人生最悪の日
一曲目『ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)
by ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin)
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自分の腕時計が小さな機械音を立て、午前10時を知らせる。
――……ああ、終わった。
全身から力が抜け落ちる。その場で座り込んでしまいたいのをどうにかこらえ、人でごった返す駅の構内をふらふらと抜けて外に出た。
途端、オレの髪に、肩に、腕に胸に、ぼたぼたと天から降ってくる白いもの。積もっていく『それ』のせいで足をとられ、滑りかけている人たちが何人もいる。
そう、『それ』の正体とは――雪。
見る者の心を奪う、美しいその氷の結晶が、オレから将来をも奪っていったのだ。
「はあ……」
どうにもならないのに、深いため息がこぼれる。
オレは中3。世に言う『受験生』というやつだった。
やってきた受験シーズン、オレはまず推薦入試を受験した。先生からもらっていた「絶対大丈夫だ」という太鼓判は、当てになりはせず、失敗することとなる。
しかし、それは先生のせいでは断じてない。偏に自分のせいだった。
朝、しっかり持って出たはずの受験票が、試験会場の机に着いてみたらなぜか消えていた。
何も不思議なことはない。ただどこかで失くしてしまったのだろう。
たったそれだけのことだけれど、緊張していた身としてはものすごく動揺させられた。
係員に言って仮の受験票を発行してはもらえたが、心の乱れは尾を引き、その後の小論文や面接にとても大きな影響を与えた。
結果はもちろん惨敗。
落ち込むオレを先生は慰めてくれた。まだ一般があるから、って。
もちろん、オレも気持ちを切り替えた。落ち込んだままで一般入試にまで影響が及んだら元も子もない。結果は変わらないのだから。
それは、よかったのだが。
今度こそ、という思いが拍車をかけ、毎日毎日無理をし続けたのが悪かったのかもしれない。
一般入試の受験日当日、オレはベッドから起き上がれないほどの高熱を出した。
それでも、行かなきゃ、行かなきゃ、と気持ちだけは急いた。腕一本、それどころか指一本を動かすのも辛いというのに。
でも意識が保てなくて、眠って、起きたときにはもう夕方だった。
まだ熱が残り気だるい体を抱えたまま、終わった、と、ただ漠然とそう思った。
今日は、最後の望みを託した、二次募集の日であったのだが。
重いため息が再び口の端から漏れ出る。
『今日は全国的に大雪に見舞われており、各所の交通機能などに影響が出ています。特に雪に慣れていない関東地方では――』
駅の前、誰かの見ているワンセグからそんな音が耳に届いた。
その通り、噂の大雪はオレの将来を完全に潰したのだった。
もう3月も半ばどころか後半期に片足を突っ込んでいるというのに、突然に降り積もった白いもの。雪に慣れていない地域であるこの辺りは、完全に動きがストップしてしまっているのだ。
オレは少し遠方の全寮制の私立校を受ける予定だった。しかし、前泊するほど不便な場所にあるわけでもない。だから、どうしても新幹線利用が必要で。
それなのに、無情にも雪が行く手を阻んだ。
昔から運という運に見放されていたけれど、まさかここまでとは自分でも思わなかった。
「高校浪人決定……」
小さな呟きは、誰にもキャッチしてもらえることはない。
みな、それぞれに自分の『何か』に忙しいこの国。ぼんやりと歩くオレの脇を、何人もの人間たちが急ぎ足で通りすぎていく。
オレは独りだ。
憎々しい白い雪を払いのけて、肩を怒らせ大きく一歩踏み出したところで――ずるっと足元が滑った。
あ、と思った時にはもう遅い。思いきり転げて強かに尻餅をついた。
ものすごい音がしたからか、通行人の多くが一度怪訝そうに振り返る。が、それも束の間、また自分の道のりを急いでいく。
そういう様子に苛々とした感情が溜まっていくものの、責められたことではないことぐらい分かっているし、八つ当たりしても仕方がない。
本当についていない。オレには貧乏神か何かが取り憑いているんじゃないか? とか、くだらないことを思った。
立ち上がって、どこにも怪我をしていないことを確認してから、服の汚れを払う。そしてまたふらふらと歩き始めようとした、その時だ。
「お兄さん、大丈夫ーぅ?」
そんな声が背後から聞こえてきたのは。
まあ多分オレのことじゃないだろう、とそのまま歩き進めようとしたら、更に言葉が続く。
「無視しないでよー。今そこで滑って転んでたお兄さん。泥ついてるよぉ?」
――今、そこで、転んでいた?
