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真っ暗闇へ

 ふいにゆらりと立ち上がったシュリ。振り返った彼女の目はくらく、何の光も湛えてはいない。その瞳で射竦められると、逃げることも抱きしめることもできない。

「シュリ……?」

 不安になって呼んでも、それ以後に言葉が続かない。オレが呼んだ瞬間、口の端を吊り上げて笑う彼女に畏怖を覚えてしまったことだけが理由ではなかった。声が届かないことぐらいもう知っているし、振り向いてほしかったのが自分のエゴのせいだと気づいてしまったから。

「――君も、可哀相な子だよね」

 そっと頬に触れてきた手にびくりと肩が跳ねた。

「ぼくになんか目をつけられちゃって」

 猫撫で声である分、逆に恐ろしい。今までの日々で彼女に対して畏怖した時と同様に、背中を冷や汗が伝っていくのが分かった。

「出たいんだろうけど、出してあげないから。絶対。ぜーったい」

 頬に触れた手は、熱いお湯の中に座り込んでいたにしては、冷たかった。それがどうしようもないくらい彼女とオレの距離が開いてしまっていることを示している気がして、嫌でたまらなかった。

 しかしシュリはオレの心情などつゆ知らぬようで。

「後藤」

 自らの忠実な使用人に呼びかけ、言い放った。


「この子、地下室に連れてって」


 頭が真っ白になった気がした。

「な……何言ってんだよ、お前……」

 声がみっともなく震える。

 後藤さんも後藤さんでどう動いたらいいか分からないようだ。もしくは迷ってでもいるらしく、常々機敏な彼にしては動きが鈍い。

「後藤。連れてって」

 彼女の目には妙な力がこもっていた。そんなわけがないのに、総ての人間を思う通りに動かせてしまいそうなほどの、強いものが。

 後藤さんもそれを感じ取ったようで、動くしかなくなった。当然だろう。彼女のあんな目にオレだって逆らえる気はしない。

「……申し訳ございません、相川さま」

 いつもだったら彼のすまなそうな表情を見れば、こちらこそ申し訳なくなって、「いいえ!」と答えているだろう。だが、今回ばかりは無理だった。

「後藤さん、貴方まで何してるんですか……!?」

 腕を掴まれて抗う。後藤さんは相変わらず動かないまま、オレを見て唇を噛んでいた。従わなければという意識は働いていつつも、まだ迷っているみたいで。

「後藤ッ!」

 その様子に、シュリが金切り声をあげた。

「後藤さん……」

 彼女の声に掴む手の力は強まったけれど、それだけ。望むようには動こうとしない。

 とうとう痺れを切らしたらしいシュリはつかつかと近づいてきて、乱暴に腕を掴む。そしてどこに持っていたのか、首の鎖を短いものに素早く付け替え、強い力で引っ張っていく。

「シュリ! 待てよ……!」

 転倒を避けるには、シュリの速度に合わせて歩くしかない。呼びかけてもオレの言葉に答えることはなく、ずかずかとどこかに向かっていく。

「お嬢さま! お待ちください!」

 固まっていた後藤さんが追いかけてきて、しっかりと彼女の細い肩を捕まえて引き留める。

「やはり駄目です、あの場所に相川さまを連れていかれるなど! 何を考えておいでなのですか!?」

 悲しみを前面に表した顔。今日の後藤さんはオレの見たことのない表情をいくつもしていたけれど、これは特に意外過ぎて、半ば呆然と二人のやり取りを見守るしかなかった。

「後藤は黙っててよ! どうせあんただって、わたしのことなんか自分の願いを叶えるための道具ぐらいにしか思ってないんでしょ!」

 彼女の返しに彼は言葉を詰まらせて、思わずだろう、手を離してしまった。

 シュリはその間に後藤さんから遠のき、オレを引きずりながら階下に歩を進めていく。

 助けを求めるような目で彼を見たが、無駄だった。魂を抜かれてしまったかのように彼は顔を上げず、もちろんオレを見ることもなかった。

 途中ですれ違った皆本さんが、オレたちのただならぬ様子に目を剥くけれども、シュリに一睨みされれば身を縮めてしまう。申し訳なさそうな表情はするものの、オレを助けてくれることはなかった。手を伸ばしても、届かなかった。

 気づくとオレは今まで一度も入ったことのない辺りにいて、床に取り付けられた扉をシュリが開け放っているところである。人一人がようやく通ることができるぐらいの、小さな入り口。

 見えたその先には階段があって、シュリはまたオレを引きずりながら下りていった。フットライトぐらいしか明かりはなく、唐突な暗さに慣れない目ではよく状況が掴めない。鎖を引っ張られている上にそんな暗さだ、下りるのは相当に怖かった。

 コンクリート打ちなのだろうか、ひんやりとした感触が裸足に伝わってきて、酷く寒く感じられる。多分、地下であることも関係していると思う。

 一番手っ取り早く掴める床の情報ばかりに囚われていたが、徐々に目が慣れていくに従って、この部屋の全容が見えた。だだっ広い部屋の中に、鉄格子があった。地下室とはつまり、よく映画で見るような牢屋のことだったのだ。

 鉄格子の前には簡素なテーブルと椅子があり、その傍の壁に取り付けられたフックには鍵がぶら下がっている。どこの鍵かなんて、鉄格子にある扉にぶら下がった重そうな南京錠を見ればすぐに分かった。

