壊れているのは、誰?
あの日は朝食を摂ってしばらくしてから、初めてシュリの姿を見た。もう太陽は中天に近かったと思う。
それまでの日と同じようにオレの髪を梳いて、抱きしめて、「大好きだよあいちゃん」と言って、何事もなかったみたいに笑った。無邪気に。
当たり前だけど、一晩も経っていたら既にあの香りは消えていた。最初から存在しなかったのかもしれないと思うほど、呆気なく。
だけど違和感があった。拭い去ることのできないほど大きな、違和感。
あの『無邪気』な笑みが、同時に悲しそうで――悔しそうで。そう見えて仕方がなかった。
そしてあの日以来、起きてもシュリが隣にいないということはなくなった。彼女に起こされたり、オレが彼女を起こしたり、どちらも起きられなくて後藤さんが起こしに来てくれたり。その違いがあっても、彼女は必ず隣にいた。
しかし今日、必ず一緒に起きるという習慣が再び破られた。それは『人生最悪の日』から、ちょうど1ヵ月の日だ。シュリとの狂った日々の始まりからもまたひと月が経過したことを意味していたが、それに対する衝撃なんて吹き飛ぶほどに驚かされることになる。
「外出?」
「はい。本日はお嬢さまに許された月に一度の外出日でございます」
昼近くまで寝こけていたところを後藤さんに起こされ、ブランチのようなものを食べている時だった。彼がそんなことを言ったのは。
今日、起きたらシュリが隣にいなかった。あの日から初めてのことで怪訝に思ったけれど、そもそも家にすら彼女はいないというのだ。
「じゃあもしかして、あの日って……」
「はい。お嬢さまが相川さまを連れていらっしゃった日も、その外出日でございました」
『ここに監禁されている』とまで言った彼女があの日はどうして外にいたのか。不思議だったけれど、納得がいった。
「一人で……ですか」
先ほど皆本さんも大島さんも姿を見かけた。しかもこうして目の前には後藤さんがいる。オレは「あいちゃんは絶対に外に出さない」と宣言されているから論外だ。
「いえ。……先日の、前上が共におります。前回まではお一人で許されていたのですが……」
言い淀むようにする調子で、彼が何を言わんとしているのか察しはついた。
「オレを拾うようなことがあったからですね」
「これ以上余計なことをしてくれるな」。代表からのメッセージがオレにも読み取れるかのようだ。
後藤さんは頷かないながら、何とも言えない表情をしている。どうやら当たりだったらしい。彼を困らせるのは本意ではないし、話題を切り替えることにする。
「でも……今まで一人で外出してて、あいつは一度も逃げようとはしなかったんですか。いくらだってどこにでも行けるでしょう」
「逃げたところでお嬢さまの居場所などどこにもございません。ご本人もそれを重々ご承知でございます。あの方は必ずここに帰っていらっしゃいます」
言い切る後藤さんは、揺らぐことのない強い目をしていた。
どうして言い切ることができるのだ。不思議で仕方がなかったけれど、訊くのが怖かった。ふと蘇った記憶があったから。
――お嬢さま……ではこのまま続行なさると?
シュリが何を考えているのかは分からない。だが、後藤さんもまた関わっていることは確かではないだろうか。
「そう……ですか……」
意気地なしのオレは、そう吐き出すだけで精一杯だった。
「後藤さん」
オレをダイニングから図書室へと移し、一礼を残して出ていこうとする彼に、声をかける。
「はい?」
振り返ったその表情は常の鉄仮面で、何を考えているのか分からない。でもこちらを見てくる目は穏やかで、それは人柄を映しているみたいで。だからこそ訊きたかったし、訊くのを迷った。けれども床へと目を落としてしまったオレが言葉を続けるのを辛抱強く待ってくれているのもあり、顔を上げた。
「どうして、シュリへそれほど忠実に従うんですか?」
忠義だとか、義理立てとか、そういう家に生まれなかったオレにはよく分からない。でもそれにしたっておかしいような気がするのだ。
後藤さんはまとも、だと思う。だが、シュリのやることなすこと総てを結局は「承知しました」と言って受け止める。協力する。彼のようなタイプなら、いかに主人の命令とはいえ納得がいかなければ諫めそうなものなのに。
それは彼だけのことではないけれども。皆本さんも、大島さんも、多分あの前上という男だってきっとそうなのだろう。
こう思うのは、オレがまだおかしくなりきってはいないということだろうか。それともオレがおかしいのだろうか?
