏せするのが一番確実なのだろうが、それはつまり上條の本宅やオフィスにいなければならないということ。生憎、オレにはそんなところに入れるようなコネがない。

 考えたところでどうせ解決策はないし、少ない手がかりから推測していくしかない。

 一番有力かつ調べやすいものといったら、やはり爆破事件だろう。

 後藤さんによると、その現場は点在しているが、だいたいは都内の施設に限られているらしい。

 オレはそれを聞いて少し安心した。全国各地に広がっていたら、正直発見できる自信はなかったのだ。

 だが、ある程度は限定されたとはいえ、それでも範囲が広い。闇雲に探したところで見つからないだろう。

 だから、オレが彼女ならどこへ向かうだろうとしばらく考えに耽ることもしてみたが、結局のところはこれという答えは浮かばなかった。

 ――あいちゃん。

 彼女の呼び声が再び耳に木霊こだまする。

 拳を握りしめ、後藤さんから預かったシュリの写真を見た。

 去年の誕生日に撮ったものであるということで、大きなケーキを前にしながら、レンズに向かってピースマークを作っている。そんな彼女は――笑っていた。

 それを見ながら、オレは心中で呼びかける。

 シュリ。お前の人生は、本当に不幸のみに塗り潰されたものだったのか?

 幸せばかりが存在したとは思っていないし、これからもきっと思えない。でも、この時の彼女は、確実に笑っていたのに。思わずこちらにまで笑みが浮かびそうなほど明るく。

 現在の彼女のものよりほんのちょっとあどけないその笑顔を目に焼きつけてから、写真を持って歩き出す。

 まずは最初の事件があった場所へ。そう考え、村田本社に足を向けることにした。

 爆発の時、凄まじい衝撃がやってきて当然だった。オレがついさっきまでいた監獄みたいなあの家は、コンツェルンのビル群からさほど遠くないところにあったのだ。

 本社を中心として同心円状に広がる高い建物たち。空に届いているのではないか、とくだらない錯覚をさせられるようだ。

 一番近くに存在した停留所からバスに乗り込み、揺られること数十分。ようやく見えてきた建物が、村田本社ビル――いや、本社ビルだったもの、だった。

 その姿は、オレのよく知る荘厳な雰囲気を纏ったものではない。事件の傷痕がまだ痛々しく残っている。

 それも当然だ。たくさんの人が傷ついただけではなく、果てには亡くなったのだ。簡単に立ち直れるほどの傷ではない。

 瓦礫や割れたガラスなどは綺麗に片付けられていたが、捜査や後処理をする人々や重機がひっきりなしに出入りし、物々しい気配である。

 あの爆発の瞬間、シュリはいったいどこにいたのだろうか。

 もし、オレが彼女であったなら。自分の憎悪を向けるものが願い通りに壊れていく様を、直接目にしたいと思うに違いなかった。

 事件当日、この辺りにはたくさんの勤める人たちがいたはず。彼女もオレと同じように考え、村田本社の近辺に出没していたのなら、その中の誰かしらは彼女を目にしていたのではないか。

 何百人といるだろう社員の中から探し出すなど雲を掴むような話だけれども、それしか思いつかなかったのだ。

 思い立ったが吉日である。行動しなければ始まらない。

「すみません、お伺いしたいのですが」

 周囲を確認してから、ちょうど近くを通りがかった男性に声をかけてみた。正直緊張するし、不審がられたらどうしようかと不安になるが、そんなことも言ってはいられない。

「はい?」

 怪訝そうながら足を止めてくれたその人に丁寧にお礼を言い、ブレザーの内ポケットから写真を取り出す。

「突然にすみませんが、この子をご存じないか伺いたくて。オレの……妹、なんです。あの爆発の日以来行方不明で……。今は髪が短くなっているんですけれども、お見かけになりませんでしたか」

 『妹』は嘘でも、それ以外は真実であるから、リアリティはあったと思う。

 スーツ姿に疲労の色を濃く浮かべている男性だが、人のよい人物であったのか、嫌な表情は浮かべていない。むしろ同情するように気の毒そうな顔をしている。写真に落とされている目線に僅かな希望を持って見つめるも、彼は一拍置いて予想通りに首を振った。

