潰えた光はもう二度と
後藤さんの口から語られた沙里さんとの過去のやり取り。沙里さん、そしてシュリに共通する秘密の力。沙里さんの最期。
シュリは心が読める。それを知って驚くと同時に、納得してしまった。
テレパス。
言葉で表現されなくとも、第三者の考えが伝わってくるテレパシーという能力がある。テレパスとは、それを使える人。
どれぐらいの人たちが信じているのかは分からないが、そういった話が世間に存在することを知っていた。
心当たりならいくつもあった。
両親との過去を離した時、彼女の幸せを願ったオレに、彼女は叫んだ。自分の幸せを見つけてくれと。オレは口にしなかったのに。
そして、ラプソディ・イン・ブルーを初めて一緒に聴いた時。彼女に恐ろしさを感じた事を、シュリは楽しそうに笑いながら見抜いた。
それだけならきっと、勘がよければ分かることであるといえばそうだけれど、彼女はオレのように分かりやすく表情に出ない後藤さんの思考さえ読み取っていた。
何より、後藤さんの目は、嘘を言っているようには見えなかったから。
だからこそ、語られたそれ以外のことについても、間違いなく事実であるということで。
黙ってしまっているそんな彼に対し、尋ねなければならないという思いはあるが、やはり訊きたくなかった。
オレに訊かれない限り、この人は話せない。そう分かっていても。
「沙里さんは……お姉さんは、代表に殺されたんですか……?」
こんなにもおぞましいこと、口にしたくない。
けれど彼に何者かを問うたのはオレで、そうする責任があると思った。
間違いなく、シュリが父親である代表を、ひいては上條を恨むことになったきっかけなのだと思うから。
「そうです」
後藤さんの声は、完全に感情が抜け落ちて、まるで機械のようだった。
「嫌な予感がしていたのでしょう。姉は自分の生家に近しく、同時により本家や世間に対しての影響力を持った宮苑分家に、自分とお腹の子の保護を求めていました」
その時の状況からして、沙里さんはご両親に頼ることはできなかった。後藤さんのことは信頼していたに違いないと話を聞いている限りは思うけれど、彼だってまだ当時は高校生であり、そういった意味で頼るわけにはいかなかっただろう。
後藤さんも歯がゆかっただろうと思う。沙里さんを取り巻くものたちに不安を感じていても、何もできなかったのだから。
そして結果的に、沙里さんは亡くなってしまった。
「しかしその要請は、『子が上條の血を引いている』という理由で黙殺されて。どうしようもなくなった姉は、危険を感じたままでも懸命に産んだ赤ん坊を奪われ、上條代表の息がかかった人間に殺されました。出産による自然死を装って」
強く強く握りしめた彼の拳は、ぶるぶると震えていた。
どれだけの涙をこの人は流し、どれだけ沙里さんを想って嘆き悲しみ、叫んだのだろう。
「『上條代表の様子が最近おかしい。わたしは上條代表に殺されるかもしれない。宮苑に守ってほしいと頼んでみたけれど、協力は得られなかった』――姉の死後、そのような内容が記された手紙が俺の元に届きました」
大切な人が、盲目的なほどに愛していた相手の手によって殺される。その事実を知って湧き出た憎悪や苦しみを、完全には理解できない。でも、片鱗ぐらいなら想像することはできる。
「姉の死の真相を知ったその日、俺は誓った」
彼のその『誓い』が、心の奥底から湧き出てきて当然であるものだということを。
「必ずあの男に復讐する、と」
彼の本当の心が剥き出しになって、オレを襲った。
「沙里さんを……愛してたんですね。家族や姉として以前に、女の人として、深く」
――頭おかしい、結構じゃない? 愛を囁く人間たちなんてだいたい皆狂ってるんだから。
いつかのシュリの言葉が頭をよぎっていく。
「…………はい……」
凍り付いていた彼の纏う空気が震え、今までで一番顔が歪んだ。いろいろな感情が混じり合った複雑な表情。湧き出る思いからか震える体。
それを見て、何となく悟る。本来の彼は今のように何もかもを押し殺したような人間ではなく、もっと感情豊かに動き回る人だったのだろう。自由に泣いたり、笑ったりしていたのだろう、と。
壊れてしまったきっかけは、言うまでもない。
彼もまた、愛によって狂った一人。
「だから貴方は、シュリを復讐に利用したんですね」
オレの目から溢れ出た雫が、重力に逆らえずに頬を伝って床に染みを作る。
彼にとっての『一番』は、シュリじゃない。沙里さんなのだ。
「――そうです」
こんな時まで、彼は嘘を言おうとしなかった。沙里さんもシュリも嘘で騙せなかったからだろうけれど、オレは違うのに。いくらでも誤魔化せたはずなのに。
でもだからこそ感じさせる、沙里さんへの想いの純粋さや強さ。
