光を掻き消す驟雨
どうして、だとか、いつから、だとか。そんな問いをされたところで、分かるわけがない。
気がつけば目で追っていたし、気がつけば大切に思っていた。
慎、と優しく呼ぶ声。ついさっきまで不機嫌そうにしていたかと思えば、いつの間にか弾けるように笑っている、くるくる変わるその表情。俺が落ち込んでいれば背中をさすり、喜びに突き上げた拳を突き上げればそれを包み込んでくれる、あたたかな手。
何もかもが大切で、手放したくなかった。
一度は救っておいて、自分たちではもう手が負えないのだと追い出した家の一員。憎んだっておかしくはないのだと、常識的に考えれば分かっている。変わらずに家族だと思っているなんて、強がりの綺麗事だと捉える人だってきっといることも。
だけど、人間の感情が導く先に、合理的な結論なんて見出せるものだろうか。いや、そんなものは稀だ。
当時でさえそう思っていたし、今でも思っている。幾年経っても揺らがぬまま。
けれど同時に、考えてしまう。
人間が何もかも総てにおいて、合理的理由から行動できるイキモノであればよかったのに、と。
そうすれば、俺も、姉も――誰も、苦しまずに済んだのに。
伯父の家から出て児童養護施設で世話になるようになり、季節はいくつか進んで、俺は高校生になっていた。
「慎、こっちよ」
家を出た直後からずっと、姉は俺にたびたび会いに来てくれていた。多ければ週に一度。忙しい時期でも二月に一度のペースは崩すことなく。
会っても取り立てて変わったことをするわけではない。食事をしながら、近況報告の他には世間話をするぐらいだ。
食事だって決して豪華なものではなかった。ファミリーレストランとか、ファストフード店だとか、ちょっと贅沢をするときには回転寿司だとか。ささやかな外食だ。
でも、どんなに安い食事だったとしても、姉と一緒に食べられるというそれだけで豪華で、充分に嬉しくて、来てくれると約束した日を指折り数えた。彼女の来訪を楽しみに生きているようなものだった。
その日の姉も、いつも通りだった。
いつも通りのはずだったのだ。
「姉さん、久しぶり」
笑うと、姉も笑みを返してくれる。
伯父が負った多額の負債。その負担を少しでも減らすためにと、その頃の姉は通っていた大学院を中退していた。そして、支払いを手伝うために夜の世界に飛び込んでさえいた。
伯父や義伯母がそれを望んだとは思い難い。姉が自主的に動いたのだろう。姉は一度決めたら梃子でも動かない頑固者だった。
華やかなのだろうその世界で生きていくことを決めた姉は、そのうち俺の知らない人になっていってしまうのではないかと思っていた。
でもそれは杞憂だったのか、働き始めてから一年以上が経っても、表面上は何も変わらなかった。店で働く姉の顔を俺は知らない。目の前にいる姉は、一緒に暮らしていた頃と何ひとつ変化がないように見えていた。
食事を済まし、食休みと称して姉の出勤時間近くまで少しのおしゃべり。何にも代えがたい大切な瞬間。
人はなぜ、楽しい瞬間を永遠だと思い込むのだろう?
