夜空が覆い隠すもの
三曲目『歌劇「蝶々夫人」第1幕:愛の二重奏「夕暮れは迫り」』(Madama Butterfly - ActⅠ - Viene la sera)
by ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)
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夜。夕飯を食べて体を温めたオレたちは、シュリを先頭に屋上に来ていた。
「わーい! 今日は意外にいっぱい見える!」
はしゃぐシュリはまるで小さな子供みたいだ。オレは呆れた笑みを浮かべる。
だがオレも感心していることには変わりなく、同じように空を見上げた。久々に外で眺める夜空はとても美しい。きらきらきらきらと星々が瞬いて、オレたちを見守ってくれているかのようだった。
「あいちゃーん、ほらほらこっちこっち!」
「あーはいはい、ちょっと待てよ。つーか鎖引っ張んな首絞まる!」
苦笑いしながらそちらに向かい、ついでに後ろをちらりと振り返る。
そこには後藤さんと、見慣れない一人の男がいた。
ここ3日で、この家の使用人は後藤さんと皆本さん、大島さんの3人だけだとすでに把握できていた。
後藤さんを始めとした3人は、住み込みでシュリの面倒を見ている。
つまり『白い家』の住人はシュリを含めて4人というわけだ。最近はそこにオレも加わったけど、他の人間には会ったことがない。だから彼はまず間違いなく、今日になって外から招き入れられた人物だ。
閉じ込められた当日のオレならば、シュリに鎖に繋がれているのも忘れて駆け寄ったかもしれない。オレをここから出してくれ、と。
だが一度そんな行動を取れば、シュリの言うところの『牢屋』に入れられるだろうことは分かっている。だから馬鹿な真似はしない。
しかも、鎖はここ最近で一番短いものが今回は使われている。まず逃げるなど無理だろう。
当のニューフェイスの彼を観察してみることにして、シュリに気づかれないようにしてちらりと様子を窺った。
気弱そうで、少し落ち着きもない。オレと視線が合うと、慌ててものすごい勢いで視線を逸らすほどだ。
オレがそんなに恐ろしい顔をしているというよりは、それくらい彼が気弱なのだと考えた方が自然だろう。自分の顔にこれといった特徴はないことくらい、オレ自身が一番よく知っている。
だが彼の隣にいる後藤さんは、いつにも増して無表情が酷い。特に害になりそうな人物でもないのになぜだろうか。
怪訝に思うが、すぐに思考から引き戻された。シュリの呼び声がしたからである。
「あいちゃんあいちゃん、あれ綺麗!」
「あー、オリオン座? 確かに綺麗だよな」
後ろにいる二人が低い声で会話しているのは分かるが、シュリの声に意識を集中させていると聞こえない。そこに何か重要な情報があるような、そんな気がするのに。
しかも夜空を見上げるシュリは本当に楽しそうで、それを見ていると、二人のことなんて今はどうでもいいかと思ってしまうのもあった。
「星って一生懸命自分を燃やしてるんでしょ?」
「そうだな……太陽とおんなじ原理だから」
「すごいなあ……」
この瞬間の彼女は間違いなく年相応で、そっと頭を撫でてやると嬉しそうに笑う。
こんな環境にいて、そして狂ってしまっていても、彼女は彼女なのだ。こういう部分もあるから、使用人の3人には大事にされているのだろうとぼんやり思う。
「星を見ると、どうしてこんなに綺麗だと思っちゃうんだろうねぇ……」
独り言のようにシュリが呟いた。目を瞬かせたけれど、彼女はそれに気づいていないのか、ただ空を見上げている。
オレも釣られるように天を仰ごうとして、寸前でやめた。
星を掴む真似をするシュリは、分かっているのだろうか。こちらの胸が張り裂けそうなほどに痛むぐらい、切ない表情をしていること。
言葉が出てこなくなって、ただ彼女の隣に立って星を見つめる。いつの間にか絡まりあった指はきつく結ばれていて、離れないと思った。離したくないと思ったんだ。そのままひとつになってしまえたなら、どれほどよかっただろうか。
しかし、そんなのは幻想でしかなくて。
