「わたしはわたし」
「きみがほしい」。
その言葉を残して、あの日シュリは出て行った。
オレは自分の頬を伝っていく涙を拭うことも、ゆっくりと離れていく彼女を引き留めることもできず、ただ見送った。
どうして彼女までもが泣き、あれほど真剣な目でオレを求めたのか、分からないまま。
「――……ッ!」
大きく息を吸い込みながら目を覚ますと、明度ゼロの世界が広がっている。
黒、それはオレが最も嫌いな色。一面がその色で塗り潰されたこの空間に息が詰まった。
黒、黒、黒。どこを見てもそれ一色で、気が狂いそうだ。
荒い呼吸が空間に反響し、幾重にも重なって耳に届く。
現実から目を背けようと瞼を伏せれば、またも世界は黒に染まってしまう。
叫び出したい気持ちをどうにか抑えつけ、意識して呼吸を深くする。体力も気力も、これ以上喪っては危険だと本能が訴えかけてきていた。
八方塞がりで、もうどうしようもない。
黒い世界なんて、もう嫌だった。見たくなかった。狭い六畳一間で息を潜めていた頃が逆戻りしてきたみたいだ。
あの日々にはもう疾うに別れを告げたはずなのに。自らを狂わせることで、母があのケダモノのような男からオレを守ってくれたはずなのに。解放してくれたはずだったのに。
それなのに、どうしてオレはこんな真っ暗な闇の中にいる?
何もかもが分からない。分からないよ。
――何見てんだよこのウスノロがッ!! 何の役にも立たねぇ、愚図なガキなんざ邪魔なだけだ! こんなガキ、勝手に産みやがってあのアマ……!!
こうして天井をぼんやり眺めていると、もう忘れたと思っていた記憶が次々に掘り起こされる。
痛い、と叫んでも、やめて、と懇願しても、止まることはなかった暴力。泣きじゃくったところで降り注ぎ続けた暴言の雨。
――お前なんざ最初っからいなけりゃ、俺ァもっと楽できたんだよ!!
あの頃は受け入れたくなくて目を固く閉じたその台詞に、今なら頷くことができそうだ。
不幸しか呼ばないオレなんて、初めからいなければよかったのだ。
――すきだよ、……龍之介。
本当か嘘かも分からない監禁犯の言葉に振り回されるだけの、こんな人生なら。
あの日を最後に、シュリは一度も姿を見せていない。毎日欠かさずとは言わないまでも、かなりの頻度だった訪問が、ぱたりと止んでしまっていた。
その代わりとでもいうつもりなのか、忘れていたかのようにしてスピーカーから流れてくる、『ラプソディ・イン・ブルー』が時折あるだけ。
彼女が来なくなる以前に時間感覚はとっくになくなっていたから、彼女が現れた日からどれくらい経過しているかは推測するしかない。しかし、多分二、三日という程度のものではないだろう。
つまり『地下室』に閉じ込められてからも相当日数が経っている。
運んできてもらったものを食べて、死んだように寝て、起きて。起きたら無機質なコンクリートの天井を眺めて、シャワーを浴びて、また死んだように眠る。
そういうことの繰り返し。
あまりにすることがないと人は狂うといつだか聞いたことがあったけれど、納得だった。実際、今のオレは、自分がまともでいられているのかどうか全く自信がない。
正気と狂気の境目なんて自身では分からないものなのだと、どうでもいい発見はあった。
「シュリ……」
そうでもしないと声を出すことさえ忘れてしまいそうで、届くことはないと分かっているのに、気づいたら呟いている。
ベッドの上でほんの少し寝返りを打っていると、また『ラプソディ・イン・ブルー』が流れ始めたのに気づいた。
再生頻度にはムラがあるから、どういうサイクルなのかは知りようもない。
でも、もしかすると、あの本だらけの部屋でかけられている曲が流れるようになっているのではないか、とも思う。ただの推測だが。
そう思うことで、同じ時間を過ごしているような感覚を得たいのだろうか?