「不倫をしていた沙里姉さんも悪かったかもしれない。でもそれなら、代表だって同じはずだ。同じ罪を抱えていたのに、あいつは自分勝手に姉さんを殺した」
これほど真っ直ぐな想いなのに、どうしてじくじくと胸が痛むのか。
いや、むしろ真っ直ぐさ故なのかもしれない。
「それなら俺も、いくら誰かに罵られようと、自分勝手に復讐しようと思った」
十年以上もの長い間、復讐心が彼を突き動かしてきた。愛する人を喪って色を失くした世界の中で、彼が生き続けてこられた理由だっただろう。
「高校を出てすぐ、俺は上條本家の使用人になりました。ちょうど空きが出ていたのです。天も俺に味方していると思った。面接を受け、無事合格して、あいつの元に転がり込むことに成功しました」
復讐を遂げるために、最も身近なところへ。
「それからの二年間は、ひたすらあの男に気に入られることに徹しました。あいつは優秀な人材ならば評価し、それなりの扱いをしてくれる。難しくはありませんでした。そうして取り入れば、最高機密になっているだろう珠里お嬢さまの情報を集められると思った」
沙里さんが産み落とした子供の情報を得たかったのは、その存在を利用したかったから。後藤さんは否定しなかったし、きっと一面ではあるのだろう。
でも、本当にそれだけだったのだろうか。
――……わたしに何かあったら、この子をよろしくね。
沙里さんとの最後に約束を守ろうとしていたのではないのか。
「そのおかげか、二十歳になると同時に、お嬢さま付きになることができました」
何か言いたげなオレに気づいたのだろうか。後藤さんはそこで一度言葉を止め、唇を引き結んだ。
「……最初は本当に、お嬢さまのことは利用するだけのつもりでした。姉に頼まれたのは確かでしたが、……姉の命が奪われた原因でもあったから。素直に守りたいなんて思えなかった」
その言葉に息を呑むも、どうしようもない感情なのだろうと理解もできる。
「今なら分かります。……いえ、当時も分かっていたでしょう。お嬢さまに何の罪もあるわけがない。あの男を選んだのは姉で、危険を承知で産むことを選んだのも姉だった。珠里お嬢さまに何かできたわけがない。お門違いの恨みです。それでも湧いてくる憎悪は、止められなかった」
人の感情は合理的には片づけられない。沙里さんを愛する気持ちが本当だからこそ、シュリに責任を見出してしまうのも本当で、だけど沙里さんの忘れ形見だからこそシュリを恨みたくはなかったのも、本当なのだ。
矛盾だらけで、何ひとつ理論立たない。
「しかし、お嬢さまに対する代表の仕打ちは予想以上でした。一緒の屋敷に住まわせていないだろうことは予想していましたが、まさかこんな監獄のような家だとは考えておりませんでしたし、戸籍すら……与えていなかったとは」
言葉を失うが、これまでの彼の言動を見れば、嘘はつかないことを知っている。つまりシュリは、法律上は存在さえしていない人間なのだ。
――逃げたところでお嬢さまの居場所などどこにもございません。ご本人もそれを重々ご承知でございます。あの方は必ずここに帰っていらっしゃいます。
かつて後藤さんはオレにそう言って聞かせた。
当時は腑に落ちなかったけれど、それを踏まえれば容易に理解できる。正真正銘、彼女はこの家以外のどこにも繋がりを持たないのだ。
「姉だけではなく、出産に立ち会った医師たちまで口封じに始末していた。珠里お嬢さまの存在をなかったことにするために」
上條代表は合理的に物事を判断する。これも、今までの話を聞いていれば分かる。
だからこそ大きな疑問点が浮かび上がった。
「そこまでしたなら、どうして」
どうして、シュリのことは殺さなかったのか。まだ赤ん坊で、何も抵抗する力を持たなかっただろうに。
「……さあ。その辺りは俺にも定かではありません。己の血を引く赤ん坊に、あの冷酷な男でも情が湧いたのか。はたまた何らかの利用価値を見出したのか。生かしたからには何らかの意味はあったのでしょう。憶測の域を出ませんが」
言い淀むオレの言いたいことを汲み取って、彼は返してくれた。
代表のその行動も人間ならではの矛盾なのか、それとももっと別な計算があったのか。後藤さんでさえ分からないことにオレが考えを巡らせたところで、きっと分かりはしない。
だから小さく頷いて、先を促した。
後藤さんは応じるように頷き返し、息を吸い込む。当時を思い出すように、虚空を見つめながら。
「珠里お嬢さまは、全く笑わない子供に成長していました。……それでも当時は、普通の子供と同じように、愛情を求めて彷徨っていました。当時のお嬢さま付きの使用人頭に尋ねているところを、幾度も見かけましたから」
――とうさまはどうしてわたしにあいにきてくれないの?
