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幻は淡く、儚く

 すっくと立ち上がる。

「相川さま?」

 後藤さんの声も無視して彼の脇を通り過ぎ、向かう先はただひとつ。シュリの寝室だ。

「相川さま!」

 部屋を出て向かった方に気づいたらしく、後藤さんから鋭い声があがる。だがもう遅い。

 オレも相当に頭に血が昇っているな、とか、他人事みたいに思った。

 だっていつものオレなら、あらかじめ諦めをつけられる。こんな状態の自分じゃ話し合いなんてできそうにもない、と。そういう理性の抑えが利かないほどには怒りに支配されている。

 追いかけてくる後藤さんに止められないうちに。駆け出そうとしたところで、シュリの寝室のドアが大きく開いた。中から勢いよく人が飛び出してくる。

「……!」

 その『人』が前上であると悟った途端、オレは反射的に彼の体を思い切り壁に叩きつけていた。

 オレの母方は元々、代々村田コンツェルンのボディガードとして名を馳せる人間を輩出する黒河家の親戚筋。遠縁とはいえ、その血のおかげか体力と腕力は本気を出せば無駄に強いのだ。

「な、え、な、何を……!」

 前上は突然のことに驚き、混乱していた。しかも痛みに顔をしかめながら怯えて震えている。

 何だか弱い者いじめをしている気分だ。頭の冷静な部分では思う。

 でも、大半は怒りに満ちているわけで、ほとんど無意識に胸倉を掴んでいた。そのまま締め上げるようにすれば、彼は顔を歪ませる。オレには生憎同じ経験はないから分からないけれど、苦しいだろうし当然だ。

 その間も後藤さんはオレに静止の言葉を叫んでいるようだったが、耳を通り抜けていくだけだった。

「――シュリに何してた」

 飛び出したのは、自分でも聞いたことのないほど低い声だった。

 前上はびくりと肩を跳ねさせる。

「な、何、とは……」

「惚けんな!」

 ますます込み上げてくる怒りに手に入る力が増す。自分の中の白い部分ではこれ以上はやめた方がいいと思っているのに、黒い部分は何とも思っていない。むしろ「もっとやってしまえ」と思っている。

 どちらがオレの本質かなんて考えるまでもなくて、吐き気がした。

 ――あいちゃんは、あいちゃんのお父さんとは違うよ。

 お前はああ言ったけれど、オレは間違いなく父親側の人間らしいよ、シュリ。

「誤解されているようですが! 私からあの方に手を出したことなど一度もございません!!」

 言い訳じみたその台詞が鼓膜を震わせた瞬間、一気に腹の中で何かが沸き立つ。

 所詮オレは、暴力的なあの男の息子でしかなかった。

 次に意識がはっきりとした時、前上は廊下に倒れ込んで左の頬を腫らしていた上、唇が切れて血を垂らした状態。オレが殴り倒したのだ。この拳を使って。

「相川さま!」

 後藤さんが羽交い絞めにするようにして彼から無理矢理にオレを引き剥がした。さすがにもう見ていられなかったらしい。

「そんな事実が免罪符になるとでも思ってんのかよ!? あんたたち皆、異常だ! この家に関わる奴ら全員、異常だよ!」

 違う。こんなことが言いたいわけじゃない。たとえおかしくてもいいと思ったのに。オレの存在を否定しないで、不幸の申し子のオレに幸せの欠片みたいなものを与えてくれて、感謝しているのに――。


 こんなふうになってしまうくらいには、きっとシュリが好きなのだ。


 でもそれこそ言い訳で、きっとオレの本音は口から今こぼれているものだという気もする。

 後藤さんがどんな顔をしているのか見るのが怖くて、振り返ることができない。ドアのすぐ向こうにはシュリがいるだろうに、怖くてそれを確かめることもできない。

「私は、ただ……」

 前上の目から透明な雫がばたばたと散り始め、驚きで目を見張る。

「私は、ゆかりお嬢さまが、好きだっただけなのです……! それを、あの方が、脅して!」

 切れ切れで何を言っているのかいまいち理解できないけれど、『ゆかりお嬢さま』という言葉に耳が反応した。

 そうだ、どうして今の今まで失念していたのだろう。シュリには、姉がいる。

 上條ゆかり。上條本家の一人娘――つまり、上條家の唯一の後継者だった人だ。

 そうはいっても、村田コンツェルンにおいては、村田家でも傘下グループでも女性が今まで当主になったことが一度もないから、誰か婿を取ってその人が継ぐはずだったのだろうけど。