「シュリっ、待てよ!」

 懇願するような声になってしまうくらいには、今の彼女が話の通じる状況にいないように見えた。

 だって、こちらを一度も見ようとしないのだ。どんな顔をしているのかも、なぜこんなことをしようとしているのかも、分からない。何も分からない。

 予想通り、オレの最後の叫びは届くことなく。

「入って」

 冷たい声色で言われながら、鉄格子で囲われた牢の中に押し込まれた。

 勢いのよさに尻もちをつくオレの後に、シュリは続けて入ってきた。しかしもちろん、共にここへと閉じこもるためではない。持っていた鎖の端をベッドに繋ぎ、すぐさま牢の外に出ていった。

 掴もうとしたオレの手からは、するりと逃れられてしまう。

 無情で重たい金属音が響いて、扉が閉まる。続けて鍵がかかる音が地下室を満たした。

 手を伸ばせば届きそうなほど近い距離にいるはずなのに、二人の間を無機質でどうしようもなく強固なものが阻む。

 オレは何とか立ち上がって扉を揺さぶった。

「おいッ、シュリ! 出せよ! シュリ!!」

「出さない。ずっとここにいて」

 淡々と呟く彼女は、これほど恐ろしいことをしているというのに顔色ひとつ変えていない。

「何、で……何で、こんなこと……」

 オレが動くたびにじゃらじゃらと鎖が耳障りに音を立てる。でもそれだけで、この扉を開けることは、できない。

 虚しさが襲って揺らすのをやめた瞬間、問いへの答えが訪れる。

「君が出してほしいとか言うから。それに君がぼくを責めるから」

 前者は分からなくもないけれど、後者の理屈は分からない。それに声から感情が抜け落ちているので、彼女がこれを本心で言っているのか、何か他の考えがあって言っているのか図りかねる。

「オレが、お前を、責めたから……?」

 困惑しきりのオレの言葉に彼女は無言で頷いた。

「どういう意味だよ……?」

「わたしの考えていること、誰にも邪魔なんかさせたくない。絶対成功させる。何を引き替えにしても」

 シュリが強い力で手をかけたことで、鉄格子の扉は軽く悲鳴をあげる。かしゃんという小さい音が地下室に反響した。

「たとえそれが好きな人でも、ぼくの道を遮ろうとする人間は許さないから。君はそうなる可能性が大きいから。だからここに閉じ込める。一生」

 い っ し ょ う ?

 オレは仰天して二の句が継げなくなった。

「じょうだん、だ、よな……?」

 声が震える。嘘だと思いたい。冗談だと笑ってほしかった。

 まさかそんなこと、いくらシュリだって。そう思っている自分がいる一方で、彼女ならやりかねないと囁く自分もいる。どちらの声に従うべきか分からなくて立ち竦んだ。

 オレのぐちゃぐちゃな心情を分かっていて嘲るように、彼女はにっこりと笑う。天使みたいな、だけど何の感情もこもっていやしないと隠そうともしていない、作りものの表情だった。

「だって、わたしは君を愛しているから」

 『わたし』と『ぼく』。相変わらず定まらない一人称。彼女の本心はいったいどちらにあるのか。

「愛してるから……閉じ込めるのかよ」

「そうだよ。邪魔してほしくはないけど、ぼくの手の中にいてほしいんだもん」

 彼女がかけた体重のために、扉がぎしりと軋む。オレの心が揺らぐ音と同じで、ダブって、より大きく反響しているみたいに聞こえた。

 額を鉄格子につけたシュリは、ゆるゆると口角を持ち上げた。


「君もぼくも、似た者同士だよ」


 じゃらり。耳障りな金属音が耳朶に触れる。

 美しい蜂蜜色の髪が視界を掠める。

「どういう意味だよ」

 何の感情も映らない瞳が怖い。だけど、たまらなく惹かれる。

「だって、君がここに入ってから、何日が経ったか知ってる? 誰も君を探そうともしてないんだよ? そうでしょ? 君もぼくも、必要となんてされてない。誰にも」

 誰にも探されない。誰にも必要とされてなんかいない。いなくなったって、誰も構わない。

 一気に押し寄せてくる、考えまいとしていた事実。

「やめろよ!」

 反射的に叫んでも、彼女は笑んだまま。でも、笑っているのに、相変わらず瞳には感情が映ってはいない。楽しそうなのに、冷え冷えとしている。

「認めなよ、もう」

 声は、冷徹で、けれど――とても甘い。

 ぐっと息を呑めば、彼女はさも可笑しそうにくすくすと声を上げる。

「分かってるんでしょ?」

 オレを嘲笑っている、はずなのに。でも、彼女はオレを見ているようで見ていなかった。

 オレを打ちのめすような言葉を吐くことで、自分自身を打ちのめそうとしているかのようで。

 その頬に触れようと手を伸ばしても、またするりと逃げていく。

「いい子にしてるんだよ」

 言い残し、シュリは踵を返してひたひたと階段を上っていく。微笑みだけが眼裏にチラつく。

 階段へと続いていたあの扉が閉められていくのが、漏れてくる光の減少で分かる。地上との繋がりは、断たれた。

 隙間から注ぐ薄ぼんやりとした光や、階段に取り付けられたフットライトが照らすだけの地下牢。ほとんど真っ暗と言って差し支えないほどの、闇の空間。

 オレは力なく壁に寄りかかった。

 彼女に抱くオレの感情が、たとえば自己防衛から監禁犯を愛するというストックホルム症候群なのか。それとも純粋な恋心なのか。分からないけれど。

 彼女は、可哀相だ。同じように自分のことも憐れだと思う。

 自分の考えしか信じられないシュリ。自分の考えすらも分からないオレ。これ以上に非生産的な関係なんて、いったいどこにあるだろうか。

 オレは一人きりで、真っ暗闇へと取り残されたけれど――本当に閉じ込められたのは、シュリの方だったのではないか。根拠もないのに、そんなことを思った。

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