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知りたくなかった嘘

 シュリの髪の毛からぽたりぽたりと雫が滴る。肌も湿り気を帯びていて、どうやら雨に降られたらしいと分かった。

「傘、差さなかったのかよ」

 ぽつりと尋ねると、「雨に濡れたい気分の時ってあるじゃん?」と彼女は特に気にした様子もなく笑う。

「風邪引くだろうが」

「あいちゃん、心配してくれるの? 嬉しいなぁ。でも、後藤がお風呂の用意してくれてるから」

 後ろから抱きつかれているから、彼女の表情が見えない。だけど、声の調子に違和感を覚える。元々明るく話すタイプだとは思うけど、今は何か、空元気のような気がして仕方がなかった。

「シュリ、」

「ああそうだあいちゃん、お土産があるんだよ」

 話しかけようとしたオレを遮り、シュリは唐突に離れていく。敢えてなのかそれとも偶然なのかは分からないが、釈然としない思いが残った。

 振り返ると、彼女は小さな袋を持ってこちらへと戻ってくる。そしてオレの前に座ると、にこにことしながらそれを開封した。

「これ。街で一目惚れしちゃって」

 言いつつ左手が取られ、戸惑う間もなく冷たさが触れる。よくよく見てみると、それはブレスレットだった。

「……龍?」

 細い銀の鎖に、同じ色をした小さな龍のモチーフがぶら下がっている。しげしげと眺めると、なかなかに精巧な造りだった。

「そう、龍。あいちゃんって『龍之介』でしょ? だから、これはあいちゃんのだなって思って」

 にこにこと笑いながら今度は自分の右手を示すので、そちらに視線を移す。すると、同じような鎖に、こちらは虎がぶら下がっている。

「ぼくにはちょっとかっこよすぎるかなーとも思ったんだけど。セットだったから、買っちゃったんだ。えへへ」

 龍と虎。ふたつで一揃えのブレスレット。何となく、これで逃げ場をどんどんと塞がれていっている気がする。それに安心する自分がいるけれど、言い様のない反発心が湧いてくるのも事実で。


 気づいたら、優しく握られていた左手を振り払っていた。


「…………あ……」

 目を見開くシュリが視界に入るけれど、自分でも驚いて言葉が出てこない。ただ間抜けな音だけが唇の端から漏れる。

 その瞳と、誰かが重なった。

 ――あ、ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさいあなた……!

 正気を失う前の母の声が蘇る。耳を木霊する。振り上げられた拳に怯えたようにゆらゆらと揺らめく目。

 ああ、そうだ、あの時の、瞳だ。

「あ、ああああぁ、あ!!」

 それを悟ると同時、オレは頭を抱えて体を丸めた。

「あいちゃん……?」

 シュリの声を聞きたくなくて耳を塞ぎ、きつく瞼を閉じる。

 オレは父親とは違う。そう思いたいのに、オレの中に流れる血がそれを否定する。お前は所詮あいつの息子コピーなのだと。どうせ同じ道を辿るのだと。

 いつか、オレも、壊してしまうのだろうか? 一瞬でも、笑顔を見ていたいと願った相手を――父親と同じように。

 苦しくて苦しくてたまらなくて、呼吸が上手くできない。ああいっそこのまま息を止めてしまいたい。そうすれば父親と同じになる前に、世界から消えてなくなることができるだろうか?