「お嬢さま。そろそろ切り上げてくださいませ。お体を冷やしますよ」
ちょっとしてから後藤さんの声が飛んできて、オレたちは振り返った。
「えー。もうちょっと見てたいーっ」
「駄目です。次の機会がなくなってしまっても、私にはどうすることもできませんよ」
むっとした表情ながらも、シュリも彼の言うことに逆らってもいいことはないのは分かっているようである。明らかに物足りなさそうであるが歩き始めた。鎖で彼女と繋がれているオレもそれについて歩いていくことになる。
だけど、手はするりと解かれた。
意外な思いで目を瞬かせる。特にその必要もないのにも拘らず彼女が自分からオレとの接触を断ったのは、これは初めてだったから。
そして更にオレの頭を悩ませることになる出来事が起こって。
すれ違いざま、一度男性と目が合ったが、その瞬間に寒さとは別種の悪寒が背筋を駆け抜けたのである。なぜだろう、底なし沼を覗き込んだ気分になった。
軽く黙礼して彼の前を通り過ぎる。
特に害がなさそう、なんて、とんでもない勘違いだ。あの人のことは深く探らない方がいいと本能が告げていた。
「お嬢さま、沸かしておきましたのでどうぞご入浴を。相川さまはその後で。申し訳ありません」
「あ、いえっ、大丈夫ですから」
変わらず固い無表情のままの後藤さんが心配になるけれど、オレにはどうにもできない。だからせめて彼の心労を減らそうと、オレからもシュリを追い立てて風呂に向かわせた。たまたま触れた彼女の体は冷え切っていたから。
その間はここにいろという感じで、呼び分けの便宜上図書室と勝手に呼ぶことにしたあの本だらけの部屋に、鎖の繋がる場所が変えられてしまった。
本を読む気にはなれず、ぼんやりと天井を見上げる。彼女はいつもこの天井を一人で見上げていたのだろうか、なんて考えて少し切なくなりながら。
しばらく経った頃、軽いノックの音がしてドアの方を見遣った。
「相川さま」
シュリならノックなどしないのにと怪訝に思うと、後藤さんの声がかかる。
「あ、はい?」
慌てて起き上がり、じゃらじゃらと音を鳴らしながらドアを開けた。
「お嬢さまから鍵を預かりましたので、どうぞお風呂へお入りください」
一礼の後に言われた台詞に目をしばたたかせる。
シュリは今まで鎖の鍵を後藤さんだろうと他の二人だろうと渡したことはなかった。それなのに、今回に限っては彼をこうして迎えに寄越した。いったいどういう風の吹き回しだろうか。
「後藤さん、シュリはどうしたんですか?」
もう風呂からは上がったんでしょう? と見上げると、彼は珍しく少し言葉に迷うような表情を浮かべた。
「……前上の方と話があるらしく、今別室の方に」
マエガミ? とオレが怪訝な顔をしたのが分かったのだろう、「先ほどの本家の使用人です」と説明を付け足してくれる。
「本家の使用人……」
オレは廊下に出ながら小さく呟いた。
「はい。旦那さま――上條代表付きの使用人です」
なるほど。つまりシュリ付きである後藤さんの上司にも当たるのだろう。だからあんなにも微妙な表情をしていたのかもしれない。
でもそこで、先ほど前上という男に感じたうすら寒さを思い出してしまう。
無理矢理にその考えを打ち消して歩けば、脱衣所とその奥にある風呂場はすぐそこだ。
一歩進めるたびに鎖は鬱陶しく鳴っていたが、風呂場の手前で歩を止めたことでそれも止む。
「わざわざ直接、って……前上さんって人、後藤さん経由じゃ話せないことでもあるんですかね?」
「そんなところでしょう」
濁された感覚もあるが、巻き込まれただけの部外者のオレに何も言う権利などありはしないのだ。
それでも、考えてしまう。普段から一緒にいるのは後藤さんなのに、その彼をすっ飛ばして、本家の使用人がシュリに直接何かを話すなんて。オレだったら微妙な気持ちになるに違いない。
「お風呂、借ります」
「行ってらっしゃいませ」
だけど後藤さんは大人なのだ。いつもと変わらない表情と、深々とした一礼でオレを送り出す。
だからオレも何も言わず風呂場に向かった。
思っていたよりも体は冷えていたらしい。湯船に浸かった瞬間、全身の筋肉が緩んでいくのが分かる。
