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失われた光

 五曲目『歌劇「ナブッコ」第三幕:ヘブライの捕虜たちの合唱「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」』(Nabucco:Va! Pensiero, sull'ali dorate)

 by ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)



   ● ● ●



 村田本社にて爆破事件が起こった、と後藤さんが報告しに来てくれてから、幾日が経過したのか。

 ものすごく長い時間が経っているように思えるし、案外短いようにも思う。

 焦りなどの大きな気がかりがあると、人は案外理性を保っていられるらしい。相変わらず真っ暗な、つまりオレが大嫌いな黒に囲まれた空間であるというのに。

 足音を潜め、気配すら殺すようにしてやってきて、鉄格子の向こう側に一人の男性が立っている。

 オレはベッドに腰かけて、その人を真っ直ぐに見つめた。

「……やっと、来てくれたんですね。後藤さん」

 呼ばれた後藤さんは、無言だった。暗くてはっきりは分からないが、表情も変わらないままだと思う。

 でも、それは今までオレがよく見ていたような無表情ともまた違っていた。たとえるなら、ずっと背負い続けていた憑き物が落ちたかのような、そういう顔だ。

「今日は、爆破の日からどれぐらい経ってて……そもそも、何月何日なんですか?」

 制限され続けてきた情報の入手。今外に出たら目が上手く光を調節してくれないんじゃないか、それどころかまず上手く歩けもしないのではないかと不安になるぐらい、この地下牢に閉じ込められてきた。

 後藤さんは意識的にか深い呼吸を一度吐き出したかと思うと、口を開く。

「……爆破の日からは、十日近く。あとわずかで、貴方がこの牢に閉じ込められてから一月ほどになります」

 シュリがオレを投獄したのは、確か三月の末頃。つまり、今はもう四月も終わろうとしているらしい。

「そんなに、経ってたんですね……」

 太陽も月も星も見えない部屋で過ごし続けた日々は、決して短くはないと思っていたけれど、それほどまでに長かったとはさすがに予想していなかった。

「……ええ」

 彼はそれにただ小さく頷く。

「今の外の状況はどうなっているんですか?」

「村田関連の施設――特に上條と宮苑の施設や、その御家の人々において、次々に事件が起こっています」

 宮苑は、上條と共に村田コンツェルン第一傘下の一角を担っているグループ。

 彼女は何を思い、どんな感情に取り憑かれながら、その二家を襲撃しているのか。

 上條や、それを傘下として抱えている村田そのものを狙う理由はまだ理解できる。でも、宮苑までをも襲うのはどうして?

 後藤さんの口からは、シュリの仕業であるとは決して語られていない。しかし、オレの中ではほとんど確定事項だ。

 彼女を取り巻く数々の謎の鍵はきっと、目の前にいるこの人が握っているのだ。

 オレが閉じ込められる寸前、後藤さんはシュリと言い争いになっていたことをよく覚えている。

 ――やはり駄目です、あの場所に相川さまを連れていかれるなど! 何を考えておいでなのですか!?

 ――後藤は黙っててよ! どうせあんただって、わたしのことなんか自分の願いを叶えるための道具ぐらいにしか思ってないんでしょ!

 シュリの叫びに対し、後藤さんは何も言えずに言葉を詰まらせた。

 それはきっと、否定できなかったから。

 後藤さんも、何かしらの企みを胸に秘めているから?

「……ずっと、気になっていたことがあります。それこそここに閉じ込められるよりも前、この家に引き込まれた頃から」

 オレが黙り込んだ途端に空間を包んだ沈黙を破って、もう一度真っ直ぐに視線を合わせた。

「何でしょうか」

 すると、彼は同じように真っ直ぐに視線を返して応えてくれる。

 オレはこの人のこういうところが好きだった。突然現れた得体の知れないはずのオレにまで、シュリを相手取るのと変わらずに優しく接してくれたから。

 だから、悲しい。

「どうして、貴方がシュリに対してそこまでして尽くすのか」

 こんなにも優しいこの人が、シュリの馬鹿な行動を止めてくれなかったのか。

「……それは、私がお嬢さま付きの使用人だからです。それ以外には何も、」

「それ以外にも理由はあるはずです」

 彼の言葉を遮り、首を振った。

「シュリの脱走だって、あいつが脱走すること、貴方は最初っから分かっていたんでしょう? 分かっていて、あえて逃がしたんでしょう?」

 爆破自体には動揺していても、主たる人が逃げ出したと聞いても動じていなかったその様子。何も知らなかった、なんていうのは無理があるし、何も腹に抱えていないなんて思えない。