 だがそんな思考の淵から、あたたかい手が引き戻す。

「あいちゃん。あいちゃん、落ち着いて」

 抱きしめられた感触。背中をさすられながら耳元で繰り返し、落ち着いて、大丈夫、と言われる。

「な、にが、だいじょうぶ、なんだよっ、だって、オレは……!」

 まともに呼吸できないせいで言葉が途切れ途切れになる。思いを形にしようとすればするほど空回りして、上手くしゃべることができない。

「オレも、いつか、いつかは絶対に、ああなる……! そうに決まってる、だって、この体には、」

「親と子供は同一人物なんかじゃない。違う!」

 強い口調が弱々しい声を掻き消す。

 恐る恐るシュリを見ると、とても悲しそうな表情でオレを見ていた。

「たとえ、血を継いでたって……同じ人にはなれない。ならない。あいちゃんは、あいちゃんのお父さんとは違うよ。親子が、丸っきり同じになるはずなんて、ないんだよ」

 オレに言い聞かせているようで、その実彼女は自分自身にも言い聞かせているみたいだった。

 ――珠里お嬢さまは、決して日の当たる場所に現れることのない御方でございます。

 監獄のような家に閉じ込められた、名実ともに日陰者のお嬢さま。明るい表には一生出られない、裏の世界に生きる人。

 そうさせた元凶は、彼女の父親たる上條代表だ。彼女もまた、父親だとは認めたくない相手がいる。

「大丈夫。大丈夫だからね」

 オレが何を考えているのか分かったのか、シュリは淡く微笑んでまた繰り返し背中をさする。不思議と徐々に呼吸が落ち着いて、怯えたような気持ちもなくなっていく。彼女の手のひらが上下するたび、少しずつ少しずつ。

「……珠里お嬢さま。お風呂のご用意が整いました。どうぞお入りくださいませ」

 完全に落ち着いたのとほぼ時を同じくして、後藤さんの控えめな声が聞こえてきた。シュリはそれを聞いて顔を上げてから、迷うようにオレをちらりと見る。どうやら心配しているらしい。

「行けよ。風邪引く」

 強張っていた体をゆっくりと緩めながら呟いた。

「あいちゃん?」

 少し迷った様子を見せつつも部屋を出かかっていたシュリが、ふと振り返る。顔を上げて彼女を見ると、じっと見つめられて目が逸らせなくなった。

「わたしは、何があっても、あいちゃんが大好きだからね」

 それだけを言い残し、彼女はドアを閉めて出て行く。

 唐突とも思える言葉、瞼に焼き付いた真剣な様相。彼女はいったい何を考えているのだろうか。

「意味、分かんねえ……」

 小さくこぼすオレの耳へと不意に飛び込んできたのは、耳に馴染まない鎖の音。いつもオレを拘束しているものではない、ついさっき与えられた新たな鎖だった。

 無意識に龍に触れる。そんなはずもないのに、あたたかい気がした。オレの体温でなく、シュリのものに近い温度。自分のもの以上に馴染み始めてしまったあたたかさ。

 ブレスレットを握るようにしながら膝を抱え、じっと座る。彼女の帰りを待つように、ただただ静かに。

 どれくらいそうしていたのだろうか。物音で我に返って顔を上げると、室内が明るい。この部屋は室内で操作さえなければタイマーで電気がつけられ、カーテンも閉まる。つまりもう日が暮れたということで、オレはどうやらカーテンが閉まる音で現実に引き戻されたらしかった。

 頭の芯が少しぼんやりしている上に肩や腰が張っている気がすることからして、眠っていたのだろう。しかもシュリが帰ってきた時はまだ明るかったのだから、それも相当な時間を。

 辺りを見渡すが、オレの他には誰もこの部屋にはいない。

「シュリ……?」

 さすがにもう風呂からは上がったはず。それなのにオレを起こしもしなかったどころか、この分だと一度もこの図書室には戻ってきていないようだ。どういうことだろうか。

 首から伸びた鎖を片手で支えつつ、ゆっくりと立ち上がる。裸足に床暖房が心地いいけれど、どこかその感覚は遠い。

 何か嫌な予感が背筋を這い上がっては、ドアを開けてはいけないとしきりに警告する。だがオレはそんな第六感のようなものを無視し、唾液を嚥下してから物音を立てないようにゆっくりと開け放った。

