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消え入らぬ狂気

 四曲目『ジュ・トゥ・ヴ(きみがほしい)』(Je te veux (valse pour Piano))

 by エリック・サティ(Erik Satie)



   ● ● ●



 遠い、遠い昔。母親がまだ壊れていなかった頃、聞いた気がする。

「愛しているわよ」

 そんな優しい台詞を。

 でもそんな日、すでに遥か彼方へと消え失せてしまった。

 なあ母さん、教えてくれよ。


 オレを愛してくれているのならどうして、貴女はオレを見捨てて狂ってしまったのですか。



「あいちゃん……?」

 傍に寄ったオレに気づいたのか、シュリは顔を上げる。どこかぼんやりとしていて、魂が抜けたようだ。

「……何であんなことした?」

 冷静な部分では彼女の異常に気づいているけれど、沸々と煮えたぎる感情は止まらない。駄目だと分かっているけれど、止まれない。地の底から響くような声になってしまう。

「――、ごめんね」

 一瞬怯えたようにしてから、俯きつつ呟くシュリ。

 違う。オレはそんな言葉が欲しいわけじゃない。謝ってほしいんじゃない。

「謝るなら理由を話せよ……! 何であんなことした! 言えよ!」

 肩を掴んで詰問しながら、「じゃあどうしてほしいんだ?」ともう一人の自分が、オレの中で冷たい目をして尋ねる。

 謝ってほしいのでもなくて、でも彼女にも言えない何かがあるのだと分かっていて、それならば何を望むのだ。

 本当は分かっている。

 でも、分からないんだ。

「言えよ! 理不尽に閉じ込めといて、その理由にしたこと全部否定するような真似して、何したいんだよ!! だったらもう解放してくれよッ……」

 まるで泣き声のようになってしまう言葉を、酷く情けないと思う。

 分かっているくせに分からないと喚くのは、分かっているくせに目を背けようとするのは、それこそ逃げであるのに。

「……言えない」

 返す彼女の調子は、淡々としていた。感情が抜け落ちてしまっているみたいに。

 吐き出そうとした言葉は喉の奥に張り付いて消え失せる。

 普段のように狂った笑みを向けられているわけでも、芯から冷え入るような恐ろしい目を向けられているわけでもない。けれど、恐怖がじわりじわりと背筋を這い上がってくる。

「ごめんね。出してほしいの? でも出してあげない」

 種類の違う恐ろしさを感じて、自分の感情が制御不能になっていく。

「出せよ……出してくれよ、頼むから……もう解放してくれよ、オレは要らないんだろ? だからあの人と寝たんだろ?」

 できないんだ。縋り付いて、しがみついて、懇願するような真似しか。

 互いに無言になるが、無音になることはない。寝室には音楽が響いているからだ。恐らく彼女が駆けたのだと思うけれど。

 なぜそう断定できるかなんて、簡単だ。耳を通り抜けていくそれは――皮肉にも、あの曲だったから。


 ラプソディ・イン・ブルー。


 恐怖を覚えながらそれでも、ほんの少しだとしても、オレたちの心が通っていると思えた時に聞いていた曲。肌を重ねて、柔らかなマットの上に寝転がって、一緒に天井を眺めながら。

 それなのに、今はこんなにも二人の距離が遠い。どうしてこうなってしまったのだろう?

 苦しくて辛くて、胸が潰れてしまいそうだった。

 満たされていない、空っぽで何もない、息苦しいだけの沈黙が流れる。

 シュリの顔はその長い髪に隠れてしまっていて見えない。彼女が何を考えているのかも分からない。

 今さら気づいたけれど、床についているその手は小刻みに震えていた。その小さな体に目を向けてみれば、同じように震えているではないか。

 それで初めて無視できないほどの彼女の異変に気づくなんて、オレはやはり愚か者なのだと思う。

「シュ……」

「離さない! 絶対に!」

 呼ぼうとすると突然、火が点いたかのように彼女は叫んだ。

 蜂蜜色の髪の毛が舞い上がって顔がようやく見え、同時に視界に入ったのは、シュリの目にたまっていた涙。

 自分の抱いていた怒りとか失望感がふっと影を潜めて、度肝を抜かれた。

「ここから出さない! どこにも行かせない! ずっとここに居させる!」

 あまりの迫力に後ずさりをしそうになる。反論の言葉も名前を呼ぶことも叶わなかった。腹の底から叫ぶシュリを見ると、怖さなのか驚きなのか、とにもかくにも情けないことに。