とぼけるのは勝手です。でもオレは、もうシュリと向き合うことを投げ出したくない。あいつにもう一度会いたい。……貴方、何者なんですか?」

 半ば睨み合いに近いような時間が生まれる。

 オレはただひたすらに後藤さんを真正面からの視線で射抜き続けた。負けるつもりはなくて、しかもそれ以外の方法を知らなかったから。

「分かりました」

 やがて、根負けしたかのように後藤さんは息をつき、小さく呟く。

「貴方の珠里お嬢さまへの想いの強さに免じて、お話しいたしましょう。私がどうして珠里お嬢さまの御傍に仕えているのか」

 シュリと同じ、くらい、昏い目。

 ずっとシュリと共に居続けたのだろうこの人は、彼女と一心同体の存在であるかのようだった。

 後藤さんは、牢の外に置いてある簡素なテーブルセットのスツールに腰かけ、また押し黙る。オレは話し始めをただひたすらに待った。急かすつもりはなかったし、言葉を探しているのだろうと思う。

 どこから話すかを迷っているのかもしれないし、それとも話すといったこと自体を後悔しているのかもしれない。それでも、話してもらえない限りオレはこれ以上何も分からないのだから。

 またしばらく間が空いて、後藤さんがオレの視線を捕まえた。

「……珠里お嬢さまのお母さまが亡くなっていることは、以前お話しさせていただきましたかと存じます」

 オレはそれに頷く。確かに、出産直後に亡くなったと聞いた。父親からの愛情を得られていない彼女は、母親にさえ愛された記憶がないことを、その時知った。


「その、亡くなった珠里お嬢さまのお母さま――沙里サリさまは……私の――俺の、姉です」


 一瞬、空白が生まれる。

 言葉が出てこなかった。

 呆けたように後藤さんを見つめるが、彼は特に反応を示さない。ただ、表情は歪んでいた。自分がつい今しがた発した言葉のせいで何かが飛び出して来ようとしていて、それを懸命に抑え込もうとしているみたいに。

「あ、ね……?」

 サリと、シュリ。

 よく似通った名前が意図的だとするのならば、親子だと示すに充分だと感じられる。

 シュリの母は、沙里さん。

 ――……名前、嫌いだから。漢字で呼ばれるより、片仮名で呼ばれる方がずっとマシ。何なら平仮名でもいいから、とにかく漢字はやめて……?

 彼女が頑なに「漢字で呼ぶな」と言い張ったのは、自らの母を想起させるものだったから?

「正確に言えば、血縁上は姉ではありませんが。母方の従姉です。沙里姉さんの父親が、俺の伯父に当たりました」

 『沙里姉さん』。その呼び名は、彼がシュリの母と親しかったのだと示す証拠のひとつ。

「それがどうして、姉弟に?」

 大方の予想はできているのに、耳元でばくばくとうるさく音を立てる心臓を感じて、確認せずにはいられない。

「貴方と似たようなものです」

 見つめ返してくる真っ直ぐな視線に、オレは思わずたじろいだ。

「十二歳になってすぐ、父が交通事故で死にました。それから間もなく、母も体を壊して後を追うようにして死にまして。あっという間に俺は孤児になったのですよ」

 頼るべきものをまだ幼くして総てうしなった後藤さんが、その後どうなったのか。分かる。オレもそうだったから。経験しているから。

「俺の父にきょうだいはおりませんでしたが、母には兄がいて、元々親しくしていました。その厚意で、その伯父の婿養子先の家で厄介になることになったのです」

 語りながらもスーツの胸ポケットを探るようにして、彼は古ぼけた一枚の写真をオレの方に差し出した。

 戸惑うも、「どうぞ」と鉄格子越しに渡されたので、受け取って視線を落とした。

「あ……」

 そこにいたのは、レンズに満面の笑みを向ける四人の男女。

「引き取られて少ししてから撮ったものです。姉は二十三歳になる頃でした」

 弾けるようなエネルギーを湛えていると感じられる若い女性が、学ラン姿ではにかむ少年の肩に手を置いている。顔の造りにはあまり共通性が見えないけれど、目の色や笑顔はシュリにそっくりで、この人が沙里さんだと一瞬で分かった。