この日の俺は思い知った。変わらないものなんてどこでもない。ずっとこのままだと思っていた姉との関わりでさえ、変わってしまったのだから。
「学校はどう? 楽しい?」
「うん、そこそこ。テストが嫌だけど」
冗談めかしてみせると、「確かにそれはわたしも嫌いだった」といつも姉は笑ってくれる。姉の笑顔が見たくて、わざとおどけてみせることもあった。
「慎が楽しめてるならよかった」
安心したように笑う姉の表情は緩んでいる。常と変わらない明るい笑顔のように見えたけど、少し違和感を覚えた。
表情だけではない。雰囲気全体が何となく違うような気がした。しかし、それは決して悪い方の意味ではなく。
「……姉さん、何かいいことでもあった?」
首を傾げると、彼女はちょっと目を見張って、それからいっそう笑みを深める。纏っていた穏やかで柔らかい空気に、更に華やぎが加わったように見えた。
「分かる?」
いかにも聞いてほしそうな様子で身を乗り出してくるので、その勢いに俺は少し笑ってしまった。
「分かるよ。ものすごく分かりやすいし」
少しからかうようにしてみせれば、姉は頬を膨らませる。
「まるで慎の方が読心術を遣えるみたい」
「姉さんに本気出されたら敵わないよ……」
「当たり前じゃない。わたしは本物なんだから。慎の化学の小テストが五点だったことも知ってるわよ」
悪戯っぽく笑って見せる彼女に、俺は本気で焦った。
「ちょ、そういうことばっかり読むなよ!」
小声ながらも強く抗議しても、姉はいつも通り楽しそうにころころ笑うだけだった。
そう。姉は、他人の思考を読むことができる、いわゆるテレパスだったのだ。
とはいえ、彼女が言うには『目の前にいる人が今頭に浮かべていること』しか読み取れない程度の強さらしいが。確かに俺は今、化学の小テストの酷い結果が頭の片隅にいて離れずにいたから、姉の言っていることは間違いなく正解だった。
不思議な力。初めて知らされた時には驚いたけれど、同時に納得もした。
姉は人の心の機微に聡かった。まるで心が読めるかのようだ、と常々思っていたのだ。本当に読めると知ったとき、総てが腑に落ちた。
心が読めてしまうなんて怖い、と思わなかったと言ったら嘘になる。でも、それ以上に俺は姉のその鋭さに助けられたから。突然に両親を喪い、環境が目まぐるしく変わる中、押し潰されそうだった俺に一番近くで寄り添ってくれた。どれだけ救われたことか。
それに、秘密を共有してもらえたことは、家族や大切な人の一員になれたようで、嬉しくもあったのだ。
「まさか慎、授業中寝てたの?」
「想定してたところと全然違うところが出題されただけ! 読めるなら分かるだろ!」
ひそひそと交わす内緒話。この場では姉と俺しか知らない秘密。
宮苑家は、本家から末端の分家においても、テレパシーを使えるのだという。基本的には本家に近ければ近いほど力は強いらしい。姉の家は宮苑といってもほとんど名字ばかりというような家だったから、義伯母も姉も力はごく弱くて、日常生活で意識することなんてほとんどないと言っていた。
「……ていうか、俺で遊んでる場合じゃなくて、何があったんだってば」
憮然としていると、笑いながらも「ごめん」と謝った姉は、見たこともないほど柔らかい表情になった。
「一目惚れした人がいるの」
瞠目。一瞬言葉を失って、言葉をようやく絞り出した。
「え、誰に」
「お店のお客さん」
「それっていいの?」
「いいか悪いかって言ったら悪いのかもしれないけど……でも、その人は今とっても辛い中にいて、支えてあげたくて」
酒なんてほとんど飲めなかったはずの姉が夜の仕事を始めた時はとても驚いたけれど、持ち前の責任感の強さからかお客には気に入られ、先輩方にも可愛がられていたという。
危惧していればよかったのだ。真面目な姉が没頭してしまうかもしれないことを。仕事の相手だと分かっていてもなお、苦しそうにしていれば手を差し伸べてしまうようなお人好しだったことを。
「客に恋することだけはやめた方がいい」。「自分たちはお客に一時の夢を与えているだけであるのだから、本気になれば双方にとって辛いだけ」。仲のよい先輩たちに嫌というほど言い聞かせられたことだと、姉自身が言っていたのに。それを忘れてのめり込むほど、いつの間にか彼女にとっては大きな存在になってしまっていたのだ。
「……どういう人?」
不安に思って恐る恐る訊くと、姉は少しだけ言い淀むようにしてから、小さく言った。
「――上條代表」
一瞬、姉が何を言っているのかが理解できなかった。そんな俺に、姉は気まずそうに、また切なそうに笑った。
「ごめん、そろそろお店行かなきゃだから。これで払っておいて」
呆ける俺から目を逸らすようにして、お小遣いにして、と言いながらその日の分の代金よりも少し多めのお金を置いて立ち上がる姉。
「ちょ、まって、待って沙里姉さん!」
