第二話 裏
杏子さんサイドのお話
人付き合いが苦手で、大した取り柄もなく、今まで研究一筋で家事もろくにできない。
そんな私にとても綺麗で賢くて、私にはもったいない程の義娘ができました。
涼ちゃんはまだ高校生なのに大人びていて、落ち着いていて、それでいて優しい。
今まで家事を全てやっていただけあって料理も美味しいし手際もいい。
部活動も積極的に行っていて、勉強も問題なくできると聞いている。
先生に初めて涼ちゃんの説明を受けた時は欠点ばかりの私とはまるで正反対だと思った。
いつもの癖で私なんかが…と呟いてしまったくらい私と涼ちゃんは正直釣り合っていないけど、それでも先生が私に涼ちゃんの事を頼むと言ってくれたのだ。
けして義務感ではないけど、涼ちゃんと全力で仲良くなろうと決意した。
そうだと言うのに…。
結果は散々なもので、出会ってから今日まで情けない姿しか見せられていない事実があった。
引っ越しの前から人見知りのせいでうまく会話ができないことはある程度予想していたけれど、これほどまで自分が役立たずだとは思わなかった。
今朝だって一時間も寝坊して、慌てて起きてきたら既に朝ご飯はできていて、涼ちゃんがお弁当を鞄に詰めているところだった。
二日連続で寝坊するなんてあまりにも情けない自分に泣きそうだったけれど、落ち込んでいても涼ちゃんを困らせてしまうだけだから必死で顔を上げて一緒に朝ご飯を食べて学校に行く涼ちゃんを見送った。
新しい環境に緊張して寝付くのが遅くなったからとはいえ、二日連続で寝坊するなんて本当に学習能力のない自分が嫌になる。
つい先ほどの出来事を思い出し自己嫌悪の海に沈んでいると、ふと馴染みの着信音が聞こえた。
この電話にかけてくる相手は限られているのである程度の予想はつく。
スマートフォンの画面に表示されている名前は予想通りの人だった。
「先生おはようございます」
『ああ、おはよう。声が沈んでいるが、どうかしたのか?』
「…私本当に駄目で、昨日も今日もたくさん、たくさん失敗してしまいました」
今日あったこと、昨日あったことをポツリポツリと順番に打ち明けていく。
懺悔のようなそれらを先生は最後まで静かに聞いてくれていました。
『ふむ、大丈夫だ。顔を上げなさい』
どうして、私が俯いていたのが分かったのでしょう?
『心配しなくてもいい。涼はその程度では怒ったり機嫌を悪くしたりしない』
「…はい。確かにそうでした」
先生の言う通りで、優しい涼ちゃんは失敗ばかりで駄目なところしか見せられていない私を何回も助けてくれた。
寝坊してしまった私を起こしに来てくれて、一緒にご飯を作ってくれて、一緒に買い物に行ってくれた。
だからこそ、そんな涼ちゃんに何も返せない自分が悔しかった。
黙り込んでしまった私に、先生はいつもの平坦だけど優しい声で告げる。
『一緒に風呂でも入ったらどうだろう』
「お風呂、ですか?」
『涼は風呂が好きだから少し打ち解けられるかもしれん』
「涼ちゃんお風呂好きなんですか」
『ああ、たしか入浴剤を買いだめていた』
そうなんだ。
そういえば私も昔よくお母さんと一緒にお風呂に入った。
けして広くはない浴槽に二人で入って温まりながら、その日にあった事を報告するその時間が好きだった気がする。
成る程、親子でお風呂にはいるのは普通だよね。
「そうですね。提案してみます」
『今日は夕飯は一緒出来ないが、なるべく早く帰るようにする』
「今日は筑前煮を作ってみようと思っています」
『楽しみにしている』
「頑張ります」
そうだもっともっと頑張らないと。
涼ちゃんにお母さんと認めてもらえるように、先生の期待に答えられるように。
もっともっと、
『杏子くん』
頑張らないと。
そう自分に言い聞かせるように心の中で繰り返した言葉は先生に遮られた。
耳に届く先生の声は珍しく不安そうでこちらを案じている色があった。
『君に我が家での生活を強いた僕が言える義理ではないが、僕は君自身にも涼との生活を楽しんでもらいたいと思っている』
「先生」
『だから無理をして頑張らなくても良いんだよ』
「……はい」
涼ちゃんと先生はよく似ていると思う。
いつも少し機嫌の悪そうな気持ちの読めない顔をしているけど、こちらを気遣ってくれているとわかる言葉はすごくあったかい。
心配してくれてありがとうございます、先生。
でももう少しだけ頑張らせてください。
自分に自信が持てるようになるまで。
「ではお先にお風呂いただきますね」
着替えをもってお風呂に向かう涼ちゃんを、笑顔で見送ったあと思わずため息をついた。
食事中、なるべく軽くに一緒にお風呂に入らないかと提案してみたが、あっさりと断られてしまった。
やっぱり、私なんかと一緒にお風呂なんて嫌だったのかな。
落ち込みそうな気持ちをぐっと堪える。
こうやってすぐに悪い方に考えるのが私の悪い癖だ。
先生にもよく指摘される。
落ち込んでいては何も変われない。
前向きに、少しずつ涼ちゃんと仲良くなればいいんだ。
さっきはクローバーの入浴剤がお気に入りだって言っていたし、お風呂は先生の言った通り好きみたい。
料理は何でもおいしいって言ってくれるから、なかなか好みが分からない。
部活にも入っていて庭の畑のお世話も楽しそうにしているから趣味は野菜作り、だと思う。
こうやって思い返すと少しずつ涼ちゃんのことを知れていることに安心した。
引っ越しのために少しお休みしていた翻訳の仕事のスケジュールを確認していると、玄関の鍵が開く音がした。
時計を見れば8時30分を少し過ぎたところ。
「ただいま」
先生が帰ってきた。
そのことにホッとするのは、涼ちゃんとの生活に少なからず緊張していた証で、先生の言う通り私は無理しているのかもしれない。
「お帰りなさい」
「涼は?」
「今お風呂に。一緒に入るの断られてしまいました」
「ふむ、あー…、涼も年頃の女の子だ。我々には分からない複雑な心境があるのだろう。安直な提案をしてすまなかった」
「いえ、それほど落ち込んでいませんから。大丈夫です」
私が涼ちゃんくらいの頃にはまだお母さんと一緒にお風呂に入っていた記憶があるけど。
あんなに落ち着いていなかったし涼ちゃんは大人びているものね。
「すぐにおかず暖めますね」
「ありがとう」
お鍋に火をかけたのと同時にリビングの扉が開いてタオルを頭に被せた涼ちゃんが入ってきた。
温まったせいか頬が赤く色づいていて、普段よりなんというか、ふにゃってしていて可愛い。
「父さん、お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
「お風呂先に頂きました。筑前煮、美味しかったですよ」
「そうか」
「では、お休みなさい」
え、もう寝るの?