くだらない、と自らのことながら嘲笑が込み上げる。
何ひとつ思いが重なることはないのに、時間だけを共有したところで何の意味があるというのか。
一緒に寝転びながら、美しい音色に耳を澄ませたあの日が、遠い。きっと、あんな優しいところには戻れないところにまで来てしまっている。
何を、どこで、どうして間違えて、こうなってしまったのだろう。
自分の理解が及ばないことを考え続けるせいで、脳は疲弊していく。苦手な空間に閉じ込められているのに疲労も重なり、気分は最低調だ。
しばらくすると、曲はだんだんとフェードアウトしていき、そのうち消えていく。
無音になった後に否応なしに襲ってくる、この寂寥感。それを覚えさせるために彼女がこの曲をかけられているのだとしたら、目論見は大成功だ。
辛いよ。苦しいよ。寂しいよ。
どんなに狂った台詞でもいい。聞かせてほしい。
こんなことを思うなんて、頭が確実にやられていっている。
ずっと一人きり。それしかすることがないせいで思考はやめられず、つらつらと流れていく。どんどんマイナスの方向へと。
ああ、でも、オレが寂しいからって、傍にいてほしいなんて願うこと自体おこがましいのか。オレは不幸の申し子だから。大事な人にまで不幸を呼ぶから。
かあさん、おれのせいで、くるわせて、ごめん。
決して口にはできない言の葉が、喉の奥に絡まる。
母以来、大切だと思う人間になんて出会ったことがなかったから気にしたこともなかった。だが、分かりきっている。オレはきっとそういう人間を作ってはいけなかった。
そう頭をよぎった時点で、その考えは自分の心が何を感じているかの表れで。抱くべきではなかった感情を抱いてしまったことの証明でしかなくて。
どんなに恐ろしくて怯えても、どんなに理解できないと嘆いても、オレは――シュリが大切なのだ。
だからこそ、彼女が本気でないのだろうと想像してしまうたび、胸が痛かった。
前上という男と寝たシュリは、どうせオレを騙して楽しんでいたのだろう。シュリはそうは言っていないのに想像して勝手に傷ついて。
その手が触れるのはオレだけであってほしかったなんて、馬鹿みたいだ。
大切に思えば思うほど、どろどろとしたものが胸に降り積もっていく。それは愛と呼ぶには醜すぎた。
そう思えば、こうして無理矢理に彼女の傍から引き離されたことも、ある意味ではよかったのかもしれない。もうこれ以上の醜態を彼女に晒すことはないから。
しかも、オレはきっと彼女にまで悪いものを呼び寄せる。だったらいっそ、このまま二度と会えない方がいい。
一生、こうして閉じ込められたままで。
ベッドに横たわったまま体を丸める。膝に顔を埋め、ため息を吐き出そうとした時だ。
何か重たいものが動くような音が響く。勢いよく顔を上げると、地上へと続く階段の方から降り注ぐ光量が増していた。扉が開け放たれたのだ。
続いて、階段を下りてくる足音がする。
思わず立ち上がり、鉄格子を掴んだ。
白いワンピースを翻して現れたのは、誰より待ち望んでいたその人だったから。
「シュリっ……!」
久々に大きな声を出したので声が掠れる。
会わない方がいい、なんて殊勝なことを思っていたくせに、途端に別の思いが込み上げてくる。やっと来てくれた。もう一度会えた。喜びの感情がじわじわと。
でも、名を呼ばれても目の前の少女は特に反応を示さず、硬い表情でこちらに近づいてくる。首の辺りで切りそろえられた蜂蜜色の髪が、さらさらと揺れていた。
「出してはあげないよ」
口を開きかけたオレを遮り、彼女は表情と同じく硬い声で先手を打つ。
そんなこと言うつもりもなかったのに、いざ彼女に言われてみると自分は口にしようとしていたのかもしれないとも思えて、言うべきことを見失った。
唇を引き結んでいるオレをシュリは無表情に見遣りながら、目前まで足を運んでくる。
「……ごめんね」
鉄格子を掴むオレの手に、彼女の手が重なった。その手は芯から冷え入るように冷たい。
「あいちゃんには、ここにいてほしい」
触れ合っているのに、語りかけられているのに、彼女の心は今この時にはない。
何となく察する。