母の愛は知らず。父の愛は得られず。求めても反りは来ず。その当然の帰結として、彼女は壊れていったのか。
「そういう様子を見てしまったらもう、利用するとかしないとかを考えている暇もなく、どうにか生かすために毎日必死でした。どこかしらに姉の面影を見ていたのかもしれません。乳母や上司とも協力し合いながら、お嬢さまのお世話を続けました」
シュリが自分から消えてしまわないように。どんな形でもいい、生きてほしい。願いながら傍にいたのだろうと分かる。
シュリは、沙里さんが命がけで産んだ子なのだから。
「珠里お嬢さまが顕著に壊れ始めたきっかけは、ゆかりお嬢さまとの面会を代表に拒否されてからだったように思います。あの男は、ゆかりお嬢さまに対して、珠里お嬢さまの存在を教えてすらいなかった」
異母姉は愛されるのに、自分は愛されない。
どうして。どうしてどうしてどうして。
答えの出ない自己問答ほど辛いものはない。それが己を壊していってしまうことは、間違いなくある。
なぜ断言できるかって、オレ自身が同じことをしていたから。
どうしてオレだけがこんな目に遭わなくてはならないの。どうして、どうして、どうして、と。
「決定打は、俺に初めて、偶然とはいえ直接触れてしまった時でした」
後藤さんの言葉に目を瞬かせると、彼は心から悔いるように眉を歪めていた。
「それまでの珠里お嬢さまはテレパスとしての力を全く発揮していらっしゃいませんでした。それでも注意を払い、肌同士が触れ合うことがないように手袋を填めていたのですが……その時だけは、油断してしまった」
もう沙里さんを最後にテレパスの血脈は途絶えた。後藤さんはそう考えていたのだという。
もし違ったとしても、沙里さんの力もごく弱く、深く読もうとすれば触れ合わなければ無理だったため、シュリも同じだろうと思っていた。
だが、彼も人間で、気を緩めてしまった一瞬があった。
その一瞬をシュリが待っていたのだとも分からずに。
――かあさまをコロシタのは、とうさまだったのね?
子供とは思えないほど強い力で腕を掴み、無表情にされた問いかけに、後藤さんは言葉に詰まってしまったらしい。
「珠里お嬢さまは、笑っていました。やっぱりそうだったのね、と。心底楽しそうに……畏怖すら覚えるほど。俺が甘かったのです。力を発現できなかったのではなく、力を発現できることを敢えて隠していた。あの頃から頭の切れる子供でした」
シュリは度肝を抜かれている後藤さんを残し、使用人頭の元へと真っ直ぐに向かい、そして言い放った。
「『あんたがかあさまをコロシタのね』。言い放たれた上司は目を大きく見張りましたが、すぐに冷静さを取り戻した。だけど、その当時たった十二歳だったお嬢さまはそれを見逃さなかった。それに背筋が凍ったことを覚えています」
後藤さんはシュリがテレパスである可能性を考えて慎重になっていた。しかし、何も知らない使用人頭には自衛さえ難しかっただろう。後藤さんから読み取ったのは、最終確認だったのだ。
「次の瞬間には、上司は階段から転げ落ちていました。珠里お嬢さまの『飛べ』という命令に従うかのように」
呼吸が止まった。
「そしてそのまま、打ち所が悪く死にました」
何かを言おうと思うのに、口を開閉させるのが精いっぱいで、言葉にならない。オレの顔から何かしら読み取ったのか、後藤さんはゆっくりと首を振った。
「突き飛ばすような真似はしていらっしゃいません。ただ上司の手を取り、命じただけです……しかしお嬢さまにはそれを実現させることが可能だった。アクティブテレパスであったために」
アクティブテレパス。
能動的なテレパス、という意味だろうか。それが何を意味するのかがよく分からない。
「他人の思念を受けるだけではなく、自分の思念を発することができるのだそうです。電波にたとえれば分かりやすいでしょうか。普通のテレパスは受信しかできないところを、お嬢さまは発信できるのです。つまり、他人を操ることができた」
その説明にふと、思い出したことがある。
シュリが髪を切り落とした日。シュリの思考にオレがシンクロしたような状態になった時があった。もしかするとあれもシュリの力が原因だったのだろうか。
「お嬢さまの場合は普通、肌が触れていなければ力を他人に向けて発言することはできません。ですが、貴方だけは違うとおっしゃっていました。余程波長が合ったのでしょう」
微かに笑みを向けられたが、内容が内容であるだけに少し複雑な気分になった。
