明度ゼロ
暗い。コンクリートの感触が硬く、ひんやりする。
でも流れる汗が鬱陶しいぐらいには暑い。その理由は明らかだった。
「なあに、あいちゃん。恨みがましそうな目」
オレに跨るように座りながら、ゆるゆると口角を持ち上げるシュリ。心底楽しそうだ。
だけど。
「そういうお前の目は、っ、笑って、ないけどな……」
見下ろされているのは気に食わないけれど、シュリによってもたらされる熱と快楽には抗うことができない。
どうにか息をついて気を紛らわそうとするも、オレの言葉にますます楽しそうに笑うシュリの動きがそれを許さなかった。
「何言ってるの? こんなに楽しそうに笑ってるじゃん」
肩を揺らして笑っている彼女。
「……どこがだよ」
毒づくも、シュリは相変わらずの表情だった。
「ぼく、あいちゃんのそういうところ好きだよ」
心にもないことを。前上と自分から寝て、オレを担いでいたくせに。よくもまあそんな台詞を吐けるものだ。
そういう心情が表情に表れていたのだろうか。シュリの纏う空気が少し冷えたような気がする。
分かっていても、思ったことを取り消せるわけではなく。
「……全く以て、嬉しくねぇ」
自殺行為のような気がしたが、言わずにはいられなかった。
「釣れない子にはお仕置きしないとね?」
やはり余計な一言だった、と思うも、時すでに遅し。シュリはオレの顔が悦びの色で染まっていくのを眺め、興がっている。
本当に馬鹿みたいだ。分かりきっているのに口にしてしまう自分。無駄だというのに、期待してしまう自分。
何かにしがみつきたい気分だが、存在しないシーツを掴むことはできず、ただ自分の拳をきつく握りしめる。床と皮膚が擦れる嫌な感覚に一瞬眉を顰めたが、快感が総てを攫っていた。
休むことなく動くシュリの息も荒くなってきているが、オレをじっと観察するような眼差しは逸らされないし、眦はやはり笑みで歪んでいる。
漏れ出してくる、まるで自分のものではないような声。聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。
だが意識を正常に留めておくためにも握りしめた拳を解くことはできず、ましてや耳まで移動させることなど至難の業だった。
だからせめて目をきつく閉じ、意識を自分の思考だけに向けようとしたのだったが。
「こっち見て、あいちゃん」
シュリが発する声は、甘い。甘いけれど有無を言わせない。
ここで従わなかったら果たしてどうなるのだろう。そんな天邪鬼な思いが頭を掠めたが、結局実行することはなかった。
彼女の動きが止まったこともあり、薄らと目を開ける。
「なんだよ……」
吐息が混じる声を他人事みたいに思いつつ、シュリを見上げた。
「わたしから目を逸らすなんて許さないってだけ」
また笑んだ彼女は上体を倒し、オレの唇を食む。絡まる舌へ自然と応じていたことに気づき、随分と従順になったことだと自分を嗤った。
ますます激しくなる口づけに背中へと腕を回して、少しの違和感を覚える。
そして思い出すのだ。シュリの髪がもう長くはなくなっていることを。自分がなぜこんなところに閉じ込められているのかを。
あの日舞い散った蜂蜜色が眼裏によぎる。
どうして、こうなってしまったのか。彼女はいったいどうしたいのか。
何も分からない。オレには、何にも。
シュリによって『地下室』に閉じ込められてから何日が経っているのか、オレには全く把握できていない。一日や二日ではないことは分かっているが、かといって一週間なのか、あるいはもっと経過しているのか。日の光はもちろん、時計がないこの場所では知りようもなかった。
食事はお手伝いさんのどちらかによって運ばれてくるし、地下室の中にシャワーもトイレもある。自由の範囲がより狭まっただけで、至れり尽くせりの状況は続いているといえば続いていた。
シュリは、たまにこうして気まぐれのようにオレの元を訪れる。体を重ねて、そして少しすると出ていった。
オレの存在価値なんて、多分その程度なのだろう。荒んだ思いが、ささくれ立った心を支配していく。
許す許さない、なんて、まるでオレの神にでもなったかのようだ。
そこでふと思い出す、金で身内から売られたという事実。オレの生存権は、初めからシュリが握っている。だとすればまさしく『神』だった。
「じゃあ、お前は……オレに何を、許すんだよ……」
倒していた体を起こしたシュリは微かに目を見開いたが、すぐにくすくすと笑い声をあげた。まるで、分かりきっているでしょう? とでも言いたいかのように。
「あいちゃんはわたしのことを愛せばいい、それで充分なんだよ」
「わたしは君を、愛しているから」。
こうして地下室に閉じ込めた日にも聞いた台詞が繰り返される。
「……お前の言う愛ってさ、いったい何なの?」
オレを愛するというのなら、どうして前上と寝た?
