微笑みが満たす
ふっと目を開けたら、窓から差し込む光が見える。それはだいぶ弱い光で、朝からは随分と時間が経っていることは明白だった。
起き上がろうとしたら、何かの力に遮られる。首を傾げ、その正体を確かめようと視線を動かせば、すぐに分かった。
「シュリ……」
しがみつくみたいにしてオレに抱きついて眠っている。
どうやら、二人して泣き疲れて眠ったらしい。まるで幼子のようだ。
特にシュリは寝顔になると特に幼いため、寝ていると本当にただの子供みたいで。ちょっと笑って頬をつつけば、小さな声を上げながらむずがるように身をよじった。また少し笑うが、困った事態であるとすぐに察する。
動けない。
無理に腕を外そうとすれば多分、シュリは起きてしまうだろう。気持ちよさそうに眠っていることだし、そうはさせたくないというのが本音だ。でも動けないのも困るし、どうしたものか。
思案しつつも、どうにもならないと半ば諦めかけていた時、軽いノック音が小さく響いた。
「はい?」
小声で返事をすると、「後藤です」との声が向こう側から聞こえてくる。
「あ……すみません、今動けないんですけど、」
「承知しております。入っても?」
ショウチって、承知? なぜ承知されている? 固まっていると、辛抱強く返答を待っているのか、彼からは何も言葉が飛んでこない。
「え、あ、えっと……あんまりよくはないけど、どうぞ……」
しばらくしてからしどろもどろながらも言葉を発せられるようになったのだから、自分を褒めてやりたいと思う。
「失礼致します」
そう断りながら入ってきた後藤さんは、常の通りに無表情だった。
一方のオレはというと冷や汗がだらだら。今すぐこの場から逃げ出したい、という欲求が湧いて湧いて仕方なかった。
「相川さまがお気になさる事ではございませんよ。お嬢さまが一方的に貴方へ張りつかれて離れないだけでしょう。昼食の時に一応声をかけさせていただいた時もそうでした」
鉄仮面のまま淡々と語られる台詞に、「あ、ははははは……」と空笑いすることしかできない。
確かにその時と今はシュリが一方的に、なのかもしれないが、さっき起きたときは多分オレもくっついていました――とは言える雰囲気にない。そしてそれに気づいているのかどうかも、彼の動かない表情からは読み取れないし。
というわけで冷や汗が引くどころか増す一方のオレは、どうにかシュリを眠らせたままに剥がそうとしてみる。
「んー……」
もぞもぞと動く彼女に肩を跳ねさせるオレと、慣れているのか特に動じた様子もない後藤さん。
「お嬢さま、夕食の時間です」
それどころか、覚醒させるための行動に出ていた。オレから見れば勇者かと見紛うばかりの行動である。案の定、シュリが文句でも言いたいかのような声を上げているが、そこで甘やかさないのが彼であるらしかった。
「貴女さまが起きようが起きまいが、相川さまは食事に連れ出させていただきますが? もちろんお嬢さまは置いて」
大真面目な表情で紡がれた、間違いなくシュリの逆鱗に触れるだろう言葉にぎょっとする。
「……ふざけんな」
予想通り、起きたのはいいがゆらりとブラックなオーラが立ち昇っているし、口調まで常の可愛らしい少女のそれではなくなっていた。普段が演技であることぐらいはよーく分かっているが。
「後藤! あんた今何て言ったの!?」
鬼の形相といったところで差し支えない、とオレは思う。せっかく人形のように美しい顔をしているのに台無しであり、大変もったいない。
「貴女さまを置いて、相川さまだけをお連れして食事にすると」
そして律儀に慇懃な様子で返す後藤さんが、オレには彼女を煽っているようにしか思えなかった。
無表情鉄仮面は彼の通常運転だが、頭に血が昇っている状態のシュリにとってはどんなに腹立たしいだろうか。少し彼女に同情したい気分になる。
「ふっざけんな! あいちゃんはぼくのだ! あんたが勝手にするな!」
「僭越ながら申し上げますと、まだ相川さまがお嬢さまのものと確定したわけではないかと」
後藤さん、ナイス。内心で拍手を送る。そこの部分はよくぞ言ってくれた。彼がツッコミを入れなければオレがしていた。彼のように婉曲的にではなく、もっと直接的に、お前のものじゃねーから、と。