それは間違いなくオレのことである。振り返ると、そこには一人の少女。もっと正確に述べるのならば、人形のように美しい少女、だった。
蜂蜜色をした腰まである髪の毛。あまりに白いためか、青くさえ見える柔らかそうな肌。長い睫毛に縁取られた、薄茶色をした大きな瞳。華奢な体つき。
絶世の美少女、というものに会ったことは生憎今まで一度もなかったが、彼女こそそうなのかもしれない。
「――……へ?」
だからこそ、間抜けな声が飛び出した。そんな美少女にまさか自分が話しかけられるとは思わない。
「ど、ろ。お兄さん、有名どころの制服着てるくせに、駄目じゃないのぉ? 汚しちゃってるよ」
ぱんっ、という乾いた音と共に、腰の辺りに軽い衝撃。
彼女が近寄った途端、シャンプーの残り香だろうか、花のような優しげな香りが漂った。
こんな美少女に声をかけられた上に泥を払ってもらえるなんて、オレは多分一生分の幸運を使い果たしたんじゃなかろうか。そのためについ先ほどまでの不幸が襲いかかったというのならクソ食らえだが。
「お兄さん、さっきからふらふらしてるけど、暇なのー?」
ちょん、と首を傾げるその仕草を、道行く男たちがちらちらと見ていく。肌によく映える白ニットのポンチョに身を包んで、というその行為は、正直とても可愛い。皆が振り返るのも道理だ。
「え。あー、いや……」
人生という意味で途方に暮れています、とは、さすがに言えなかった。初対面だからというのはもちろんだが、何より格好悪すぎる。
「まあ何か事情があるならそれでもいいんだけどぉ。お名前、何ていうの?」
わたしは小池珠里、と彼女は言った。天使みたいな顔で。
「シュは珠っていう字。リは里。それで小池珠里」
説明されたので反射的に頷いてしまった。すると少女――珠里は嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、またも首を傾げる。
「お兄さんはー?」
少しどぎまぎしつつも、どうにか答えようと口を開く。
「あ……相川、龍之介……」
字は手のひらに書いて教えると、彼女は「かっこいい名前だね」と言ってますます華やかに笑った。
「名前だけ、はね」
「え?」
「……あ。いや、何でもない」
名前負けなんだよ、と冗談混じりに笑い飛ばしてもよかったんだけど、やめておいた。自分が惨めになるだけのような気がしたから。
そんなオレを不思議そうに見ているけれど、珠里はそれ以上突っ込んではこなかった。ありがたかった。
「ねぇねぇ、おにーさん? 何してるんだか分からないけど、暇ならわたしのおうちに遊びに来ない?」
再び、天使みたいな笑顔で告げられる。あまりに唐突な台詞に、オレはとっさに反応できなかった。
「え……?」
「ね、いいでしょ? はい決定!」
そう続け、珠里はその小さい体と細腕に似合わぬ強い力でオレを引っ張っていこうとする。どう見ても年下の女の子に思うままにされようとしているとは、自分は何と情けないのだろうか、とため息がこぼれた。
「え、ちょ……珠里、さん? どこに……」
「だーかーらー、わたしのおうち。暇なんでしょ?」
相変わらずの天使の笑顔だが、その強引さには小悪魔が見え隠れする。だとしても、このままついていったら駄目だろう。
「いやいやいやいや、君とオレ、初対面でしょ……? そんな男を家に上げようとするって、君も警戒心なさすぎ……」
「大丈夫、親なんかいないから!」
そういう問題じゃなくて! と内心、全力で突っ込んだ。というか、いなかったらますます駄目だろう。オレはさらさらそんな気はないけれど、こんな可愛い子が見知らぬ男を家に上げたら危ないに決まってる。いや、可愛い子でなくとも駄目だが。
「ついてきてよ。ね、お願い」
「いくらお願いっていったって……逆ナン? にしても駄目でしょ。だからもう少し警戒――」
言葉が不自然に途切れたのには理由がある。
「言うこと聞いて、ってば」
ひとつは、今までと打って変わってトーンが低くなった声。口元は笑っているのに、目は冷えきっていて笑んでいないのに悪寒が走る。
そして何より、二人の服や腕などで周囲から隠すようにしつつ、銀色に煌めくものが脇腹に押しつけられていたから。
押し当てられているだけ、と言えば、そう。でも感触は服越しに伝わってくるし、彼女がその気になれば赤い血が噴出することだろう。
つまり、オレは彼女に命を握られてしまったのだ。
その場所の感覚だけが鋭敏になって冷や汗が流れ落ちていく感触が、やけに遠く感じられる。
「ね? ついてきてくれるでしょう?」
見かけだけは天使の笑顔に、オレは頷くしか方法がなかった。
『銀色に煌めくもの』の正体は、小型の包丁。
――ああやっぱり、今日は人生で最悪の日だ。