 彼女の隣に立つその少年には、目の前にいる男性の面影があった。後藤さんだ。

 加えて、二人の後ろに、少年に似た顔の中年の男性と、沙里さんにそっくりなやはり中年の女性がいる。きっと、後藤さんの伯父夫婦だろう。

 立て続けにご両親を喪い、悲しまなかったはずはない。辛くなかったわけがない。

 でも、それでも。

「楽しそう、ですね……」

 ぼろりと、口からこぼれ落ちていた。

 はっとしたが、後藤さんはわずかに悲しげな色をその瞳に映しながらも、しっかりと頷く。

「はい。楽しかったです、とても。悲しみはありました。泣いた日もありました。でも、それを薄れさせるほどに、この人たちと生きる日々は楽しかった」

 そのどれもが真実だと思うのに、総て過去形。

 終わってしまった日常。変わってしまった何か。

「姉も俺をとても可愛がってくれて、本当の姉だと思えばいいと言ってくれて、それが何より嬉しかった。とても、嬉しかった」

 もう二度と帰らない、大切な人。

「でもそんな日々は、すぐに終わりました」

 表情なく、あくまで淡泊に、そして平坦に、彼は言い放った。

 オレは言葉を失くし、瞳を揺らせる。

「引き取られてから一年ほど経った頃、伯父の経営していた会社の経営が傾いたのです」

 崩壊の足跡はあっさりと、暴力的なぐらいに強引に彼へと近づいてきて、苦しみへと引きずり込んだのだろう。

 オレの時も、同じだったから。あまりにも簡単で呆気なかったから。

「俺一人にかけているお金が浮くだけでも、伯父の助けになるかもしれない。俺はそう思って、家を出る、と自分から伯父に言いました」

 大好きだった人たちに迷惑をかけたくなかったばかりの、まだ幼かった彼が懸命に導き出した答え。

 オレなら、言えただろうか。

 ようやく手に入れた幸せを自分から手放すような言葉を、大好きな人に向けられただろうか。

「伯父は最初のうち、拒絶していました。俺を大事にしてくれていたんです。会社がまだ上手くいっていた頃は、俺を後継者にすることも視野に入れてくれていたのだと聞きました」

 語り口に、続きが垣間見える。だってあくまでも、『最初のうち』だから。

「でも、会社がもうどうにもならなくなってきて。どんなに協力しても傾いていって、自分の大切にしていたものは壊れていくばかりで、救いが何もなくて」

 ずっと持っていたはずのものが、手から離れていく。大事なものを守りたいのに、大事なものほど簡単に崩壊していく世界。壊れていく過程を見ているだけしかできないことが辛くて、傷ついて、自分を責めて。

