四葉のクローバー
青い鳥文庫みたいな小説を目指して思って書きました。
ちょっとせつない、そしてあたたかい話。少しSF。
たしか高2のときに書いた話です。当時はやたら過去に戻る話を書いていました。
「じゃあねー」
「またね」
「……ばいばい」
いつもの道をいつもの友達と帰った、二年目の、いつもの光景。
この町に来たのは二年前。お父さんの仕事で、というありふれた理由だ。今までの町よりちょっと田舎で、その分自然が多くていい感じ。友達もできたし、学校も楽しいし、充実している。
……なのに。
どこか、なにか、いつからか。靴の中に砂利が入ったときみたいな、小さな痛みが心に響く。
靴なら脱いで振ればいいけど、心は取り外しできない。じゃあ、どうすればいいんだろう。思いつかないし、誰に聞けばいいのかも分からない。
風が吹いた。秋に入ったばかりなのに風は冷たくて、心を冷やしていく。目を開けると、いつもの家。
答えの出ないまま、また今日も家に着いた。
ただいまをして、手を洗って、自分の部屋に。ランドセルを置いて、イスに座って、少しため息。逃げていく幸せを目で追って、またため息。
みんなと居るときは、まだ忘れられる。一人になるとため息が止まらない。
理由は分かってる。だからこそため息が出てしまう。
本棚の、アルバムや図鑑が入ってる場所に手を伸ばす。分厚い本と本に挟まれた細い背中を引っ張ると、ビニールに入れた色紙が出てくる。
中央に、丸く切り取られた三年生のわたし。そこから放射状に広がる三十一の短い文章。一つ足りない、クラスのみんなと先生の言葉。ため息を一つついても代わりにはならない。
宿題をしよう。何もしてないと、ついつい落ち込んでしまう。同じ場所に色紙をしまって、ランドセルから筆箱とワークシート。見ることのない図形の面積を求め、栓の抜けた水そうに水を注ぐ。教わった通りに。
『つまらなそうな顔してるね』
たしかにあまり面白い宿題ではない。わたしは国語の方が好きだし、算数は正直苦手だ。
『そうじゃなくて。元気、なさそう』
元気。どうだろうか。体は健康だけど。
『心は?』
……元気、ないな。
『だと思った。そこでボクの出番』
ボク?
『左の引き出し、開けてみな』
右側には文房具が、左側には……何を入れてたっけ。
声はどこからか聞こえてくる。いつか聞いたことがあるような声で、不思議と安心できる。
声に従って、久しぶりに開けてみる。いろんな紙(時間割や今までの学級通信)の中に、小さなアクリルプレートが挟まっている。つまみ出してみると、四葉のクローバー。
「押し花……?」
押し花しおりだ。どうしてこんなものが入ってるんだろう。自分で作ったのか、誰かがくれたのか。それすら曖昧ではっきりしない。
『こんにちは。ボクを求めたのはキミかな?』
「……うん」
なぜかあっさりと。なにも考えずにうなずいた。心のどこかで分かったから。
わたしの疑問に答えてくれるのは、わたしの心を晴らしてくれるのは。
きっと、この不思議な四葉のクローバーだから。
『ボクにできるのはキッカケを渡すことだけ。あとは全部キミの選択次第だ』
クローバーの声はとてもやわらかくて、いつまでも浸っていたくなる。だけどそれを許さない強さも持っていた。
だからわたしは、ただ黙ってうなずいた。
『それじゃあ行くよ。……よい旅を』
プールのあとみたいなダルさがわたしの体を包んだ。遊び疲れた日、いつの間にか眠ってしまう日のように。目の前は暗くなり……
……彼の顔が見えた気がした。
気がつくと見慣れた天井が見えた。首をひねると、今度は見慣れない壁。ゆっくり起きあがるころにはもう気がついていた。ここは、前の家。がらんとして家具もないから、たぶん引っ越しもほとんど終わった八月だろう。
わたしは過去に戻っていた。確かめるように自分の体を見ると、今はもう小さくなって着れない、お気に入りだったうすい水色のワンピースを着ている。体まで戻っているみたいだ。髪も、今はしなくなった子供っぽい二つ結び。心だけが五年生のままでいる。
少しずつ思い出す。わたしの家は郵便局に近いマンションの七階で、学校には少し遠かった。カーテンを外したそのままの窓から町を見る。窓越しでも聞こえるセミの声。高く伸びた入道雲。ぎらぎらと光る太陽。照らされる家々。夏真っ盛りの、なんとなく浮ついた季節。
そういえば人の気配がしない。リビングに出てみても、お父さんとお母さんはいない。どこへ……そうだ。市役所に行くと言っていた。
二人の代わりに口を閉じてないダンボールがいくつか置かれてる。こまごました物やないと困る物は最後まで残していた。わたしのダンボールから、一つずつ取り出して並べてみる。