 彼女は箱入り娘だったのか、あまり他のグループの跡取りたちほどメディアへの露出はなかった。たまに父親である現上條代表の後ろに佇む控えめな影を見かけるくらい。だから名前自体そんなに濃く印象に残っていたわけではなかったのだが、ある一時期にそれが一変した。

 およそ3年前のことだったと思う。上條令嬢は失踪したのだ。お見合いのために訪れた料亭から忽然と。

 攫うように彼女を連れて行った男がいただとか、お見合い相手が彼女を逃がしただとか、彼女の幼なじみたちがそれに協力していただとか、そんな噂がまことしやかに囁かれた。

 「上條令嬢がお見合いをすっぽかして他の男と失踪した」などというセンセーショナルなニュースは大衆の大好物であり、当時はかなりの話題になったのだ。連日ニュースはその話で持ちきりになり、彼女の顔写真を見かけない日はなかった。

 でも、それきりだった。どこかから圧力がかかったのだろうか、しばらくすると完全に話題に上ることがなくなったのである。最初のあの騒ぎはまるで嘘であったかのように。

 だからオレもすぐには思い出せなかった。

 いや、その言い方には少し語弊がある。結びつかなかったのだ、何となく。

 上條本家には一人娘しかいない。それは間違いなく『ゆかりお嬢さま』のことであり、オレも今までそう思って生活してきた。だが、公式には認められてはいないものの、後藤さんから聞いた限りならシュリもまた上條代表の娘である。

 話をシンプルにして考えれば、『ゆかりお嬢さま』とシュリは異母姉妹なのだ。ゆかりさんは本妻の子であり、シュリが愛人の子であるというだけの単純な事実。ゆかりさんの顔を思い出してみれば、ところどころシュリと符合する部分がある。

 特に考える必要性もなかったから、二人が姉妹であることを今まで全く意識していなかったのである。

 しかし、それならばつまり、前上の言葉の意味するところは。

「あんた、使用人だよな。それも上條代表付きの」

「……左様で、ございます」

 オレには使用人の経験はないから、彼らの従う制度についてはよく分からない。でも、一家の主人付きの使用人になれるというのは、そこそこの名誉であるのではないだろうか。

 しかも見たところ彼は結構若いし、上條代表にとって恐らくトップシークレットであろうシュリの存在を――しかも彼女がこうして監禁されていることも、知っているのだ。

 その意味はオレにだって分かる。上條代表がそれなりに彼を信用して仕事を任せているということだろう。

「それなのにゆかりさんに恋愛感情持ってたのか? ……十中八九、失踪事件の時も手を貸してたんだろ」

 図星なのだろう、前上は何も言い返さない。

 だとしたら、それは、どれほどの背徳?

 自分の娘の失踪など、確実に代表は望んでいなかっただろう。だって娘が伴侶を選んで、己が辞めた後の代表の座をその伴侶が継いでくれなければ、上條は滅んでしまう。組織の破滅を望むトップなんていないはず。

 主人の娘に恋をするなどそれでなくてもタブーだろうに、逆鱗に触れるような『失踪の手引き』までしている。

 こうして重要な職に未だ就くことができている以上、代表に知られてはいないのだろう。しかし、シュリには何らかの方法で知られてしまった。それ故に彼はこんなに怯えているのだ。