オレを愛するというのなら、どうしてオレを蚊帳の外に置くのだ。
「『愛してる』から何をしてもいいなんて思ってるなら……お前、ほんと頭おかしいよ」
ようやく絞り出せたのは、そんな言葉。
シュリは再び目を見張ったかと思えば、喉を震わせて笑い始める。
「頭おかしい、結構じゃない? 愛を囁く人間たちなんてだいたい皆狂ってるんだから。人間なんて自分のことさえ分からないようなイキモノなのに、全くの他人を『愛して』、『理解していると信じて』、『愛を返してもらえてると感じている』なんて、正気の沙汰じゃない」
シュリから落ちてくるのは汗の雫。まるで涙の雨のよう。
だけど彼女は笑っている。理解できないと嘆くオレなんてお構いなしに。
泣いているみたいだなんて、多分オレがそう思いたいだけなのだ。
「何もかも総ての行動が、『愛している人のためでなければならない』なんて、わたしから言わせればそれこそ狂ってる」
地下室にもスピーカーがついているらしく、鳴り止まない音楽だけが訪れた沈黙の中を通り抜ける。
今日の一曲はラプソディ・イン・ブルーではなく、エリック・サティの『ジュ・トゥ・ヴ』だった。
邦題――『きみがほしい』。
シュリの心情と何が関係しているのか。あるいは全く無関係なのか。それとも何かを狙って選曲したのか。
いろいろ考えるけれど、もしただ混乱させたいだけだったら、オレは彼女の術中にまんまと嵌まっている。
「……狂ってるのは自分だけなんかじゃないって、そう思いたいって?」
動きが止まって久しいため、息もだいぶ落ち着いてきた。それだけに、自分で考えていたよりもずっとクリアに発声できて驚く。
オレでさえびっくりしたのだ、シュリの方はそれ以上だったらしい。幾度目か大きく目を見開いた。
またも沈黙が訪れる。何も言わない彼女が怖くて、先ほどまで暑さでびっしょりだった背中を冷たい汗が伝っていった。
「――黙って」
やがて、シュリの顔からふっと表情がなくなる。彼女のほっそりした指がオレの首にかかる。
ぐ、っと息が詰まって、シュリが再び動き始めて快感が襲ってくるのを、どこか一枚膜が張った世界の出来事のように感じていた。
絞められている上に快感に息が詰まり、酸欠からか視界がぼやける。
このまま死ねるのならそれもいいか、と思うのと同時に、この程度ではオレは死なないだろうとも思う。
彼女がどんな顔をしているのか、こんな霞んだ視界では見えない。
でも、感じる。ぽたりぽたりと落ちてくる雫。汗だというにはあまりに甘い。
なあ、シュリ。どうしてお前が泣くんだよ。
少ししてシュリがオレの上から降り、手が外れる。
急に空気が入り込んで咳き込んだ。首の皮膚もヒリつくし、彼女の手によって確かに首を絞められていた証。
それでも、オレは一切死の恐怖を感じてはいなかった。つまりはそういうことだろう。
彼女にオレを殺すつもりなど初めからなかった。死なない程度に調節されながら絞められていたのである。
ただオレの発する言葉を聞きたくなかった。それだけのこと。
感覚が遠くとも、行為が終わっていることは分かる。二重の意味で荒い息を意識的に深くして宥めた。じっとりと汗ばんだ体を、コンクリートが急速に冷やしていく。
傍に座りながら、シュリがオレの頭を繰り返し撫でている。さらり、さらり、閉じ込められるうちに長く伸びた髪が頬を擽る。
視線を感じつつも何も言わずにいると、少しして彼女の方が口を開いた。
「……どうして、君が泣くの」
え? と言おうとして、気づく。自分の頬に汗ではない筋ができていること。
シュリがじっと見つめてくるのを感じながら、両手で顔を覆う。
意味が分からない。泣いていたのはオレで、彼女は泣いていなかった? どうしてこんなにも溢れ出して止まらないのだ。
そもそも明るくはない地下室。頼りないフットライトだけがオレたちを照らしている。
その淡い光を遮ってオレの顔を覗き込む、人形のように美しい少女。
「馬鹿な、あいちゃん」
顔の傍に突かれている方ではないシュリの小さな手が、顔を隠そうと抗うオレの手を無理矢理にどかす。その外見からは想像がつかない、いつもの強い力で。
唇がオレの瞼に触れた。驚きから硬直すると、柔らかな舌が涙を舐め取っていく。
「――甘い、ね」
噛みしめるように呟かれ、オレは瞳を揺らしてシュリを見た。
「すきだよ、……龍之介」
止まらない涙を流すオレの頭を抱えるように。何かに怯えたように。それでいて、決意を込めたように。
何ゆえその名を呼ぶのだ。まるで本気みたいじゃないか。
どうして首を絞めたその手で抱きしめる。どうして嘲笑ったその口で、愛を紡ぐ。
分からない。分からないよ。
「オレには、お前が、分からない……ッ」
情けなさを感じるけれど、堰を切ったかのように溢れて溢れて終わりが見えない。彼女が纏うシャツの一部だけがぐっしょりと濡れていく。
お前はオレをどうしたいんだ。何を考えているんだ。
またしてもシュリは何も言わない。それが多分、悲しい。
互いに黙り込み、重苦しい静寂が地下室を覆う。
明度ゼロの空間の中、シュリの心情さえオレにとっては真っ暗だ。
「……ごめんね」
ややあって、シュリがようやく口を開いた。
何を謝るのか。見上げようとするとシュリは耳元に唇を寄せ、耳朶にひとつ、キスをする。
「わたしの想いなんて、ひとつだけだよ」
とても静かで、甘ったるい響きなんてない、ただただ真っ直ぐな声の調子で。
「『きみがほしい』」




