第一話
「と、いうわけで。興奮して思わず電話した次第です」
昼休み、お弁当を食べながら我が親友に話すのは昨日の話。
父さんから紹介された園田杏子さんとの出会いから別れまで、約2分間の出来事を5倍に引き延ばして語った。
「涼さんの話を聞く限りでは、ただ地味で人見知りな方のようですが」
私の話を聞き終わった伊織ちゃんが呆れたように言う。
いやいや、そうは言いますがね。
人見知りなのはたぶん間違ってはいないけど、地味というのも頷けるけれど。
その言い方ではどこかネガティブイメージではないか。
どうにかして伊織ちゃんに杏子さんの良さを伝えたいが、それには私の持ち合わせた語彙では足りない。
なので、この一言に尽きる。
「とても可愛らしい人だった」
「ふーん、涼さんの趣味はよく分かりませんね。っとこんな感じですかね」
伊織ちゃんが今まで書き込んでいたスケッチブックを受け取る。
お、流石は美術部。
多少の差違はあるが、相変わらず美しい杏子さんがそこにいた。
「何も見ずに似顔絵を書くのは初めてですがどうでしょう?」
「…これ、貰っていい?」
「そんなに似ていましたか。どうぞお好きに使ってください」
「ありがとう」
使うって、手帳に入れて持ち歩くだけだけど。
破り取られたスケッチブックの一枚を丁寧に折り畳んでいれば、伊織ちゃんはどこか複雑そうな顔で私を見ていた。
「どうかした?」
「いえ、たった数分会っただけの人物の特徴をこれほど鮮明に思い出せるとは。相変わらず無駄に高スペックだなと思っていました」
「昨日会ってからずっと彼女の事を考えていたからね」
そもそも忘れる事ができない。
昨日の夜も反復して思い出していたら興奮してなかなか眠れなかった。
まぁ第一印象による多少の美化はされているだろうけど。
「今思い出しても、ドキドキするよ」
「そんな事では今後精神的にもたないのでは」
「…え?」
「え、確か今週末に越して来るんですよね?」
確かに父さんはそう言っていた。
引越しを手伝ってあげなさい、とも。
という事は週末から、同じ屋根の下に杏子さんが毎日いる。
…堪えられるだろうか、色々と。
いや、本気で心配になってきた。
「しかし素敵な方が新しいお母様で良かったですね」
「あ、うん。そうだね」
「何か心配事でも?」
さらりと自然に返事をしたつもりだったけれど、伊織ちゃんはそう感じてくれなかったようで。
こういう時はだいたい言い負けるから、大人しく思っている事を打ち明ける。
「心配事というか…」
再婚自体は別に反対ではないし良いと思う。
母さんは私が物心つく前に死んだから、今までずっと父さんは一人で私を育ててくれた。
そんな父さんのこれからの人生に私が口を出す権利なんかないし、私なんか気にせず自由に生きてほしい。再婚しようが、旅に出ようが、出家しようが好きにすればいい。
でも、それとこれとは話が別だ。
「だって母親に恋心を抱くのは駄目だと思うんだ、普通に考えて」
「意外とまともで一般的な倫理観を持っていたんですね、意外に」
二度言ってしまう程意外だったらしい。
私は普段そんなに非常識なのかな。
まあ若干の自覚はありますけどね。
「一つ確認したい事があります」
「なに?」
「涼さんの件の女性に対する気持ちは本当に恋心なんでしょうか?」
「…………」
伊織ちゃんに真剣な顔してそう言われると簡単には頷けない。
私はこの浮わついた気持ちを自然に恋心と呼んだけど、普通はおかしいんだよね。
「長い付き合いですが涼さんが積極的に自分の好みの話をするなんて珍しい事です。ましてやその口から恋と言う言葉を初めて聞きました」
「そういえばそうだね。正直、私にもよく分からないんだ。どうしてたった数分顔を合わせただけの彼女の事が、こんなに気になるのか。これでも、昨日一人で冷静になろうとゆっくり考えたんだよ」
言い訳のようにこぼれる私の言葉を伊織ちゃんは無言で静かに聞いていてくれている。
だから私も本心を言える。
「それでも、やっぱり、好きなんだ。杏子さんのことをもっとよく知りたいって思うんだ。この気持ちは間違ったものなのかな?」
私の気持ちをまっすぐ伊織ちゃんにぶつけた。
それを受け止めた伊織ちゃんの表情はいつもの優しいものではなく、眉間にシワを寄せ、難しい顔で何かを考え始めてしまった。
そうさせているのが私だと思うと少し申し訳ないと思うと同時に、こんなにも私の事を真剣に考えてくれる親友がいてくれる事に安心した。
たっぷり一分考えて伊織ちゃんの中でも何らかの結論が出たようで、短く息を吐いた。
それは諦めのようであり、安堵のため息のようにも聞こえた。
「…まぁ、初めての恋であればそんなものでしょう。好きという感情に間違いなどありませんよ」