小さく息をついて、天井を見上げた。眼裏に蘇る星空が、白い天井をスクリーンにして映る。
伸ばした左手をまじまじと見つめてしまう。
彼女と繋がっていた手。しかし離されてしまった手。
小さなことだ。そう思おうとするのに、頭の片隅に引っかかってしまう。
「あー、わけ分かんねえ」
ざぶんと一度頭のてっぺんまでお湯に体を静めてから勢いよく立ち上がった。当然体にはあまりよくないことだったので、一瞬目の前が真っ白になる。倒れないように壁で体を支えた。
自分も、シュリも、わけが分からない。
どうしてこんなにもやもやして、どうしてこんなに彼女が気になるのか。どうしてオレの手を離すような真似をして、どうしてオレを蚊帳の外に置くような行動をしているのか。
いくら思考を巡らせても答えは出ない。とりあえず考えることをやめ、風呂から上がった。
脱衣所には誰もいなくて当然だが、ドアの向こうにもシュリはもちろん、後藤さんがいるような気配もしない。
「これじゃ普通に逃げられるだろうが……」
ひとりごちる。
オレとしては全く問題ないけれど、彼女にとっては大問題なのではないのか。
大きくため息をついてから体の水分を拭き取って着替えを済ませ、タオルを頭から被りながら脱衣所を出た。
シュリはもう部屋に帰ってきているだろうか。それともすでに寝床に入っているかもしれない。とりあえず風呂から近い寝室の方を先に覗こうと歩き始めようとした時、後藤さんがオレの前に現れた。
「ご、後藤さん。どうしたんですか」
全く気配がなかった。思わず変な声が出そうになったのを寸でのところでこらえて尋ねる。
「お嬢さまから言伝を預からせていただきましたので。前上との話し合いがまだしばらくかかるので、先にお休みになってくださるようにと」
彼の無表情を眺めるが、特に他意は読み取れない。
「……逆らったら牢屋行きですかね?」
「何とも申しあげかねます」
冗談を交えた口調で吐いた台詞には即答された。それはそうだ。
あまり洒落にならないジョークだった。これ以上自由が剥奪されるのは御免だし、多分後藤さんは見張りでもあるのだろうし、素直に従っておくほかない。
寝室に入ると、後藤さんは「失礼致します」と言いつつ鎖を填め直してきて、オレは元通りに囚われの状態になった。
「何かございましたら、そちらの内線でお呼びください」
指し示された先には電話があって、軽く頷き返した。静かに閉められるドアを眺めているうち、オレは久々に一人きりであることを自覚していく。
半ば倒れ込むようにしてベッドに横になった。
クイーンサイズは、一人で占領するにはあまりに広い。手を伸ばしても、いつもいる場所に彼女はいなかった。それが落ち着かなくて寝返りを打つが、それが更にシュリのいない事実を突き付けてきて胸が騒ぐ。
早朝に見た彼女の寝顔が視界の端にチラついた。
「…………ばっかみてえ……」
右腕で顔を覆う。自嘲の笑みがこぼれ、次の瞬間にはそれに対して可笑しさが湧いてきて、別種の笑いが込み上げるのに身を任せるままに笑い転げる。
早く帰ってこい。オレの傍に帰ってこい。どうして前上なんて男を優先するんだ。そう思っている自分が確かにいる。誤魔化すことはできない。
オレはあの男に嫉妬しているのだ。
彼女がオレを所有するから、オレも彼女を所有していたつもりでいた? 彼女はオレ以外眼中にないとでも? そんなふうに自惚れていたのか? 馬鹿らしくって嘲笑しか浮かばない。
周囲から自分を切り離したくて、布団を頭から被る。しばらくは思考で目が冴えてしまって眠る気がしなかったが、あたたかさが徐々に眠気を呼んだ。
どれぐらい経っていたのだろう。ドアが開く音で意識が浮上するけれど、あまりに重い瞼は開けることができない。ぺたぺたという裸足の足音がベッドの傍で止まった。
髪の毛を誰かの手がさらさらと撫でていく。
「ごめんね……」
この声はシュリだ。前上との話は終わったらしい。そして直後、頬に押し当てられた柔らかいもの。耳元に吐息を感じたので、恐らく唇だった。
起きなくては。そう思うのに、瞼の重量は増すばかり。
意識が完全に落ちる直前に布団にもぐりこんできた彼女からは、嗅ぎ慣れないシプレの匂いがした。