「だって……そうじゃなきゃ、おかしい、おかしいおかしいおかしい!! どうして!? 何でわたしだけがこんな目に遭わなきゃならないの!?」

 どうしてオレだけがこんな目に遭わなければいけないんだ。

「どうしてわたしだけがこんなに不幸じゃなきゃいけないの!?」

 どうしてオレだけがこんなに不幸なんだ。


 彼女の叫びは、オレの叫びだった。


 共鳴して心が震える。

「許さないっ……許さない、絶対に!!」

 髪の毛を振り乱しながら、幼子のように泣き喚きながら、シュリは何度も何度も床をその小さな拳で叩く。

 彼女の叫びはオレの叫び。

 オレの叫びは彼女の叫び。

 脳がぐちゃぐちゃに掻き回されてどろどろになって、ぐるぐるして、吐き気がする。気持ち悪い。

「何であいつは幸せなの!? それなのに何でわたしは不幸なの!? 分からない分かんない分かんない分かんないよ!! こんな、世界、なんて……! 壊れろ、壊れろ!! 壊れろ壊れろ壊れろ壊れてしまえ!!」

 こんな世界など受け入れたくない。どうしてどうしてどうして、わたしたちは――オレたちは、こんなにも愛されないの。嫌われているの? 不幸なの? 誰も認めてくれないの?

 オレは――わたしは、ここにいるよ?

 知らない、自分を受け入れてくれないこんな世界なんて、知らない。受け入れてくれるわけでもなく、そもそも自分たち自身が受け入れたくないと拒絶しているのならば、だったらそんなモノ、要らない。

 何の優しさも与えてくれないこんな世界なんて、


          壊 レ テ シ マ エ。


 はっとする。

 シュリが勢いよく部屋を出て行った。

 今、オレはいったい何を考えていた?

 胸を焦がす、どろどろで、真っ黒で、真っ暗で、粘度の高い、決して抱いてはいけない感情。目眩がしてこめかみを押さえた。

「お嬢さま!」

 後藤さんの切羽詰まったような声でもう一度はっとする。

「シュリ……」

 彼女が出て行ったのは視界に入っていたのに、意識の外の出来事だったせいで反応できていなかった。慌てて立ち上がり追いかけ始めると、いきなりだったからか足元が覚束ない。目眩の名残もあったかもしれないけれど。

 後藤さんの後ろ姿から察するに、シュリが向かったのは風呂場のようだ。

 部屋を出ると、ドアの外には何もできず座り込んでいる前上がいた。彼を直視することはどうしてもできなくて、顔を背けるようにしながら二人の後を追う。前上も、オレに言うことなどもうないようだった。

「お嬢さま! 珠里お嬢さま!」

 浴室に閉じこもったらしいシュリ。後藤さんが必死の表情で呼びかけている。

「シュリ! おい!」

 オレも隣に立って、彼と同じように呼びかける。

「相川さま……」

 後藤さんのどこか心配するような声は耳に入っていたけれど、気にならなかった。というより、気にしている余裕がなかった。あの日を、思い出していたから。

 心から父親を憎悪し、体はどうでも精神の意味では、大好きだった『母親』という存在が消えてなくなってしまったあの日を。

 シュリと母親が重なる。母親とシュリが重なる。


 あの時には交わることのなかった心を、今度こそ交わしたい。


 磨りガラスの向こうにはシュリの蜂蜜色がぼんやりと見えていた。

 シュリにはまだ、手が届く。声も届く。母親と同じになどなっていない。だから、諦めるな。まだ彼女を失わないチャンスが、ちゃんと存在するのだから。裏切られたと傷つくのは、信じていたいと思ったのは、間違いなくオレがどんな形であれ彼女を求めた証なのだから。