まるで小学生並みの感情ですが、と付け足される。
でも伊織ちゃんは私のこの感情を否定せず恋と呼んでくれた。
だから私も自信を持って言おう。
私は、杏子さんに、恋をした。
また浮かれて頬が緩み始めた私に、伊織ちゃんが鋭く長い釘を刺す。
「ただし、事の進展は期待しない方がいいですよ。親子である以前に年齢や性別、壁はたくさんあります」
「うん、それはよく理解してるよ。だから私は伊織ちゃんにしか話さない」
「信頼されていると喜んでいいんですかね。まぁ私でよければ話くらいいつでも聞きますよ」
「ありがとう」
言質を取ったので今後は遠慮なく話しをさせてもらおう。
きっと一緒に住むようになれば話題には事欠けなくなるだろうし、相談したいこともたくさん出来るだろう。
今一番の相談はセカンドコンタクトをどう成功させるかだ。
頼りにしてます、伊織ちゃん。
さてさて、今日は週末、例の土曜日。
杏子さんが引っ越してくる日。
恐れていた日が逃げも隠れもせずやってきた。
大丈夫、伊織ちゃんと散々シミュレーションしたじゃないか。
逃げない、取り乱さない、暴走しない。
冷静に、クールにいこう。
よし、大丈夫だ。
とあるマンションの一室の前で5分ほど固まっていた私は、もう一度だけ深呼吸をして呼び鈴を押した。
すぐに中から小さく返事が聞こえたので名乗れば、ぱたぱたと可愛い足音が聞こえた。
そんなに急がなくても逃げませんよ。
本当は今すぐ逃げたいけど。
がちゃりと鍵の開く音、そしてこちら側に開いた扉と共に運ばれてきた空気はふわりといい香りがした。
「おはようごさいます」
「お、おはよう。今日はわざわざありがとう」
「いえ、ちょうど手が空いていましたから。用意は…もう出来ているんですね。では早速始めましょう」
杏子さんの後ろに小さな段ボールがいくつか並んでいた。
今更だけど、女性二人だけで引越し作業というのはかなり難易度が高いのではないだろうか。
それもこれも神経質な父が引越し業者という名の他人を家に上げたがらなかったせいだ。
まあ、これくらいの荷物の大きさなら私一人でも十分運べるだろう。
「私が玄関から下まで運ぶので、貴女はここまで荷物を運んでください」
「え、でもそれだと涼ちゃんが大変じゃ…」
「靴を脱ぐ手間を考えればこちらの方が効率がいいですから。台車も用意してあるので大丈夫です」
「わかった。でも疲れたら言ってね。交代するから」
「ありがとうございます。では始めましょう。割れ物などあればその都度指示してください」
さらりと名前で呼ばれて飛び上がらなかった自分を褒めてあげたい。
今の私は気分上々、元気百倍。さあ働きますよ!!
と、意気込んだものの、荷物の運搬は十分程度で終わった。
別に張りきった私が人間離れした動きを見せた訳ではなく単純に荷物が少なかったからだ。
時折重めの荷物があったが、それでも少し頑張れば問題なく運べるほど。
もしかしたら引っ越しに際していくらか持ち物を処分したのかもしれない。
拍子抜けした私は思わず、これだけですか?と聞いてしまった。
これだけだよ、って不思議そうに小首を傾げる杏子さんは大変可愛かったです。
ちなみに運搬車は父さんの知人に借りたワゴン。
ここまで私を乗せて来てくれたその知人は、女性の部屋に上がり引越しを手伝うのはなんだか気まずい、照れるとの事で、キーだけ置いてそそくさと電車で帰っていった。
車は明日までに返せばいいそうだ。
そしてここから我が家への運転は杏子さんがする。
運転席に乗り込みハンドルを握った杏子さんの横顔は使命感に燃えているのか、少し凛々しく見えた。
あまりじろじろと眺めるのも失礼なのでその横顔を頭に焼き付けて窓の外を眺める。
なんというか同じ空気を吸っているのが幸せすぎて、まだ出発してないけど息苦しい。
「窓、開けていいですか?」
「あ、うん、どうぞ」
会話、終了。
そして、出発。
杏子さんの運転は安定していて、すごく落ち着いていた。
時折こちらを気にしているような気配を感じたが、話しかけられることはない。
私から話すこともなく、それから数十分、無言のまま我が家に着くまでずっと流れる景色を見ていた。
駐車もスムーズに終わり、すぐに助手席から降りた私は静かに深呼吸をする。
地獄のような幸せな時間は終わった。
ここからはホームグラウンドだからそんなに緊張しないはずだ。
玄関の鍵を開け、扉を開け放つ。
「ここが我が家です。どうぞ」
「お邪魔します」
あ、かすかな違和感。
「あの」
「なっ何かな?」
「これから貴女もここに住むのですから、ただいまと言いませんか?」
「…いいの?」
それって許可が必要なことですか?