「私、には……病気の母がいるのです……手術をしなければ死んでしまいます。父はもう死んでいます。今、私が職を失うわけにはいかない」

 もう解放されたい、と、垣間見える本音。伝わってくる、どうにもできない苦しさ。

 その境遇に同情はする。味方になってやりたいとも思う。

 だけど。

「でも交換条件として、シュリの体を受け取ったんだろ?」

 俯いてしまう前上に掴みかかろうとする意識の外で、自分を蔑む。ああオレ、何してるんだろう。

「シュリの体を貪って、それを報酬としてたんだろ!?」

 この台詞はきっと、

「いい大人が、たった13、4の女の体を受け取るなんて、あんたやっぱり異常者だろうが……!」

自分にそっくりそのまま返ってくるというのに。

 だってそうだろ? 分かっているはずだろう。

 脅されて誘拐され、恐怖によって縛られながら監禁されている、これは事実だ。


 だけどその交換条件として、オレ自身彼女を抱いただろう。


 拒否しないからって、半ば誘われたからって言い訳をして、まだ13、4くらいの女の子を、自分勝手に、己のやりたいように。

 前上も、オレも、何も変わりはしない。同じ穴のムジナだ。

 彼を異常者となじるのならばオレだって異常者。オレが彼を罵る権利があるとするならば、彼にだってオレを罵る権利がある。

「――それならばどうすればよかったのですか!!」

 相変わらず涙を流したまま、彼は途方に暮れたような表情でそう叫ぶ。まるで慟哭のように。

 ごめんなさい。

「私はゆかりお嬢さまが欲しかった! 好きだった! 愛していた!」

 まっすぐ届くその叫びを耳に入れるのが痛い。

「寂しい目しかしていなかったあの方が笑うようになってくださった……ようやく愛する人を見つけてくださった。たとえその相手が自分でなくとも、嬉しいと思った!」

 苦しいよ。オレには分からない。そんなに叫ばれても、分からないんだよ。

「詭弁だと言われても、そう思った!」

 どうしてそこまで必死になれる? どうしてそこまで苦しそうにできる?

 『愛』って、『好き』って、いったい何なんだよ。

「その手助けをしたいと考えて何がいけないというのですか!?」

 理屈も何もない。だけどそれだけ言葉の重みは大きくて、胸に突き刺さる。どれだけ彼が本気でゆかりさんを愛していたのか苦しいぐらいに伝わってくる。

 でもじゃあオレは、何なのだろう。こんなにもみっともなく叫べるほど、泣けるほど、総てを捨ててもいいと思えるほど、彼女を想っているのか?

 絆されてはいる。執着してもいる。

 だが、それはきっと愛じゃない。

 どうしてあんたにはそこまでできる? なあ、教えてくれよ。

「ゆかりお嬢さまも、母も守りたい。大切にしたい。貴方はそれを傲慢だと笑うのですか、責めるのですか! だったら珠里お嬢さまを止めてみせてください、お願いします……!」

 愛とはきっと尊いものなのだろう。ここまで人を愚かにできるし、羨ましく感じさせることもできる。

 ああ、だからオレは駄目なのか。実の父を憎み、会いに行こうと思えば会えるのに会わず、実の母を本心では疎んでいる事実。それからずっと、目を逸らし続けているから。

「私は最初から、体を引き替えにされることなど望んでいないっ! もう解放してくれ、お願いだから……お願いだから……」

 前上によって肯定されることで、嘘であってくれと願っていた想像が現実になった。

 この人は自分から望んでシュリの体を受け取っていたわけではない。


 シュリが、ゆかりさんに似た己の風貌を利用したのだ。そして彼女の方から、前上に体を預けたのだ。


「……あ、」

 それを理解したらもう、駄目だった。無理だった。

「ああああああぁぁああぁぁァッ!!」

 あの日の母のように叫ぶ。頭を抱えていた手を離し、呆けている後藤さんを何度目か振り払って、度肝を抜かれている前上の脇を通り過ぎて、オレはシュリの寝室に足を踏み入れた。

 そこにはシュリがいる。シャツ1枚しか纏っていない、ほとんど生まれたままに近い姿で。



 なあ、シュリ。

 好きって、愛って、いったい何なんだ?

 お前が言ったんだよな? 何があっても好きだって。確かにさっき、この耳でしっかりと聞いた。

 だったらどうしてオレを裏切ったのか、オレにも分かりやすく教えてくれよ。

 お前の言う好きっていったい何なのか、オレに分かるように、教えてくれよ。

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