でも、テレパスだと言われた時と同じように、自分の中でいくつも実感として思い当ることがある。嘘であると断じるのは簡単だけれど、信じた方が納得のいくことは多かった。
「……それはさておき。当然、上司の死によって大騒ぎになりました。俺や乳母たちは、あの方を守るために自分から足を滑らせて落ちたのだと嘘の報告をしました。そもそも俺は、姉を殺した実行犯を殺してくれた彼女に、感謝さえしていた」
気を取り直すように一度咳払いをしてから、また少しずつ語り始める後藤さん。オレもそれも再び耳を傾け、話の行方を追った。
シュリに憎悪が湧いたなら、後藤さんもまた同じだっただろう。沙里さんを殺した人間はごくごく身近にいた。そもそも復讐のために潜り込んだ彼の感情が燃え上がらなかったわけがない。
「その甲斐あってか、お嬢さまの罪は露見することなく終わるはずでした」
言い方に目を見張ると、後藤さんはぐるりと地下牢を見渡した。
「お嬢さまは、その時初めて会った代表に飛びかかってしまった。どうして母さまを殺した、と。冷徹なあの男は、珠里お嬢さまをこの地下牢に閉じ込めた」
暗く、寒く、孤独感を植え付けるこの部屋にシュリがいた。何度目か背筋が冷えていく感覚を抱く。
ずっと考えていたことがある。どうしてこの家にはこんなにも都合よく、人間を拘束するための道具が揃っているのか。
その答えなんて、簡単なことだったのだ。
「……ご明察通り、この家にある拘束のための道具はそもそも、お嬢さまを捕らえるために用意されたものです」
――……わたしは確かに、君を監禁した。だけどそれ以前にまず、ぼくがここに監禁されてるんだ。
オレに恐怖を敷いたシュリ自身が、そもそも恐怖に晒されていたのだ。
「ここに囚われてから数日経ったある日、珠里お嬢さまは言いました。『君はわたしを利用しようと思っていたんでしょう?』と」
――いいよ、リヨウすればいい。わたしも君をリヨウするから。わたしは……ぼくは、こんな世界なんてみとめないから。上條なんて、宮苑なんて、ゼッタイに世界の主なんかにみとめない!!
「そう叫んだあの日からです」
悲しげに、辛そうに顔を歪ませるのに、涙など疾うに枯れ果ててしまったのか、この人の目からは一滴も零れない。
「お嬢さまがあんなにもよく笑い、明るく振る舞うようになったのは。そして同時に、幼子のような無邪気さで、残酷な決断をあっさりとするようになったのは」
天使と悪魔が同居した少女。監禁された当初から感じていた彼女のそのアンバランスさは、その頃に形成されていたのか。
「姉であるゆかりお嬢さまは、お見合いから逃亡し、自分の好いた人間と結婚し――とその頃にはしていましたから。その行動が、珠里お嬢さまをなおのこと怒りに駆り立てました」
シュリが生まれてから一度たりとも得られなかったものを、姉のゆかりさんは享受してきたのに、彼女はそれを投げ捨てて逃げた。自分一人だけ幸せになった、と姉を責めたところで、シュリからすれば無理からぬところはあると思う。
表に生きるゆかりさんにだってきっと何かしらの考えがあり、裏に生きるシュリとはまた違った苦しさがあったかもしれない。それに考えが及ばなかった、というよりは、きっと考えないようにしていたのかもしれない。
上條代表も、ゆかりさんも、シュリにとっては『悪』でなくてはならなかったはずだから。
「一月ほどでお嬢様が解放されたその後は、貴方がご想像になっている通りだと思います」
長かった後藤さんの話は、もう佳境に入っていた。
「前上がこの家と本家との間の連絡係に任命され、珠里お嬢さまは彼に利用価値を見出した。そして自らの体を対価に、とある目的を果たした」
前上の話を出す時、後藤さんが気遣わしげにしていたのが分かって、オレは苦笑を返した。
今でもふつふつと怒りは沸く。でも、この人が誠実さで以て向き合ってくれるのなら、オレも同じように応じなければならないから、何とか自分の気持ちを宥めた。
「前上はこの家から出るためのカードキーを持っています。上條内部の様子を聞き出したり、そのカードキーの複製を持ってこさせたりしていたようです」
自らの目的のために彼女は進んでいる。たとえ引き換えに何を犠牲にしてでも。
「シュリはあの日、前上さんから何を聞いたんでしょうか」
――こんな、世界、なんて……! 壊れろ、壊れろ!! 壊れろ壊れろ壊れろ壊れてしまえ!!