初めての家族団欒だって言ってたのに。
…もしかして、私がいるから?
「もう寝るのか」
「明日も早いので」
「そうか」
先生が私をちらりと見る。
心配させてはいけないと思って曇った顔を隠すように少し俯く。
「風呂の後はちゃんと水分を取りなさい」
「はい」
先生が何かを伝えるように再び私を見た。
ごめんなさい先生、アイコンタクトは苦手なんです。
「あと歯磨きと翌日の準備と、トイレにもいって」
「父さん、私ももう小さな子供ではないんですから。大丈夫です」
「む、そうだな。では、髪を」
「髪もちゃんと乾かします」
涼ちゃんが先を言い、先生が追い詰められた面持ちでこちらを見る。
そして、絞り出すように出た言葉は、
「杏子くんが…」
「はい?」
「杏子くんは髪を乾かすのがうまい」
そんな、特別うまくないですよ。
でも場を持たせるための先生の気遣いだと分かったから、私も必死で言葉を繋いだ。
「わっ私がする、よ」
「貴女が私の髪を乾かすんですか?」
涼ちゃんは不思議そうに首を傾げ、その後何故か先生を見た。
あっ、そういえばご飯の準備の途中。
「僕は先に風呂に入る。乾かしてもらいなさい。杏子くん、すまないが頼んだよ」
「はっはい」
そのまま出ていった先生を見送り、数秒首を傾げたままだった涼ちゃんだったけど、何かを納得したように小さく頷き、私に向き合った。
「手間をかけさせて申し訳ないですが、お願いできますか?」
「うんっ」
ソファーに座る涼ちゃんの後ろに立ち、熱くないように気を付けながらドライヤーの風を当てる。
涼ちゃんの髪は見た目通りサラサラで指通りがすごくいい。
私は生まれつきくせ毛だから少し羨ましい。
涼ちゃんは黙り込んでおとなしく私の大してうまくない作業を受け入れていてくれた。
「あっあのね、涼ちゃん」
「はい」
「言いたい事があったら遠慮しないで言ってね。私はもっと涼ちゃんの事知りたいと思ってるよ。だから好きなものとか、嫌いなものとか、おいしいとか、おいしくないとか教えて。涼ちゃんのお母さんになるために頑張るから」
口下手な、簡単な言葉ばかりだけど、伝えたいことは言った。
初めて会った時にも同じようなことを言って、そして今口に出してみて再確認する。
私はこの大人びていて、何でも一人でできてしまう少女に頼ってもらえるお母さんになりたい。
「あの」
「うん?」
「すいません、熱いです」
「…えっ、あああっごめんね、火傷して、あっ氷、こおり、持ってくるね」
熱を当てすぎて真っ赤になってしまった耳。
あぁ、もう私は何でこんなに駄目なの。
とにかく冷やさないと。
慌てて冷蔵庫に向かおうとした私の手を涼ちゃんが握った。
「杏子さん」
はじめて、だった。
はじめて名前を呼んでくれた。
はじめて涼ちゃんから触れてくれた。
嬉しくなって慌てていたのも忘れて振り向いた私は、はじめて、涼ちゃんの笑顔を見た。
「私は貴女の事をお母さんとは思えません。きっとこの先、いつまでも。でもそれは貴女のせいではなく、私のどうしようもない、身勝手な感情のせいです」
その顔は確かに笑っているのに、いまにも泣きそうで。
「貴女がもう十分なほどに頑張っていること、ちゃんと分かっていますから」
どうして、
「だから無理をしないで、頑張らないでください。私は今のままでも貴女のこと、杏子さんのことが…」
どうしてそんなに、寂しそうに笑うの。
支えを失った腕が重力に従い力なく落ちた。
「すいません、明日も早いので先に寝ますね。おやすみなさい」
一礼して自室へと戻る涼ちゃんを見送った私は、お風呂から上がった先生に声をかけられるまで動けなかった。
ちなみに文中で杏子さんが初めて涼に触れられたと言っていますが嘘です。
寝起きに頭撫でられています。
壁にぶつけた衝撃で記憶が飛んでいるだけです。