「ごめんね、分からないな。こんなに綺麗な子なら、一度見たら忘れないと思うけど、記憶にないから」

 申し訳なさそうな調子で言ってからもう一度「ごめんね」と付け加えてくれるその様子は、本当に親身になってくれようとしてくれているみたいだった。

 世界は冷たい。それは本当だと思う。

 だけどこうして気まぐれにあたたかさを示すのだ。本当は捨てたものなんかじゃないのだと。

 こうしてオレや、シュリのような人間を惑わしていく。

「いいえ……! こちらこそお時間を頂いてすみません、ありがとうございました」

 心からの思いを込め、深く頭を下げる。怪しまれても当然なのに、丁寧に対応してくれただけで充分だった。

「ううん、力になれなくてごめんね。見つかるといいね、妹さん」

「ありがとうございます」

 もう一度頭を下げて、立ち去っていく彼を見送った。そして吐息をつく。

 途方もないことだけど、これを繰り返すしかなさそうだった。

「……よし」

 覚悟を決めるように一度拳を強く握りしめ、通りがかっていく人たちにオレは一人一人声をかけて尋ね回った。

 だけど当然のこと、情報を持っている人にはなかなか出会えなかった。

 最初の男性のように対応してくれるならまだしも、冷たくあしらわれるのも普通。一日でも早く今の惨状から抜け出すために駆け回っている人たちだとしたら、忙しくてオレの相手などしている場合ではないのをよく分かっている。分かっていても、落ち込んだし焦った。シュリの姿がどんどん遠くなっていく気がした。

 声をかけた人数が、両手の指を追って数えたら三往復を超えた頃だ。

「あの……」

 数えるのも嫌になるくらいの空振りを繰り返し、ため息をついてがっくりと項垂れていたオレは、その声に対する反応が少し遅れてしまった。

「はい!?」

 驚いて声が大きくなり、相手のことまでも驚かせてしまったらしい。飛び上がる細身の女性の姿を見て、ようやく状況を把握した。

「す、すみません……」

「いえ、こちらこそ驚かせちゃったみたいで」

 お互いにぺこぺこと謝って、ようやく話を本題に戻すことができそうな雰囲気になった。

「オレに何か……?」

 見覚えのない顔だったから、今までオレの方から声をかけた人たちの一人というわけでもない。どうして声をかけられたのか分からなかった。

「人探しをしている人がいるって聞いて……あなたですか? 金髪をした、綺麗な女の子の」

 思ってもみなかった言葉に、オレは何度も首を縦に振った。

「そうです、ご存じですか!?」

 写真を見せてくれと彼女が言うので、持っていたものを手渡す。

「ああ、やっぱり……知っています、この子。私が見たときは、髪はもっと短かったけれど」

 ようやく見えた光明。大きく息を呑む。

「私、あの日、怪我人の確認などをこの辺りでしていたんです。この子は大きな笑い声をあげながら、そこの路地を抜けて向こうの方に。周囲が悲鳴や泣き声ばかりの時だったから結構目立って、それで覚えていたんです」

 彼女の取った行動のひとつがようやく分かった。それと同時に、あの状況で笑っていたと聞いて不安な思いも湧いてくる。

 シュリ。

 何度目か分からない、届かないだろう呼びかけ。

「さっき同僚の何人かにも確認したら、覚えている人がやっぱりいたわ。まだ混乱の少なかったところの停留所からバスに乗って、どこかに向かったみたい」

 ここから、別のどこかへ。考えを巡らせてはみたけれど、悲しいかな何も浮かばず、とりあえず確認するべきことを尋ねた。

「どちらのバス停ですか?」

「秋月グループ本社近くのだった、と」

 秋月。六家ある村田第三傘下の一角だ。

 上條でもなく、宮苑でもなく、秋月。その傍から乗ったことには何か意味があったのだろうか。

 単純に、本社に近い上條や宮苑の辺りのバス停が機能していなかったのかもしれないが。第三傘下は中心部からはかなり離れている。実際にシュリが乗ることができたのなら、その辺りのバスは当時まだ動いていたのだろう。