小さなピンクの手鏡。お母さんが「女の子なんだから持ってなさい」とくれた物。今はどこかに紛れて見あたらない。新しい物も買ってしまった。
ハードカバーの本。これは、お父さんが「こういう話好きだろ」とくれた物。むずしくて読み辛いけど、せっかくくれたのに悪いから読んでいた。今はそれなりに読めるはず。
この筆箱はチャックが壊れて捨ててしまった。ルービックキューブはそろわないのが嫌になってどこかにしまった。特別好きだったイルカのぬいぐるみも、他のぬいぐるみと一緒に本棚の上でホコリをかぶってる。
失った、いや、捨ててきた過去がわたしにのしかかってきた。ちがう。ずっと使うつもりだった。ずっと一緒にいるつもりだった。つもりだったのに。
『キミは落ち込みに来たのかい?』
ポケットから響いたあきれた風な声が、わたしの気持ちを引っ張りだした。過去はわたしを失い崩れて消える。
『サービスしすぎかもしれないけど。キミの目的はすぐそこにあるよ』
言われて初めて気づいた。ダンボールの一番下に、曲がらないように敷かれていたのが……
「……やっぱり」
一カ所欠けた、寄せ書き。
誰が欠けてるのかは分かってる。どうして欠けてるのかも分かってる。何を書くか悩み続けて、ぎりぎりまで考えてたと別の友達に聞いた。だけどお別れ会の二日前に、カゼをひいたんだ。カゼは終業式の日になっても治らなくて、その結果がこの空白。
『それがキミの心残り?』
わたしの心を見たみたいに声をかけられて、思わずどきっとしたけど、やましい気持ちはないから堂々とうなずいた。
『ふうん、なるほど……』
何に納得してるかは分からないけど、とにかく行動しないといけない。
「ここにはどれくらいいられるの? ここって言うか、この二年前の世界には」
『心残りを晴らしたらすぐ戻っちゃうよ』
「なかなか晴らさなかったら?」
『まぁ……一日くらいかな。でも一日以内に解決できる日に来てるから、心配しないでも大丈夫だよ』
「そうなの?」
『うん。だからキミの気持ち次第なんだよ』
「そっか……」
それなら話は早い。彼はわたしと同じマンションに住んでいた。たしか一つ下の階だ。
筆箱から緑のペンを出して、色紙を抱えて玄関を出る。
むわっとした夏の空気が広がると、過ぎ去った季節がよみがえってくる気がして、何かを思い出しそうになる。だけどそんな気持ちはすぐに消えて、昔のなれた感覚でエレベーターに乗った。
一階分だからドアはすぐに開いた。左の通路へ歩いていく。そうだ、ここだ。何かのとき……三年生の今よりもう少し前に来たことがある。二年生か一年生か、幼稚園だったか。ほんの数年前のことなのにもうこんなに忘れてしまっている。思い出そうとする前は、全部覚えてると思ってたのに。
それでも、表札には記憶通りの名字が書かれていた。となりのチャイムを押せば彼に会える。指を伸ばして、触れて……
触れて、……押せ、ない。
四葉のクローバーが言うとおりなら、彼は家にいるはずだ。だからチャイムを押して彼を呼びだして少し書いてもらえばいい。それだけの、簡単な話だ。
でもそんな簡単なことを頼む必要はあるんだろうか。たかが寄せ書き。たかが二、三行の文章に、こんなにムキになって。
二年間忘れずにいたけど、それは偶然だろう。他の物たちと同じ。眠るはずだった物たちの一つが起きていただけだ。それはイルカのぬいぐるみだったかもしれないし、筆箱のチャックは壊れなかったかもしれない。それだけの話じゃないか。
チャイムから目を離して、ドアを見る。そもそも断られる可能性すらある。無理にお願いして書かせるのも、彼に悪いし。だったら何もしなくていいじゃないか。転校先でも楽しくやれてるし、後ろばかり見てちゃいけない。きちんと今を生きて、人生を楽しもう。
指を離して、一歩下がって。後ろを向こうとして……変な感じがする。ノドのすぐ下まで来た言葉がつっかえて出てこない。忘れてる。わたしはまだ、何かを忘れてる。夏の暑さに、セミの声に埋めて隠した何かを。
いや……もとから、覚えていたんだ。思い出せないフリをしてたけど。傷を忘れたつもりだったけど、時間が治してはくれなかった。
……こんな言い訳を、二年間続けてきたんだ。
わたしは前もここに立っていた。五年生のわたしじゃない、本当の三年生のわたしのとき。そして、あのときは引き返して、そのまま明日になって、朝早くに引っ越した。彼と会うことはなく、さよならさえ言わないで。
また、同じことをくり返そうとしていたんだ。
手を強く握る。爪が食い込んで少し痛いくらいに。大きく深呼吸する。ちゃんと話せるように。足を踏み出して、チャイムの前へ。