言ったら言ったで、あの冷徹な目を向けられて身震いするのはオレの方かもしれないが。
「そんなことない! ね、あいちゃん! ね!?」
念を押すようにしながらぐいぐいと近づいてくるシュリ。返答に困って目を泳がせると、彼女の表情がみるみる不満の色に染まっていく。
「あいちゃんはぼくの味方しなきゃ駄目なの! 分かってる!? 刺すよ!?」
他の誰かなら冗談で済むところだが、彼女の場合は本気で洒落になっていない。
「そ、それでいいです……」
情けないことだがオレは真っ先に生存本能が働き、そう言うしかなかった。
単純なのか何なのかよく分からないシュリは、途端ににこにこと機嫌よく笑っている。
本当に天使と悪魔がひとつの体において同居している少女だと思う。人間であるし誰しもそう言う一面はあるが、この子の場合は特に顕著である。命の危険を感じたのも何回目か。
だが、命知らずな人間というのはどこにでもいるもので。
「お嬢さま。無理矢理言わせたところで、それは決して真実には成り得ませんかと」
ようやく矛を納めかかっていたシュリがまたも沸騰した。
「何か言ったあああああぁ!?」
「無理矢理、相川さまにおっしゃらせましたところで、真実には、成り得ませんかと。そう申し上げました」
わざわざ分かりやすいように区切って言い直す徹底ぶりである。いけしゃあしゃあとはこういうことを言うに違いない。
この人は空気が読めないのか、それとも敢えて空気を読んでいないのか。優秀そうな見た目と今までのやり取り、言動を思い出せば、後者の線が断然濃厚のように思う。
「後藤! やっぱりクビ! ていうか刺す!! 刺す!!」
「どうぞご自由に、お嬢さまにそれが御出来になるのでしたらば」
「言ったね!? じゃあ今から刺してあげるから首洗って待ってなさいよ!」
ぎゃんぎゃんと吠えるシュリに、彼女をおちょくるがごとく普段通り淡々と返す後藤さん。オレはこちらにまで飛び火するのではないかと気が気ではなかった。
「で、あいちゃん! さっきの言葉は本気だったの、嘘だったの!?」
何かしら武器を取りに行こうとでもして勢いよく立ち上がったらしいが、シュリはふと思い出したようにオレを振り返る。
最も恐れていた事態であった。ここで認めたら後々面倒であるし、かといって認めなかったら後藤さん諸共に刺し殺されそうだ。
どうしたものか。頭を抱えようとしたところで二人の顔が目に飛び込んでくる。
後藤さんは「本気だと言ったら言ったで後々面倒なことになりますよ?」と真顔で伝えてくるし、そうかと思えばシュリは「もちろん本気だったよね?」と芯から冷え入るような笑顔で見てくるし。
どうにもならない。というか逃げ出したい。引きつった笑顔を浮かべている自分の背中を先ほど以上の冷や汗が流れていることはもう、確かめなくても分かった。
「さあ……? とりあえずちゃっちゃとご飯にしましょう」
「同感です。こちらへ」
オレは結局そんなふうに言葉を濁し、足早に部屋を出る。後藤さんも同意して味方に付いてくれたので助かった。
背後からは、
「どっちなのよはっきりしなさいよおおぉ!」
という怨嗟の声が聞こえてきていたけれど、オレたちは完全に黙殺した。
しかしぶつぶつ言いながらもオレの首に繋がる鎖を床から外してついてくる辺り、自分もかなりの空腹の度合いだったのだろう。
既に半ば諦めてはいたが、彼女はやはり鎖を手放すことはしそうもなかった。
「ダイニングはこちらです」
階段を下りてから割とすぐ傍にあった、他の部屋と同じく白いドア。開けてくれた後藤さんに小さくお礼を言ってからそっと中に入る。
煌びやかではなかったけれど、設置してあるインテリアはシンプルなものだった。しかし素材のひとつひとつは恐らく高価だろうと思えるものばかりだった。
たとえばスツールもそのひとつで、座るのは躊躇われた。だが突っ立ったままでもどうにもならない。むくれて不機嫌そうなシュリが後藤さんに椅子を引かれて座るのを見てから、ゆっくりと腰かけた。
クッション素材の固すぎず柔らかすぎない程よさに感心する。シックに見せているが、これは絶対に値が張ると思う。
「今夜も外は寒いらしいから、ビーフシチュー。わたし大好きなんだー。あいちゃんも好き?」
「……好きだよ」
「そっか、よかった!!」