まだ耳にこびりついている、閉じ込められる直前に聞いたあの叫び。きっかけが前上との面会だったことは分かっていた。そして今なら、彼から聞き出した何かの情報が原因だったことも。
「……分かりません。ですが、長年に渡って計画していたことを実行するとお嬢さまが決心したのがあの日であったことは間違いないです」
計画の中身なんて、ここまで来ればもう彼の口から言わせなくても容易に察せる。
「――シュリは、上條代表を殺すつもりなんですね」
本社の爆破事件も、他の諸々の事件も総て、そのためのカモフラージュのためでしかないはず。
本懐は、復讐だ。
またも顔を歪めた後藤さんがスツールから降り、床に膝をついて深々と頭を下げた。それに戸惑う間もなく言葉が続く。
「申し訳ありません。総て俺から始まったことです。俺が姉の復讐を諦められず、ここまで来てしまったから」
そんなことはない、なんて、気休めは言えなかった。
壊れていても、狂っていても、オレのために泣いてくれたあの子が、人の優しさを完全に失ったとは思えない。
シュリはきっと、後藤さんが沙里さんに抱く深い想いを感じていた。だからこそ、自分の恨みとして心の奥底に隠し続けるのではなく、実力行使に出ようとしたのだろう。彼のことを悪者にしないように、自分だけ脱走して。
そして、後藤さんが自分を追ってくることがないように、オレを彼の足枷にした。
オレが彼と似ていると感じたなら、彼も同じように感じたはず。優しい後藤さんのことだ。そういうオレを一人で放置していくことなどできない。シュリにはよく分かっていたのだ。
「あの方は俺の恨みも自分の恨みも総て背負って、あの男の前に向かおうとしています」
何度目だろう、彼の固く固く握りしめられて震える拳を見るのは。
「もうすぐ、お嬢さまの手で洗脳されていた実行犯が捕まります。それが誰であるのかまでは、私には分かりません」
痛々しくてたまらない。過去の自分を悔い、その結果に招いてしまったものを見つめて嘆く彼が。
「ですが、きっとこのままでは彼らの逮捕で騒動は総て終わりとされて、珠里お嬢さまの目論見通りになってしまうに違いありません」
そうなるように計算づくで行動しているのだ。後藤さんの言葉の通りで間違いないだろう。
「あの男を救いたいわけではない。姉さんが、残してくれた光を……消したくないのです。エゴだと言われたとしても」
沙里さんの不倫という行為は認められていいものではない。自らの母親を殺した相手とはいえ、一般からは理解されない力を使って人を一人殺したシュリの行為も。
だけどそれでも、目の前にいる人がこんなにも激しく代表を呪うほど、沙里さんは誰かに光を与えることのできる人間だった。
その血を継いだシュリもそうなのではないのか。
いや、間違いなくそうなのだ。
地下室だけじゃない。俺にとっては世の中の全体が真っ暗だった。希望なんてなかった。
でも、そこにシュリが現れた。
認めろよ、もう。そう自分に言い聞かせて、大きく息を吸い込む。
この明度ゼロの世界で、彼女はオレの唯一の光だった。
「……捜します」
床に額をこすりつけるようにしていた後藤さんは、オレの声で顔を上げる。その視線にしっかりと自分の視線を絡めて、オレは微笑みながら頷いてみせた。
――泣きたくなんかないもん……。
あの時のオレは、幾筋も涙を零す彼女を心から綺麗だと思った。
愛している、オレだけは助ける。そう言ったのならば、証明してほしいのだ。オレは彼女にだけは不幸を呼ばないと。それがオレにとっては何よりの救済だから。
「捜します。シュリのことを。貴方のためじゃない。オレを救い上げてくれたあの子のために、です」
その答えに、たった一筋だけだったけれど、彼の頬に初めて涙が伝う。
「…………ありがとうございます……」
掻き消えそうな声と共に、鉄格子の扉が重々しい音を立てて開いた。