やり直すんだ。今度こそ、勇気を出して。
一度目を閉じて、思い出す。彼とは幼稚園のときから友達だった。同じマンションの友達は他にも何人かいたけど、男の子で一番仲が良かったのは彼だった。あの頃はかくれんぼが流行ってて、彼は見つけるのがすごく上手だった。
だけど、三年生の彼が、何が好きで、何をやっているのかは知らなかった。いつからか、男の子と女の子は一緒に遊ばなくなったから。そのことに疑問は持たないで、そういう物だと思っていた。本当は遊びたかったのかもしれない。
目を開く。まだ間に合う。まだわたしはここにいる。だから……
チャイムを、押した。
「ごめんっ!」
おばさんに言って呼んでもらった彼は、あせった様子で玄関から出てくるなりそう言った。そのまま早口で、カゼが随分とひどかったこと、色紙の回ってくるのが遅かったこと、引っ越し屋さんが来ててわたしの家に行きにくかったことを、順序ばらばらで説明してくれた。
彼はわたしが怒ってると思ったらしいけど、むしろ逆で。うれしくて、安心した。彼もわたしと同じ。一歩踏み出せなかっただけだったんだ。
寄せ書きはもちろん書いてくれた。カゼをひきながらずっと考えてくれてたらしく、すらすらと、あっさり書き上がった。
最後のピースがはまった寄せ書きは、ほんの少し緑が加わっただけなのに、はまる前とはまるで別物で。学校の、この町の思い出を全部閉じこめた宝石箱になった。
二年間の悩みは、ほんの数分で解決してしまった。
「えっと……もう、引っ越すの?」
ペンを受け取ったわたしは、少し答えるのが遅れた。このまま彼と遊びたい。きっともう会えなくなってしまうから、最後にもう一つ思い出を作りたい。そう考えずにはいられなかった。
でもダメだ。贅沢を言ったらキリがない。本当に欲しい物を、本当にしたいことを選ばないといけない。時間は同じ早さで流れていくから。こんな風にやり直せることはたぶんもうないだろう。
「引っ越すのは明日だけど……準備があるから」
「そっか……」
だから小さいウソをついた。さみしそうな彼の顔を見ると、ああ、もっと早くに話しかけてればよかったと後悔してしまう。
だけど、後悔だらけでも。ここで過ごした毎日は、楽しかった。
「……寄せ書き、ありがとう。……じゃあね」
だから最後の言葉を伝える。言えなかった言葉は口に出すと、やっぱり案外簡単で。それがたまらなく悲しかった。
「うん……さよなら」
「さよなら」
聞けなかった言葉にこたえて、背中を向ける。彼が見えなくなって、少し歩いて、がちゃんと。扉の閉まる音を聞いて。
少しだけ、涙をこぼした。
「じゃあね」
「ばいばい」
「またねー」
いつもの道をいつもの友達と帰る、いつもの光景。秋の風は冷たくて、首筋をひやっとさせる。
悩みがなくなったわけじゃない。中学受験をする友達の話を聞くとわたしもした方がいいのかなと思うし、合唱コンクールの本番が近いのにまだ上手く歌えないし、今日は宿題がたくさん出てしまった。
毎日悩んで、少しずつ解決して、また悩んで。そうやっているとどんどん季節は変わっていって。こんなことを考えてるだけで時間は経ってて、もう家に着いてて、部屋に入った。
イスに座って引き出しを開ける。大切な物を入れる引き出しの一番上に、びっしりと色とりどりの文字が書かれた寄せ書きがある。
お母さんに聞いてびっくりしたけど、インクには時間が経つと消えてしまう物もあるらしい。うすくなって消えそうな文字は、あまり良くないと思いながらも同じ色のペンでなぞって直してる。
けれど……緑色の文字は、偶然だけど消えないでいる。ただ、同じ緑色の四葉のクローバーは元々なかったみたいに消えてしまった。
あれは一体なんだったんだろう。神様なんて信じてないけど、不思議でしょうがない。でも、もう確かめる方法もないだろう。会う予定はないからだ。
当たって砕けたくはないけど、勇気を出さないと何も始まらない。受験はお母さんとお父さんに相談しよう。合唱は歌の上手い友達に手伝ってもらおう。それから……今はとりあえず、宿題をしよう。
色紙をしまって、宿題をランドセルから出して、おかしな図形を相手に格闘する。
いつかこんな毎日も変わっていくんだろう。あと一年半で小学校を卒業して、中学に通う。でも三年したら高校に入って、また三年で大学に入って、その後は会社に入って……そのたびに友達が減って、友達が増えて、悲しんで、喜んで、それをずっとくり返して…………そんな、想像もつかない未来が待っている。
だけどこの寄せ書きを見ると。変わっていく未来の自分が楽しみになった。