皿の上の料理は、鼈甲を何重にも重ねたような美しい色をしている。肉も食欲をそそる色合いをしていてとても美味しそうだ。今朝ちらりと見かけたお手伝いさんである中年の女性二人が作ったらしい。
地味だが綺麗な顔立ちをしている方が皆本さん、少しふくよかでいつもにこにこと笑顔を絶やさない方が大島さん、と聞いた。どちらも感じのいい人だと思う。
動作のひとつひとつからシュリを大事にしているのが伝わってきた。突然現れたオレにも変わらぬ態度で接してくれて、こちらがかえって恐縮する。
そのビーフシチューは、今まで食べたどの料理を比べても比べきれないぐらい最高の味だった。
こんなにも美味しく感じられる理由はよく分かっている。一人の食事は味気ないからだ。
実の両親と暮らしていた時は、ビーフシチューなんて贅沢品の中の贅沢品だった。育ての親のところで食べたことはもちろんあったけれど、オレは大抵一人きりで食事していた。
その時は『普通』だから気づかなかったが、こうして誰かと食事を共にしてみると、いかに誰かと一緒に食べることが重要なのかよく分かる。
「おいしーっ」
さっきまで不機嫌だったくせに、食べた途端に機嫌を直して笑っている様子とか。それを微笑ましそうに眺めている人たちの様子とか。そんなものを見て癒されるなんて、満たされるなんて、知らなかった。
「あいちゃん、美味しい?」
そう訊かれてしっかり頷くと、作った人が嬉しそうに笑うのを見て、自分までもが幸せになるなんてことも。
昨日の雑炊と同じく、空腹ゆえとそのあまりの美味しさにぺろりと完食し、勧められるままお代わりもして、オレはすっかり満腹になった。
自分が食べ終わったからといって先に戻るのも気が引けて、まだ食べているシュリに視線を遣る。
彼女は小さくて細身な見た目にはそぐわず、ゆっくりでありながらも結構な量を食べていた。食べることは好きなのかもしれない。
「……なあ?」
「ん?」
そこそこの大きさの肉の塊を一口で頬張りながら、オレの声に反応してシュリはこちらを見た。きょとんとしている。
「これは外してくれないわけ?」
鎖を少し持ち上げてみせれば、シュリはちょっとの間つーんとしながらどこかを向いて、すぐにまたもぐもぐと食べ始める。
「だって繋いでおかなかったら、あいちゃん、逃げるじゃん」
「……逃げようがないだろ」
思わず苦笑いすれば、「家の中でだってぼくに会わない工夫はできますー」と唇を尖らせる。
「家の中でだって追いかけっこしたくないよ、疲れるもん。ひとつひとつ策を講じてくのも楽しいけど、それはそれで体力使うし」
肩を竦める彼女に、やっぱり、と思う。
この子は相当頭がいい。それなのにどうして、代表は彼女をここから出さず、学校にも通わせないのだろうか。
彼女の才能はきっと花開いたら相当なものになる。オレたち一般人なんて足元も及ばないほど。彼女を上手く活用できたらかなりのブレーンになるだろうに。
オレがそんなことを心配したところで、この状況を変えてあげられるわけではないのだが。彼女が普通の人間のように過ごすことができるようにしてあげられるほどの、つまり大企業の代表に逆らえるほどの力など持っていないことは、自分がよく知っている。
「なかなかに非日常でスリルに溢れてない?」
「この家自体……ってか、お前に監禁されてる時点でもはや非日常の塊だろうよ……」
「あはは確かに!」
けたけたと楽しそうに笑うシュリに、つられてこちらまで笑ってしまう。こんな状況だというのに。
あんなにも帰りたいと思っていたはずだったけれど、何だか今は全くと言っていいほどそんな気持ちが湧いてこない。
理由なんて多分、考えるまでもなくてとても簡単だ。
自由はある代わりに温かみのない――しかもオレを見捨て、売った人たちのいるあの家。
囚われて思い通りに動けず、時折恐怖に晒されるし好いてくれる理由も分からないけれど――それでも、オレを盲目に欲しがってくれるシュリのいるこの家。
オレは何を考えているのだろう。どちらにおいてもメリットとデメリットがあるのなら、後者の方がいいと。この強いようで脆い少女を見守る方がずっとずっといいだなんて、どうして考えているのだろう。
どうかしている。でも今は、彼女の微笑みを見ているだけで、本当に充分なのだ。