 何にしても、今考えても分からないことである。

「どこに向かったか……までは、さすがにご存じないですよね……」

 駄目元で質問を重ねた。

「ごめんなさい。私も訊いてみたけれど、そこまでは分からなかったの」

 申し訳なさそうに眉根を寄せるので、オレは慌てて首を振った。ここまでしてもらったのに、謝ってもらう必要性なんて微塵もない。

「いえ! バスに乗ったという情報を頂けただけで充分です……!」

 該当のバス停が、あまり多くの路線の通るバス停ではないことを祈るばかりだ。

 あとは自分で考えよう。バスに乗ったシュリが、どこへ向かって、何をしようとしていたのか。

「ありがとうございました」

 深く一礼すると、女性は励ますように笑みを向けてくれてから、去っていった。

 その姿を見送ってから、オレも秋月までの道のりを進み始める。

 目的地までは、歩いたらかなりの時間がかかる。でもいちいちバスに乗るのも勿体ないし、何より、彼女があの日歩いただろう道を辿ってみたかったのだ。

 意気込んで歩き始めたところまではよかった。

 しかしオレは気づいていなかった。自分の体力が衰えている、ということに。

 直近の二ヶ月ほどを監禁されて過ごしていたオレは、まともに運動なんてしていなかった。当然、筋肉は落ちている。ただ歩くだけなのに、監禁前の半分くらいの時間で疲れ始めた。

 素直にバスを使えばよかった。後悔し始めた頃、遂に『秋月グループ管理棟前』という簡素なプレートが見えて、オレは心底ほっとした。

 ここが先ほど教えてもらった停留所だろう。村田本社からは最短距離だ。

 路線図をじっと見つめ、ここを通るバスの向かう先がいくつあるのかを確認する。予想通りひとつではなかったが、彼女は村田の中心部から来たのだから、そちらに向かうものは除外できる。

 後藤さんから聞いた話を思い出しながら、彼女が目指していた先を必死で予想する。

 どこだ。シュリはどこに向かおうとしていて、何をしようとしていたのか。これまでにいくつもヒントは貰ったはず。考えろ。考えろ。



   ――愛情を求めて彷徨って――


   ――珠里お嬢さまが顕著に壊れ始めたきっかけは――


   ――なおのこと怒りに駆り立て――



 ばらばらだったパズルのピースが、一気に填まっていく感覚があった。

「ゆかりさん……」

 どうして今まで気づかなかったのだろう。姉のゆかりさんだって、シュリにとっては憎悪の対象じゃないか。

 彼女は無事なのか?