咄嗟に腕を捕まえると、足を止めて振り返ってくれる。変わらない優しい雰囲気で。
でも、振り返ったその顔は、俺の知っている彼女ではなかった。
きっとあれは、『家族』でもなく、『姉』でもなく、『女』の顔をしていたのだ。
表情に衝撃を受けてもなお、何とか声を絞り出す。
「駄目だよ。その人は」
姉はなぜ、あの時俺にだけは打ち明けたのだろう。彼女が死んだ後、小学校からの親友にさえ姉が報せていなかったことを俺は知った。
「その人は……奥さんがいるだろ……」
上條代表と不倫していたという、その事実を。
「……分かってる。でも……今あの人は一人で耐えてるの。誰も味方になってくれる人がいないの。支えたい。逃げ場所になってあげたいの」
言い切る姉の言葉は強くて。俺は言うべきはずのことを口に出すことさえできず、大きく目を見張った。
「ごめんね、慎」
思わず力を緩めた隙に姉は去って、後には放心した俺だけが残された。
沙里姉さんの笑顔で、どんな悲しみも辛さも薄れる気がしていた。笑っていてくれればそれでよかった。それだけで充分俺は満たされたから。本当に、それだけで。
でもそんな日々は簡単に崩れ去っていった。
世間はどうあれ、俺は姉が悪いとは思わない。愚かしいとは思うけれど、同時にとても人間らしく愛おしいと思う。
人間の感情が理屈で片付けば、どれだけ楽だったのだろう。
俺には分かった。これは駄目なんだ、こうしなければならない、どんなに頭では理解していたって、感情が一緒に動いてくれるなんて限らないこと。
――恨んでくれていい。憎んで当然だ。でもお願いだ、お願いだからあの秘密だけは守ってくれ。後生だ……頼む、頼むよ、慎……。
その願いを無条件で叶えたいと思うような、狂おしいほどの想いがあること。
上條と宮苑は昔から壊滅的に仲が悪く、憎み合っていた。
コンツェルンは巨大な組織だ。村田の血を継ぐ者に従うという共通の意識があったところで、総ての傘下が一枚岩であるはずはない。政治の世界と同じように、派閥があった。
上條。宮苑。どちらも第一傘下である二家が、お互いの存在を鬱陶しく思うのも無理はない。
上條代表に想いを寄せた姉は、末端とはいえ自分が宮苑の人間であると知られることを恐れ、必死で隠した。父親の旧姓である『後藤』でさえ怪しまれるかもしれないと使わず、母親の父親、つまり彼女にとっては祖父に当たる人の旧姓である『小池』を使い、上條代表との交流を続けていたのだという。
嫌われたくない。好かれていたい。愛し、愛されたい。
姉の心の叫びが聞こえてくるかのようだった。この時の姉に当てはめる言葉に、『恋は盲目』というもの以外は浮かばない。
不倫を打ち明けられて以来、姉の訪問は途切れがちになった。会うたびに俺が止めるのが大きかったのだと思う。
もっとしっかり止めておけばよかった。幾度も幾度も後悔した。
しかし後悔は、過ぎてしまったからこそするものなのだ。過去は変えようもない。
生きていてほしかった。もっともっと笑ってほしかった。ただそれだけの贅沢とも言えない願いなのに、叶わなかった。
そのうち、姉は上條代表との子を身ごもり、店を辞めた。
伯父と義伯母には何と説明したのだろうか。分からないけれど、辞めると同時に家からも出て、一人で暮らし始めた。
今にして思えば、まるで一人で産み育てると覚悟していたようにも思える。
恋愛に目を潰されても、姉は聡明だった。
最後に会ったのは臨月の頃。妊娠の初期の頃から俺は出産には反対していたが、姉は例のごとく聞かず、宿った生命は健やかに育っていた。
その頃には俺ももう反対することができず、何かあれば手伝うから、とだけは伝えていた。
久々に会った姉は、ますます知らない顔になっていた。
『姉』から『誰かに恋する女』へ。そして『母』へ。変わっていってしまう彼女に、俺は戸惑いを隠せなかった。姉であることには違いないのに、よく似た別人でさえあるような。
赤ん坊が元気に育っていること。初めての出産だから色々と不安はあるけれど、早くこの手で抱きたいと思っていること。
未来に思いを馳せて今の思いを語る姉は、知らない顔だったけれど、とても美しく見えた。
「……ねえ、慎?」
もうすぐ生まれるのが楽しみ。そう言ってついさっきまで幸せそうにしていたのに、一瞬にして変化した真剣で不安げな声色。俺は目を瞬かせた。
「ん……?」
そろそろ帰らなければと駅の方に足を向けていた姉は、大きなお腹を抱えるようにしつつも、ゆっくりと振り返る。
時刻は夕方だった。夕日が逆光となって姉の表情はほとんど見えなかったことをよく覚えている。なぜそれほどまでにくっきりと記憶しているかなんて、単純だ。
「……わたしに何かあったら、この子をよろしくね」
それが、姉から貰った最後の言葉だったから。
出産中に大量に出血し、子供は助かったが姉は死んだ。そう聞かされたのは、それから一週間も経たない頃だった。