狂っているのは、壊れているのは、誰なのだろう。この家にいると分からなくなってしまう。
彼の瞳を見上げる。そして、ぞっとした。
「それこそが私の生きる意味だからでございます」
はっきりと言い放った彼の、穏やかだったはずの瞳が――一瞬にして、どろりとしたものを湛えていたから。
この白い家に連れ込まれた日に見た、シュリの瞳とよく似ていた。だけど少し違うと言い切れるのは、気づいたから。僅かにその表情が歪んでいたことに。
彼女の瞳は狂気が支配していたけれど、後藤さんは違う。
深い悲しみと、憎悪。すぐに消されてしまったけれど、そうとしか見えなかった。
何も言葉が出てこないオレを見てもう話は済んだと解釈したのか、一礼して彼は出て行った。ドアが小さな音を立てて閉まる。
「この家、何……」
オレは狂っていない。まだ狂い切ってなんていない。そう繰り返してどうにか平静を保った。
誰がまともなのか。誰が狂っているのか。誰が正常で、誰が異常なのか。自分の中の常識のようなものが揺らいでいるのが分かる。
そもそも、シュリが外にいて自分は出してはもらえないという状況をさして意外と思えず、抵抗感すら覚えなかったことに自分が一番驚いた。
鎖を引きずりながら窓辺に寄っていく。閉じ込めるための家の、決して開くことのない嵌め殺しの窓。毎日皆本さんや大島さんが磨いているせいか曇りひとつない。
窓の縁に触れ、外を覗く。今にも雫を降らせてきそうな重い色は、オレがシュリと出会った日と同じだ。
何をする気にもなれずそのまま座っていると、少しして予想通りに視界を煙らせる雨が降り出した。小さな水滴が弾けては散っていく。次々に、次々に。
窓を流れる水の筋を眺めるうち、ひとつの出来事を思い出した。
「ねえ、あいちゃん? ここでの生活はどう?」
いつだったか、彼女がそう尋ねてきたことがあったことを。
ベッドサイドのライトだけが彼女を照らしている。逆光になってしまっており、シュリの顔がよく見えなかった。
「どうって……」
逆上されて何か妙なことをされては敵わないし、正直困った。だって、はっきりと嫌だと言うことのできた監禁直後とは、オレの心情自体がだいぶ異なってしまっていたのだ。
あんな家に帰るぐらいなら彼女の微笑みを見ている方がいいと感じてしまったことは誤魔化しようのない事実。彼女の涙によって救われたことも。自分の中でよく整理がつかないでいた。
オレはいったい彼女をどう思っているのだろう。
「否定しないでくれた」
何も言えないでいると、シュリは幼く笑った。常に見せているような大人びた表情とは全く違って、とても嬉しそうに。
「何でそんな、」
嬉しそうなんだよ、という言葉を紡ぎ出すことは叶わなかった。唇を塞がれてしまったからだ。抵抗することなく彼女が絡めてくる舌を受け入れ、会話が途切れる。
やがて唇が離された。
「わたしを否定しないでくれる、それだけで充分」
目の前でチラつく、天使の笑顔。
怯える気持ちがないわけではないのに、そういう表情を見せられれば見せられただけ、どんどんと自分の中で何かが揺らいでいく。
オレはおかしくなっていく。狂わされていく。
『青の狂詩曲』がいつも部屋の中に鳴り響いているのは、それをオレに理解させたいのかもしれない。だとしたら、彼女の狙いは完全に成功していた。
「ねえ、あいちゃん?」
オレの頭を撫でていた手が、そっと頬に移動させられる。覆いかぶさってくる彼女の長い蜂蜜色の髪を掻き分けると、シュリは何とも言い難いような微笑みを浮かべていた。
「……さびしいね」
何が寂しいのか、何がそれほどまでに彼女の表情を歪ませるのか。
「さびしいよ――」
どうして、泣くのか。
しかしひとつだけは分かってしまう。その上手く言い表せない寂しさについては、オレも。
寂しい。寂しい。寂しい。
こんなにも近くにいて肌を寄せ合っていても、寂しくてたまらないなんて、オレたちはどうしたらいいのだろう。
意気地なしのせいで何も返せず、ただその柔らかな髪を撫でることしかできなかった。
窓の向こうの雨粒が、彼女の流す涙に思えて仕方がなかった。
ひと月が経過したということは、もう4月も後半に差しかかろうとしているのだ。つまりさすがに雪は降らないだろうけれど、この雨はあの日の雪と同じぐらい冷たそうに見える。触ることもできないのに、そう見えてしまう。
初めて、自分の中をざわざわと何か凶暴な気持ちが自分の中を駆け巡っていくのが分かった。
「……っ!」
自由だった頃は、感じられたのに。この雨の冷たさも、嫌なものを押し流してくれるかのように爽やかな風も、太陽の暴力的なまでの眩しさも、月明かりの柔らかさも。
今はそれが、総て遠い。
力いっぱい窓を殴りつけても、僅かな振動が痛みと共に伝わってくるだけ。オレがここから出るための手助けになんてなりはしない。
彼女の涙や言葉に救われている自分。閉じ込められていることを恨む自分。相反したどちらの自分も本当で、どちらも嘘なのかもしれなくて。
狂っているのは、壊れているのは、誰だ。
シュリ? 後藤さん? 大島さんや皆本さん? 前上という男? いや、きっと違う。
もしかするとオレが、オレだけがおかしいのかもしれない。
何もかも嫌になって叫び声を上げようとしたその時――視界の端で蜂蜜色が揺れた。
「ただいま、あいちゃん」
凭れかかってくる、もはや身に馴染んでしまった重みとあたたかさ。耳朶に触れる声。
振り返らなくても分かる。
「シュリ……」