「なあ、シュリ……」
声をかけて、こちらに向けられた薄茶色の目を見て、何も言えなくなってしまう。頭の中をぐるぐると回っているものはいくらでもあるのに。
お前はいったい何を考えているんだ。俺をどうしたいんだ。お前は、どこに向かいたいんだ。
腹の内が見えなくてやはり恐ろしいと思うのに、手を振り払うことはできない。
どんなに冷たい温度でも、彼女が確実にここにいることを証明してくれるのは、それだけから。
こんな暗い空間では、目が役に立たない。偏った音しか聞いてこなかった耳も、やはり当てにはできない。
だけど、触れられている限り、きっと本物だ。
ふと、オレを掴むシュリの手の力が強まったのに気づき、いつの間にか俯けていた顔を上げて彼女を見る。
シュリは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「あいちゃんは、ここから出さない」
幾度も聞かされた言葉だ。納得したわけではないけれど、半分諦めの境地に入りかけていることもあり、もう反論はする気もない。
だから、先ほどのオレのように唇を真一文字に引き結んでいるシュリを、ただ見つめた。
「あいちゃんは、」
ややあって、彼女が再び口を開く。
また少し、間が空いた。二人の呼吸音だけが沈黙の世界を支配する。
促す言葉も遮る言葉もオレにはないため、シュリがもう一度口を開くのを辛抱強く待った。
「……ここにいてくれれば、安全だから」
幾度か呼吸を繰り返したころ、震える声が空間に響く。
透明な雫が彼女の頬を伝っていく。
静かに、とても静かに、シュリは泣いていた。
あまりの驚きから呆然とその様子を見遣る。言葉の意図も、涙の理由も、オレにはまた何も理解できない。
「知ってるよ。分かってたよ。あいちゃんが言ってたこと」
オレに発言の隙を与えないようにするがごとく、シュリはまた言葉を紡いでいく。
「ぼくの想いは、あいちゃんが言ってたように、他人からすれば愛だなんて呼べないものなんだって。ぼくがおかしいんだって。分かってたよ。分かってるよ」
それでも、とオレの手を掴む力を強めた彼女にオレは何も言えず、間抜け面で見ていることしかできない。
「それでもね、ぼくはあいちゃんがすきだよ。大好きなんだよ」
唐突に離された手。目を見つめられながらの真っ直ぐな告白。ワンピースが彼女の動きに合わせてはためき、視界で揺れる。
彼女の目にある強い光が、オレには怖くて。同時に、眩しかった。
「それがたとえ、周りからは異常に見えたとしても――わたしは、わたしだから」
向けられた愛の言葉がまるで決別みたいで、オレの心を不安が覆っていく。
シュリ。お前は何を考えている?
何度目かの思考がオレを襲う。
涙はもう乾いていたけれど、泣いたせいで目の端を赤くしたままで微笑む彼女がそこにはいた。その姿はいつも以上に幼く、見たことがないほど頼りなげに見える。
「シュリ!!」
「あいちゃんはここにいて」
「……ッ何でオレをそこまで想う!?」
それで引き留められるのならば、自意識過剰だと思われるような疑問でも、口にせずにはいられなかった。閉じ込められた当初からずっと自問していたことを。
なぜお前はオレを選んだ。
あの時季外れの大雪の日、他にも男たちは山ほどいた中で、特にぱっとしないオレを選んだ理由は何だったのだ。
「同じだと思ったから」
しばしの間の後、彼女はぽつりと言った。
無表情に。無感情に。淡々とした声で。
目を見張った瞬間、頭をよぎる記憶。
――何であいつは幸せなの!? それなのに何でわたしは不幸なの!? 分からない分かんない分かんない分かんないよ!! こんな、世界、なんて……! 壊れろ、壊れろ!! 壊れろ壊れろ壊れろ壊れてしまえ!!
あの時、絶叫するシュリを見ながら感じた、自分のもののはずなのにどこか異質だった感情。
でも今それを思い出したのがなぜだかもよく分からず、こちらを見つめるシュリを呆けたように見つめた。
「ぼくと君は、おんなじだと思ったから」
言い残して、彼女は去っていく。
オレの戸惑いなんて、全くお構いなしに。