 分かる気がした。

 後藤さんの悲しみも苦しみも、分かる気がした。

 自分がここにいなければ、この人たちの生活も変わるのではないか。壊れていくものを見ながら、彼は毎日毎日考えていたのではないか。

 ただ、大好きだっただけなのに。

義伯母おばは、その時の状況を受け入れられずに壊れて、病んでいって。優しかったあの人が、俺を見るたびに嫌悪感を示すようになって」

 何を言われたのか。どんな光景を見ざるを得なかったのか。それに何を感じ、何が彼の心を痛めたのか。

 何ひとつ知らない。そのはずなのに、察してしまう。

「伯父もそんな彼女を見ているのが辛くないわけがなく、毎日陰で泣いていた。俺は知っていました。自分は真実、あの家にとっては疫病神だった。義伯母おばは正しかった」


 疫病神。よくないことを招くとして人から嫌われる者。

 不幸の申し子。あらゆる不幸をその身ひとつに押し固めて生まれてきた者。


 ああやっぱりだ、と心中で呟く。

 シュリだけじゃない。オレはこの人ともよく似ていたのだ。

「たとえ疫病神じゃなくても、あの人たちを食い潰していたのは、まぎれもない事実だったから」

 ――もういいよ、伯父さん。俺を出て行かせても、誰も文句なんて言わないから。義伯母おばさんを楽にしてあげて。

「そして俺自身のことも楽にしてほしい。そう、伯父に言いました」

 伯父さんに告げたという言葉を教えてくれる間の彼は、オレが何を思っているのか分かっているかのように、ただ寂しげな瞳をしていた。

「結局、他に引き取ってくれるような親戚もおらず、俺は施設に移ることになりました」

 あたたかく迎えてくれたはずの『家族』は崩壊して形を失い、彼は一人で生きなければならなくなった。

 その時の彼は、寂しさで押しつぶされそうだったのだろうか。それとも、楽になったと安心したのだろうか。

 尋ねることはできず、ただ話に耳を傾ける。

「……そんな俺を最後まで引き留めてくれたのは、姉でした。義伯母が俺にどれだけむごい仕打ちをしたのかは知っている。楽になりたいと俺の方から父に頼んだことも知っている。それでも、俺を独りぼっちにしたくない、と」

 シュリのお母さんの台詞をひとつひとつなぞっていく後藤さんは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 多分、本人は分かっていない。だけど、今は亡き大切な人に思いを馳せる悲痛な様相に、オレの胸までもがじくじくと痛む。

「なぜ、と尋ねたら、姉は悲しそうに笑いました」

 ――わたしが、弟が離れ離れになることを嫌だと思わない姉と思った?

 大切にしていたのは後藤さんだけじゃない。沙里さんの方も、彼を大切にしていた。家族として、姉弟として。

「心は揺れました。だけど、姉のその優しい誘いに従うことはできませんでした。義伯母おばに限らず、もはや伯父にとっても、自分がもはや重荷でしかないことを分かっていましたから」

 大切であり大切にされている、それだけで話が片付けばきっと楽だったのに。現実は上手くいかず、後藤さんは一人で大切な人たちの元を離れた。

 この人は本当に自己犠牲的な人だ。

 自分以外の誰かをおもんぱかって、自分の欲を総て封じ込めて、愛しいものを手放した。

 自分の欲しいものを手放したくなくてずっとしがみついていたオレには、そんなことできない。

「何で、そこまで……」

 だから、ほとんど無意識的にそうこぼしていた。

 すると後藤さんは、怪訝そうに片眉を持ち上げる。何を当然のことを? と言いたげに。


「彼らが誰より何より、自分自身以上に、大切だったからです」


 彼の目を捉えると、一切の曇りも迷いもない。ああこの人は本心から言っている。すぐに分かり、もう何も口に出せなくなった。

 静かになったオレを一瞥してから、再び独白は続いていく。

「家を出る日、伯父は泣いて謝りました。ごめん、と何度も繰り返して。俺が選んだ結末なのだから、そんなことをしなくてもよかったのに」

 それは恐らく、後藤さんのために、というよりは彼らのために発された謝罪だったから。まだ中学生の子供に自ら出ていく決心をさせなければならなかったことに、罪悪感がなかったはずはない。それから少しでも逃れるために。

 オレに分かるのだから、後藤さんも分かっていただろう。彼はきっと、その自己満足の謝罪さえ黙って受け取ったのだろう。何より大事な人たちであるからという、それだけの理由で。

「同時に伯父は頼んできました。この家の秘密は、後生だから決して口外しないように、と」

 秘密。唐突な台詞に目を瞬かせると、後藤さんはまたもオレの目線を捕らえるようにしてくる。その『秘密』が彼の語りの核心であるのだと、真剣さを湛えて揺らがない彼の瞳を見て思った。

義伯母おばの血筋から、姉、そして珠里お嬢さまにまで受け継がれていった秘密です」

 言葉を探すようにしながらも、一音一音はっきりと紡がれていく。

 つまりは、血縁に関わる秘密であるということだ。

 心臓がばくばくと激しく弾んでいた。

 予感が、している。彼の口から、とんでもないものが飛び出してくると。

「…………そういえば、シュリのお母さんの名字って、小池、で、いいんですよね……?」

 勢いを増す鼓動がうるさい。あまりの激しさに胸が軋む。

 自分で訊いたくせに、後悔している。聞かなければ知らないままでいられるのに、なぜに知ろうとしてしまったのかと。

 だけどもう、止められない。答えを聞かなくても、答えは半ば分かってしまっているのだから。

 シュリは恨みを向けていたのは、村田そのものと、上條と、そして――……

「いいえ」

 見間違いようもなくはっきりと、後藤さんはかぶりを振った。

「姉の名字は、宮苑。宮苑沙里。本家からはかなり遠い、名字のみを保持しているといってもいいような家でしたが、宮苑の分家筋の人間でした」

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