 自分に言い聞かせながら深呼吸をひとつして、取っ手に指をかけた。

「……シュリ! 開けるぞ!!」

 鍵はかかっていない。開けられる。力を込め、勢いよく扉を開け放った。

 途端、立ちこめる湯気。シュリは両手をついて床に座り込んでいる。俯いた格好のまま、シャワーから注ぐ熱いお湯を被って。

 元々シャツ1枚しか纏っていなかったため、びしょびしょになったそれは透けていて、ほとんど役に立っていない。目のやりどころに困って一瞬怯む。

 しかし、彼女のいつもとはあまりに異なる様子にそんなことは言っていられないと思い直して、浴室に足を踏み入れた。

「シュリ、何してんだよ!」

 自分も濡れることは構わずに近寄って、カランを捻ってお湯を止める。それでも頭から被って水分を吸った髪の毛はどうにもならず、ぼたぼたぼたぼたと大粒の雫が落ちていく。

 それはシュリも同じで、だが鬱陶しい水滴を払うこともせず、何かをぶつぶつと呟いていた。怪訝に思って耳をその口元に寄せる。

「許さない許さない絶対に許さない許さない、許さない、許さない許すもんか絶対に」

 はっきりと聞き取れるようになったそこには、狂気の色しかない。今までで一番の恐怖に彼女を突き放しそうになったけれど、ぐっと耐えた。

「シュリ! こっち見ろ! お願いだから……!」

 彼女が俺を裏切ったとか、何かを隠し続けているとか、そんなもの今はどうでもよかった。

 ただ、短期間とはいえオレが好ましく思った彼女の部分が一瞬で総て消えてしまいそうな気がして――怖かった。エゴだと言われても、怖かったのだ。

 だけど彼女はオレの言葉には応じず、こちらを見ることもせず。

 いつの間に持っていたのか、ゆらりと持ち上げられた手にははさみが握られていた。

 さすがに身の危険を感じて思わず手を離すのと、ほぼ同時。


 じゃきん、と場違いなほど小気味よい音が響いた。


「え、……」

 あまりの衝撃に声が漏れる。

 ばらばらと無残に散っていくのは、蜂蜜色。


 そう、彼女は、手にあったその鋏で自分の髪の毛を切り落としたのだ。


 長く美しかった絹のようなそれは、浴室でただのゴミと化してしまった。

 オレが唖然とするその間も、じゃきんじゃきんと休みなく鋏は動かされていく。次に気づいたときには、シュリの髪の毛は肩に届くかどうかという位置にまで短くされていた。

 彼女自身が感情に任せるままに切ったせいで長さは不揃い。おまけに、切った髪の毛はまるで山のようになっている。

「ふ、ふふ……」

 小さな笑い声がシュリの口の隙間から漏れていた。

「あははははは! ばっかみたい、あはははははっ!!」

 だんだんとそれは大きくなっていき、何かに取りつかれたように彼女は笑い、残骸となった自分の一部を手に取っては投げ、散らした。まるで蜂蜜色の花びらが散っているかのようだ。それに畏怖を覚えるなという方が無理だった。

 オレは言うべきことが何も見つからなくて、ただただ半ば呆けたまま、そんな彼女を黙って見ていた。

 そして、始めた時と同じくらい唐突に、彼女は笑い止んだ。

 だからといって、夜空を見ていたときのような、オレにとっての『いつもの彼女』に戻ったわけではなかった。

「わたしが感じたのと同じくらいの苦しみを――あいつらにも、味わわせてやる」

 据わった目をし、低い声で呟かれた言葉は、一人の少女の決意表明であり、小さな身の丈に見合わないほど大きな怨嗟の声。

「シュリ……?」

 目が合わない。言葉も交わせない。

 これじゃ、あの日と同じだ。何も変わらない。

 オレは幼子の頃のまま、成長できていないのだろうか。

 そこにいるだけで周りの人間を狂わせてしまう、不幸の申し子なのだろうか。

 いや、きっと、そうなのだろう。

 もう一度名を呼ぼうとして、口を結んだ。

 気づいた。「分からなかったけれど、本当はとっくに分かっていたこと」を。

 オレが望んでいたのは、謝罪の言葉でも、隠している真実を明かしてくれることでもない。ただ言ってほしかったんだ、たった一言を。


 「好きだよ」って。


 他人からすればたとえ異常だったとしても、いつも彼女がそうしてくれたように。

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