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君ヲ掴ムコト能ハズ

 起きたら、隣には誰もいなかった。

 目を瞬かせて隣にできた不自然なスペースを見つめる。確かに人が一人いたような空間なのに、触れたシーツは冷たい。

「シュリ……?」

 ここに来てから、起きたときにはいつもシュリが傍にいた。非日常の中で普通になりかけていたものが少しでも壊れると、恐ろしくなる。戻りたくない日常に強制的に戻されてしまうのではないかと。

 ひんやりとした温度を湛える床に足を降ろすと、首から伸びた鎖が寂しげな音を立てる。

 その時ふと、夢半分で嗅いだシプレの香りを思い出した。

 今までシュリが香水の類いをつけていた記憶はない。しかも香りから受ける感じは男物であるようだった。

 誰かから移ったのだろうか。そうすると、オレは当然つけていないし、後藤さんか昨日いた前上という男のものだ。だが、香水が移るような状況といったら――。

 嫌な考えがよぎり、慌てて頭を振って追い払う。

 一人で悶々と考え込んでいても仕方がない。シュリを探さなければ。

 喧しく鳴る鎖の音に耳を塞ぎたい気分になりながら廊下に出る。そこにも誰もいない。風呂場や衣装部屋かとも思ったが、覗いても誰もいなかったし、トイレも誰も使用している気配がない。鎖が届くかどうか不安だったが、図書室も覗くことができた。しかしやはり姿は見当たらない。

 残すは1階のみだが、階段を下りるためにはこの鎖が邪魔になる。どうしたものだろうか。

 しばしの間立ち尽くしたものの、結局そちらの方へと歩みを進める。鎖が届く限界にまで行ってみようと思ったのだ。

 しかし大方の予想通り、何とか数段は下りることができたがそれ以上は無理だった。

「何で誰もいねぇんだよ……」

 愚痴をこぼすようにひとりごちて、踏板に腰を下ろす。ため息をついても拾ってくれる人はいない。心細さに近いものを感じて自分を抱きしめて俯く。

 なぜこれほど心に冷たい風が吹き込んでくるような感覚がしているのか。

 座り込んでいると、自分の呼吸の音しか聞こえてこない。ああ、この状況には覚えがある。

 眼裏に浮かぶのは、過去の記憶。父親の酒に酔ってふらついている足が隙間から見える。恐ろしくて隠れた押し入れの中。父が帰ってくる気配を読み取れたときは、いつもこうやって自分を抱きしめて、じっと自分の息の音を聞いていた。