「う、わ!」

 そしてその途端に驚きの声を上げた。

「相川さま……」

 すぐ目の前に後藤さんがいたからだ。

「ご、後藤さん、何で……び、びっくりした」

 跳ねた心臓を押さえながら首を傾げる。どうして行き先を塞ぐようにして立っているのだ。

「ここから先に貴方が行かれてはなりません」

 と、唐突に彼が口を開いた。この人には珍しすぎるほどの切羽詰まった声で。

 当然ながらオレは戸惑う。

「後藤さん?」

「お願いです、相川さま。私を憐れに思うのならば、」

 しかし――オレがその先を聞くことはなかった。いや、正確には、耳を通り抜けて行った。それよりも衝撃的なものに思い切り気を取られてしまったから。

「……ンっ! や、あ……んっ、だめ、あぁっ」


 鼻から抜けるような甘く高い声が、辺りに響いている。


 頭が真っ白になった。処理できる情報量のキャパシティを超えていた。だってその声は、シュリのもので――吐息の混じったそれが何だか分からないほど、オレは幼くも鈍くもない。

 どうして、とか、何でだよ、とか。どうせ答えの出ない問いが頭の中でぐるぐる回る。吐き気を催すほどの速度で。

 だが、その状態は割とすぐに治まった。衝撃から醒めると、驚くくらいに冷静になれた。

「ははっ……」

 何だ、と思う。そう思って、嘲笑う。誰を? 自分を? シュリを?

 どうでもいい。もうそんなこと、どうでもいい。どいつもこいつも、やっぱり嘘つきなんじゃないか。

 いくら足掻いても、オレは不幸の申し子。

 馬鹿みたいだ。あいつは犯罪者で、オレは被害者のはずなのに。どうしてこんなに傷ついている? 最初から分かっていたことだろう。信用なんてしていたのか。犯罪者の言うことを、百パーセント、信じ込んでいたのか? 馬鹿じゃないのか。

 動揺から目を泳がせている後藤さんから目を逸らし、踵を返して元の場所へと戻ろうとする。

「相川さま!」

 追いかけてくる呼び声も無視して。

 言い訳なんて聞きたくもない。それに、彼から聞いたところで意味がない。


 オレを裏切ったのは、シュリだ。


「相川さま、お待ちください!」

「ほっといてください! 別にもう全部分かりました。何の説明も要りません。放っておいてください!」

 振り払うように叫ぶ。

 そうだ、何の関係もない。オレにとってシュリなんてどうでもいいはずだ。恐ろしい存在のはずだ。犯罪者でしかないはずなんだ。

 不幸の列伝にまたひとつ笑い話が加わっただけのこと。一目惚れしたと誘拐されたのに、その少女には最初から担がれていたなんて。

 だから認めたくなんかない。自分の胸がこんなにも痛んでいることは、絶対に。

「相川さま!」

 腕を掴まれた感覚がして、反射的に振り払う。

「ほっといてくれって言ってんだろ!!」

「話をお聞きくださいと申し上げているのです!!」

 後藤さんの一喝に思わず言葉を引っ込める。さほど大きくはない声だったけど、その鋭さはオレを黙らせるのには充分すぎるほどだった。

「――、大きな声を出して、申し訳ございません」

 彼も冷静に返ったのか、いつもの無表情にほんの少し後悔の色を浮かべながら頭を下げる。

「いえ……」

 冷えていたようで冷えていなかった頭が今度こそどんどんと冷めていくにつれ、オレ自身も自分の子供みたいな行動に恥ずかしさが襲いかかってくる。それを考えたくなくて、小さく首を振った。