 思いついてしまうといても立ってもいられなくて、懸命に頭を回転させる。

 現在のゆかりさんが住んでいる場所は、いったいどこだ。考えながら、路線図を見直す。

 やはり、都心ではないだろう。現在の旦那さんとの出会いの場所がどこなのかは知るはずもないが、オレの予想ならばゆかりさんの学校周辺。

 結婚前の彼女は、箱入りであることで有名だった。家から学校、学校から家、黒塗りの車を横づけにして、一日の例外もなく送迎されていたと聞く。

 そういうゆかりさんがある程度自由に動けたとすれば、学校だろう。

 上條の人間が多く通うのは、オレが中学校生活を送った学校である、梅優ばいゆう学園。梅優は村田一族が経営する私学だ。

 もうひとつ、快桜かいおう学園という学校があって、こちらは宮苑の子息子女が多く通う。

 どちらも、幼稚舎から小中高、大学までの一貫教育が受けられる、俗にいうお金持ち学校だ。村田が所有する学校の中で、このふたつが学力的にはトップである。

 だが、彼女が通っていたのは梅優でも、もちろん快桜でもなかった。共学であることが上條代表の眼鏡に適わなかったのかもしれない。

 村田が経営するもので、トップ校二校と並ぶくらいに有名な学校があった。

 梅優や快桜は、家柄よりは割に学力が優先されるし、特待生制度も充実しているから、オレのような一般家庭出身者も少なくない。

 一方、その次点に置かれる男子校と女子校は、学力よりは家柄に重きを置くようだった。上條としての地位や名誉に固執しているらしい代表が好みそうなものだ。

 テレビで見かけたゆかりさんは、大抵の場合、その女子校である桃夭とうよう学園の制服を着ていた。

 確か桃夭は、郊外に位置する仲社なかやしろという市にあるはずだった。

 そこに向かう路線は、この停留所を通っているだろうか。緊張で上手く定まらない視界の中で、仲社か桃夭の名前を探した。

間もなく、見つかったその名前。


 『桃夭学園前経由、仲社駅行き』。


 出会った場所が確定しているわけではないし、そもそも出会った場所の近くに旦那さんが住んでいたとは限らない。もし仮にそうだったとして、引っ越していないとも限らない。

 だけど、これだと直感的に思った。

 シュリの影を追うように、しばらくしてやってきたバスに乗り込む。停留所の数を確認すると、到着までには時間がかかりそうだ。

 それなら少しの間だけだから、と目を閉じると、疲れていたのかすぐに眠りに引き込まれてしまう。

 次に気がついた時には、バスの車窓から駅のような建物が見えた。窓に張りつくようにしてそれを見てから、がっくりと肩を落とす。

 何というか、オレはやっぱりオレだった。さすがというか、とことんついていない。今回の場合は運がないというより、この状況を予想しなかった自分が悪いと分かってはいたが。

 桃夭学園前では降りられず、どうやら終点の仲社駅までたどりついてしまったらしい。

 ため息をつき、仕方ないと折り合いをつけてそこで降りた。

 日が暮れ始め、帰宅時間であるということも手伝って人は多い。さてどうしようか、と頭を搔いて、ふと自動販売機が目に入った。見慣れた飲み物のラベルを見て、自分の喉がからからに乾いていることを初めて自覚する。

 そういえば、あの家を出て以降、水分を含めて何も口にしていなかった。とりあえず少し休んでそれからまた考えよう。

 すると今度は、引っ張り出そうとした財布を取り落とし、小銭をばら撒いてしまった。

「はあ……」

 もう本当に、ツキというツキに見放され続けている人生であるが、ぼやいても仕方ない。忙しく通りすぎる人たちに手を踏まれそうになりながらも、落としたものを回収していく。

 最後に残っていた十円玉を手にした、その瞬間だった。

「あっ……! 和人かずひと、駄目!!」

 カズヒト?

 振り返る時間もなかった。どん、という衝撃が腰に訪れ、オレは前のめりに倒れ込んだ。財布が手から離れ、せっかく拾った小銭が再び散らばる。

「申し訳ありません!! 大丈夫ですか!?」

 若い女性の声が聞こえる。

 たいした衝撃ではなかったのだが、しゃがんでいて不安定な姿勢だったため、バランスを保つことができなかったのだ。打ちつけたところがじんじんする。

てててて……な、何とか……」

 女性の声に応じて起き上がろうとするも、背中が重くてできない。

 振り返って見れば、オレの背に乗っていたあどけない表情の男の子と目が合った。

「子供……?」

 一歳か二歳ぐらいといったところだろうか。母の従妹夫婦の息子、つまりオレの再従弟が今より更に幼かった頃の姿と重なる。

「こらっ、和人……! お兄さんにぶつかってごめんなさいは? 転んだら痛いでしょう!」

 先ほどの声の主であったらしい女性が男の子を抱き上げ、怖い顔を作った。

「……めんねぇ?」

 おどおどとしたたどたどしい口調と、少し怯えたような上目遣い。ごめんねと言いたかったのだろう。

 しゅんとしているところから見て、ちゃんと反省しているのだと思う。きちんと躾けられているいい子だと思った。

「大丈夫だよ」

 笑って頷いてみせて頭を撫でると、男の子はぱっと表情を輝かせた。

「本当にすみません、お怪我はありませんか? うっかり手を離してしまって……」

 子供を抱いたまま、若い女性は申し訳なさそうに繰り返し謝る。まだ二十歳そこそこに見えるが、恐らく母親なのだろう。

「いえ、車じゃなくてオレでよかったです。出入り多いですから」

 バスやタクシー、送迎の車などでいっぱいだ。この子がもし道路に飛び出していたら、と想像すると、他人事ながらぞっとする。

「ありがとうございます……あっ、財布が!」

 ほっとしたように雰囲気を緩めた彼女の言葉に、オレもその時になって改めて思い出した。

 もう離さないように、といった様子で子供の手をしっかり握りながら、女性は小銭を拾ってくれている。

「却ってすみません……」

 恐縮して小さく言えば、「この子が突進したせいですから」と笑顔で返される。

 何と言うか、その場にいるだけで空気を明るくするような人だと思った。もう薄暗い時間帯なのに、この辺りだけやけに華やいで見える。

 手伝わなくてはと思ったのか、男の子は財布を拾ってくれている。

「ありがとう」

 差し出されたそれを笑って受け取ると、はにかんでいた。

「あれ、その財布……」

 見届けたらしい母親は、子供を再び抱き上げようとして、オレの手の中の財布を見た母親がわずかに目を見張る。

 戸惑うと、彼女は笑った。

「あ、ごめんなさい……ちょっと懐かしくて。私が昔、後藤に……あ、知り合いにあげたのと同じものだったので」

 集めたお金を小銭入れの方へ入れてくれていたけれど、そちらよりも言葉に気を取られたオレは、反応できなかった。

 この人は今、何と言った?