 あの時と同じような気分になっている。

 怖くて、怯えていて、心細くて。あの頃は父のことが恐ろしかったのだと思うけれど、なぜ今はこんな気分になっているのか。

 シュリ、と呼ぼうとした声は、形にならなかった。

 きつく瞼を閉じたその時、声のようなものを聞き取って思わず目を瞬かせていた。

「――シュリの声……?」

 ぽつりと呟いて顔を上げる。その拍子に鎖が僅かに泣いた。耳を澄ませば、ぼそぼそと話し声が聞こえてくる。片方の高い声はシュリだとすぐに分かった。

「お嬢さま……ではこのまま続行なさると?」

 相手は誰だ、と眉を顰めそうになったところで、後藤さんだとすぐに分かった。男性で聞き覚えのある声といったら彼しかいない。

 それにしても、続行とは何のことだろうか。オレの監禁のことだろうか? シュリを諫めようとしているとでもいうのか。

 注意深く耳を傾けると、「当たり前でしょ。じゃなきゃ総てに意味がなくなる」と返すシュリの声が耳に届いた。息を潜めて続きを待つ。

「では相川さまをどうして招き入れられたのですか」

「そんなのどうだっていいじゃん。ていうか後藤、さっきからうるさい。わたしに意見する気?」

 だが自分の名前が呼ばれたのに気づき、反射的に立ち上がってしまった。当然のように先ほどまでとは比べ物にならない音を立ててしまうことにもなった。

「そうは申しておりません、ただ――」

 予想通りに音を聞き取られたらしく、話し声が途切れた。オレは慌てて階段から離れて廊下へと戻る。

 階下からドアが開く音がした。鎖を押さえて忍び足でどうにか寝室まで戻り、細い隙間を残してドアを閉める。

「いた?」

「いえ……いらっしゃらないようですが……」

 声と共に、今度は階段を上ってくるふたつの足音。オレはまた慌てて静かにドアを閉め、ベッドに戻った。

 痛いぐらいに心臓が跳ねている。口から飛び出してしまいそうだ。

 どうして逃げるような真似をしたのだろう。確かに立ち聞きは悪いことだけれど、それだけが原因ではない気がした。何か、知ってはいけないことを知ってしまった気分だった。

「……寝ていらっしゃるようですよ。鎖がベッドから落ちた音だったのでは」

 静かにドアが開く音がするのと同時、オレはまた目を閉じた。寝たふりだとバレやしないかひやひやする。

「そう。それにしては音が近かった気もするけど……まあ、別にいいよ聞かれてても。たいして問題じゃないし。後で探っておく」

 シュリの声が今まで聞いたことがないほどに冷静な――いや、冷徹な調子だった。感情が込められていないと言うべきかもしれない。

 ぱたんという小さな音の後、二人の足音は遠のいていった。1階に戻っていったのだろう。

 ゆっくりと体を起こす。跳ねていた心臓は徐々に落ち着いていくが、拭い去れない違和感や疑念が頭の中をぐるぐると渦巻く。

 まだ知り合ってから1週間にも満たないシュリに知らない一面があることを見つけて、いちいち驚くなんて馬鹿らしい。そうと思っているはずなのに、動揺はこの心臓の激しい鼓動が証明している。

 先ほどの短い会話から分かったことなんてほとんどないが、ただひとつ言えることは、オレの監禁のことについて話していたわけではないということ。


 オレとは全く無関係なところに、彼女の目的は存在する?


 脳裏に浮かんだ疑問は、まるでそれが事実であるかのようにむくむくとオレの中で存在感を大きくしていく。拳を握り、二人が歩いていっただろう廊下の方向を眺めた。

 ――あいちゃんだけは、助けるから。絶対に助けるから。何を引き替えにしてでも。

 ふと蘇る言葉。

 あの時は過去を話した直後で混乱していたのもあって、聞き流す形になってしまった。オレを過去から救い出す、そんな意味で言われた言葉だと思ったのだが、よくよく考えてみたらおかしい。

 彼女は何からオレを助けようとしているというのだ。

 こめかみを押さえる。何か大事なことを見逃している気がした。

 ――ここには誰も、君を傷つけるような人はいないよ。

 ――わたしは確かに、君を監禁した。だけどそれ以前にまず、ぼくがここに監禁されてるんだ。

 ――ナイショ。女の子の秘密は暴くものじゃないよん。

 ――わたしはあいちゃんを誰よりも必要としてるってこと。

 ――……名前、嫌いだから。漢字で呼ばれるより、片仮名で呼ばれる方がずっとマシ。何なら平仮名でもいいから、とにかく漢字はやめて……?

 ――この世界に、この皆が何かしらで誰かと繋がっているはずの広い世界に一人なんて、独り、なんて、怖い。怖くて、いいんだよ。

 ――ぼくの幸せなんていいの。ここで、あいちゃんの幸せを見つけてくれればいいの。ぼくと一緒にいて、その中に幸せを見つけてくれればいいの!

 いつだって謎めいたような、しかし何かしらの目的に基づいているような言動をしている彼女。そこに重要なものが落ちている気がするのに、上手く繋がらない。

 眉を顰めて更に考えようとしたところで軽いノックが聞こえ、オレは顔を上げた。

「相川さま。起きていらっしゃいますか? 大島でございます。朝ご飯をお持ち致しました」

 間もなく続いた言葉を聞き、オレは慌てて布団をめくり上げて「起きてます、大丈夫です」と返答した。

「失礼致します」

 すぐに扉が開いて、にこにことしたふくよかな女性が入ってくる。大島さんだ。

「すみません……わざわざ」

「いいえ。お嬢さまが今少しお取込み中であるために鎖を外すことがお出来にならないようで、私に『持って行け』とお申し付けになりましたので。これが私どもの仕事ですから、お礼などおっしゃらずともよろしいのですよ」

 笑みを浮かべたままで、枕元のテーブルへと食事の載せられた盆を置く。今日は炊き立てのご飯とみそ汁に焼き鮭と漬物、といういかにも『朝食』と言うべきメニューだった。

「持ってきてもらってそういうわけには……シュリは、何を?」

 恐縮しつつもそれとなく探りを入れてみる。彼女なら何かを知っているかもしれないから。

「後藤と何やらお話し合いのようですよ」

 しかし、後藤さんと同じく、彼女はシュリの忠実な使用人だ。シュリの許可もないのにオレに何かを話すことなどできないのだろう、申し訳なさそうに眉を下げた笑顔を返されただけだった。

「そう、ですか」

「はい。では、ごゆっくりお召し上がりくださいませ。何かございましたら内線でお知らせください」

 テーブルにある電話を示す大島さんに小さく頷く。

「終わった時に声をかけます」

「お願い致します」

 静かに去っていく彼女を見送り、小さくため息をついた。

 一人で摂る食事は味気ない。共に囲むことを覚えてしまった今はなおさら。だが食べなければ腹は減るのだ。それが分かっているから、味を感じないご飯を胃に押し込む。

 同じ家にいるはずのシュリが、今のオレには酷く遠く感じられた。昨日見た、何億光年もの距離を隔てた星のように。

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