 何をやっているのだろう、オレは。一人で熱くなって、後藤さんに迷惑をかけて。

「とりあえず……お座りください」

 促されて崩れ落ちるようにソファへ腰を下ろす。衝撃と激情が消えてなくなると今度は、誤魔化しようのない脱力感が襲ってきた。

 シュリ。呼んでも、どうせ届かない。分かっているのに頭は勝手に彼女の顔を思い浮かべる。

 彼女はオレを好きだと言った。それを理由にしてここへ閉じ込めたくせに、どうして別な男と睦み合っているのだろうか。

「……あいつの今の相手って、前上って人ですか?」

 この家にいる男は、オレ、後藤さん。だがこうして目前にいる時点で後藤さんは彼女の相手にはなりえない。

 ――閉じ込めるのはあいちゃんが最初で最後っ。

 もう総てが疑わしい中で、それでもあの言葉を真実とするのなら――残された可能性は、あの底なし沼を覗き込んだ気分にさせる男。

「……左様でございます」

 後藤さんが小さく応じた。迷った末、結局答えてくれたようだった。

 ほとんど確信して尋ねていたくせに、改めて口に出されると胸が重たくなる。

「どうして……オレを好きになったから閉じ込めた、とかいう妄言吐いておいて、何であんなことしてるんですか?」

 オレには裏切りのようにしか思えない。最初から総てが嘘だったのだと片付けるのは簡単だけれど、そうは思いたくない。

 そういうことを考えているその時点で、オレはもうシュリにほだされている。認めたくなかろうとも、それが悲しいぐらいの事実だ。

「お怒りは、ご尤もです。ですがお嬢さまにも、少し事情が」

「事情?」

「はい」

 後藤さんに噛みついても仕方がないのに、こうして誰かに食って掛からなければ自分の精神状態が保てない。本人がいない以上、目の前にいる彼が標的になってしまう。ガキだと自分を嘲るけれど、止まらない。

「それは、今まであいつがオレに言ってきたこと全部を嘘にしてでも、『今』どうにかしなきゃならない事情なんですか!?」

 また感情的になって上擦りそうな声をどうにか宥め、後藤さんを睨みつける。すると彼は複雑そうにほんの少し目を細め、ため息をついた。何かを諦めたように。

「……あの方が何をしようとなさっているのか、それは申し上げられません。あの方からきつく言い含められておりますから」

 シュリの命令は恐らく、この人にとって唯一で絶対。

「貴方のご命令とお嬢様のご命令ならば、私の比重はお嬢さまの方に置かれます。申し訳ありませんが」

「……分かってます」

 いくら彼女に引きずり込まれたとはいえど、彼が仕えているのはシュリであり上條家だ。彼女の言葉に逆らえないことくらい、最初出会ったときから分かっている。本来ならば、どこの馬の骨とも知れないオレの面倒までも見てくれていること自体、すでにおかしい。

「珠里お嬢さまが果たそうとなさっている目的は、あの方が今よりも更に幼い頃にご決心されたことに基づいています。4年越しのご意志です。私がお邪魔するわけには参りません」

 まっすぐにオレを見つめてくる彼の瞳を見返しながら、重ねて尋ねる。

「オレを裏切ってでも、殺してでも、何をしてでもあいつは果たすんですか」

「左様でございます」

「自分の体を売り渡すような真似をしてでも?」

「……左様でございます」

 シュリはオレから隠れるようにして前上と肉体関係を持っていた。きっと今日だけじゃない。

 前回、オレが初めて前上を見た日。布団にもぐりこんできたシュリからは男物のシプレの匂いがした。認めたくなくて頭の中から追い払った考えだったけれど、あの時から疑っていた。

 あれは、前上からの移り香だったんじゃないか、って。

「何、で……」

 そこまでしてでも成し遂げたいことって何なんだよ。好きだとか愛しているだとか、そんな甘い台詞を吐いておいて、なぜ肝心なことは何ひとつ言わないのだ。胸を張って言えることなら、わざわざ隠れるような真似は必要ない。じゃあつまり、そういうことなのか?

 『部外者』であるオレからは何としてでも隠さなければならないことを、シュリはその胸に秘めている。

 そして核心を何ひとつ話されなくとも、分かってしまったことがある。

「その、『シュリの目的』は……『後藤さんの目的』でも、あるんですね」

 話してくれている間中、いつもの静かな瞳の向こうに、『邪魔をするな』という昏い光が見えたから。さっきのどろりとした目だ。

 悲しくて、たまらなかった。

「……左様でございます」

嘘を言わない後藤さんは優しいけれど、同時にとても残酷な人だ。拳を握りしめながら思った。

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