 「後藤にあげた」。そう言ったのか。


 勢いよく顔を上げて、初めて真正面から彼女の顔を捉えた。目を瞬かせているこの女性の顔は――どこか、シュリと似ている。

「あら、よく見たら梅優の制服だ。知り合いが通ってたんです。これまた懐かしい」

 にこにこと笑んでいるこの人は、もしかして。

 心臓がどくどくと激しく胸を叩いている。

 待て、まだ決まってはいないのだから。自分に言い聞かせながらも、ほとんど確信を得ていた。

「――――……不躾にすみません。貴女のお名前は……?」

 オレの予想が正しければ、この人の名前は。

 きょとんとしていた女性は、質問の直後、オレを不審な人物かどうか見定めるようにじっと見つめてきた。子供を守るようにしっかり抱きしめているところからしても、どうやら思いきり疑られてしまっているらしい。

「オレは相川龍之介といいます」

 この人に今逃げられてしまったら、永遠にシュリの手がかりを失うことになる。焦燥感から早口になってしまいそうなのをどうにか宥めた。

「大事な人を探しているんです。貴女がもし、オレの思った通りの人なら。その人について、何かご存じかもしれない」

 総てが曖昧で、怪しまれても仕方がない。それでも必死に言葉を紡いだ。勇気をもらおうとしていたのか、気づいたら後藤さんの財布を握りしめている。

 彼女の視線が刺さる。

 この人は賢い人だ、と思う。

 いつでも逃げ出せるような態勢。防犯ブザーらしき機械に添えられた手。でも、何の話も聞かずに騒ごうとは思っていないことが分かる、真偽を確かめるような瞳。

 それら総てが、この人の人柄を示している。

 さっき転んだ時に擦り剥いた手のひらが、ひりひりと痛んだ。

 ややあって、女性が口を開く。

「……その、財布。見せてもらえませんか?」

 戸惑いながらも、差し出された手にそっと置いた。

 お金に興味はないらしく、彼女は薄い折り畳み型の財布を開いて、小さな紙片を取り出している。どこに入っていたのだろう。札入れや小銭入れには少なくとも見かけなかったのだが。

「……『相川龍之介様に、どうか御力をお貸しいただきたく存じます。後藤慎』」

 読み上げるようにしつつふと笑んだ彼女に、ますます戸惑う。

「しかも私が悪戯でした落書きの紙に……用意周到だこと。慎重な後藤がやりそうなことだわ。彼と知り合いだったのね。あなたのこと、信用します」

 状況が把握できないで面食らっているオレに、彼女はくすくすと笑った。

「その財布は、幼い頃に私が後藤に贈ったものなの。私と彼しか知らない隠しポケットがそれにはついてる。あなたのために、伝言を記しておいたんでしょう」

 真正面から視線を向けられてまた戸惑うオレに、彼女はゆっくりと説明してくれる。

「隠しポケットだけならあなたが見つけた可能性はあるけれど、財布を渡したときに私が悪戯描きをして入れておいた紙の裏に、後藤の字で書かれていたら疑いようもないわ」

 オレは驚いて財布を見た。

 ――私の私物です。お使いください。

 お金がなくては、と渡してきたものだった。でももしかしたら、本当は彼女の語る意味合いの方が強かったのかもしれない。後藤さんに心から感謝した。

「私は、秋月ゆかりです。あなたが聞きたいこととは何かしら?」

 ああ、とうとう、総てが繋がった。村田を攻撃した後に、どうして秋月に向かったのか。

 やはりシュリは、この人物の影を追いかけていたのだ。

 秋月ゆかり。


「貴女の旧姓は――『上條』、ですね?」


 旧姓、上條ゆかり。

「ええ。その通りです」

 オレの問いに答えて寂しげに笑う彼女こそ、オレが会いたかった人。

 不幸の申し子に対しても、神様はこうやって気まぐれに幸運を放り投げていくから。オレはどうしたって憎みきれないのだ。

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