よく分からないけど良くないわけがないので、取りあえず頷く。
杏子さんは少しためらった後、嬉しそうに我が家に一歩踏み入れた。
「ただいま」
「はい、お帰りなさい」
なんだろう、今一瞬心臓がキュンとした。
新しく杏子さんの部屋となる場所に二人で荷物を運び入れ、家の中を簡単に説明して引越しは一段落。
荷物の整理は後々一人でするらしいのでリビングで少し一服をする。
この後は足りない雑貨や夕食の買い出しに行く予定。
「何か家の事で聞きたい事はありますか。遠慮なくどうぞ」
紅茶に砂糖と温めたミルクを入れ、かき混ぜながら問う。
杏子さんは何も入れていないようだからストレートで飲むようだ。
一口、二口とカップに口をつけたところでようやく杏子さんが口を開く。
「涼ちゃんは今何歳?」
あ、私に関する質問ですか。
別にいいですけど、父さんは私についてなにも説明していなかったんでしょうか。
しなかったんでしょうね、必要最低限の事しか話さない人ですから。
「17歳の高校2年生です。家から一番近い私立高校に通っています」
「部活動とかは?」
「農業部に属しています」
「……のうぎょうぶ?」
「はい。農業をする部活です」
のうぎょう…、と小さく呟くのが聞こえた。
まぁ気になりますよね。
でも説明し始めると長くなるから、詳しくはまた今度。
「ですから、いつも帰るのは6時を過ぎます。それから準備をするので夕飯は7時くらいからですね」
「ご飯は涼ちゃんが作ってるの?」
「はい、何か食べられないものがあれば聞いておきますが」
「大丈夫。なんでも食べられるよ」
それは素晴らしいことですね。
高感度アップです。
好き嫌いが多い人はいちいち気を遣うから苦手だ。
「あの、涼ちゃん」
「はい」
「…えっと」
なんでしょう、この言ってもいいのかなって沈黙は。
遠慮せず言ってもいいんですよ。
急かさずに杏子さんが話しやすいタイミングをゆっくり待つ。
「…これからは私も作るよ」
「ご飯をですか?」
「あまり得意ではないけど、一緒に住むから、私も頑張りたい」
家族になる上での役割分担的なものでしょうか。
そんなに気を遣ってもらわなくてもいいとは思うけど、杏子さんが頑張るというのだから反対する理由もない。
部活動の都合によっては帰宅が遅くなることもあるから正直助かります。
でも、ひとつ気がかりなことが。
「貴女の今後の予定は?」
「よてい?」
「お仕事は続けられるんですよね。でしたら父さんと一緒で、不規則な帰宅時間になるかと思って」
私もよく知らないが、父さんは何かの研究を熱心にしているらしく家にはなかなか帰らない。
さらに、帰ってきても生活時間が会わないため、もうしばらく顔を合わせてゆっくりと話をできていない。
だから今回の事もこんなに突然の話になった。
もし同じ研究室で働く杏子さんもそうならば、思っていたほど緊張する必要はないな。
そう安心しかけたけど、杏子さんの返事は予想の斜め上を通りすぎた。
「あ、えっと、これからは在宅で翻訳の仕事をしようと思っていて」
「翻訳ですか」
「うん。海外の論文や専門書とかを日本語に訳したり、逆に日本語の論文を外国語に直したりする仕事。前から研究の合間にやってたんだけど、この機会に翻訳の方に集中しようと思って」
そんな仕事もあるのですね。
聡明そうな方だと思っていましたがそれほどまでとは。
語学力だけでなく専門的な知識が必要な仕事ではないですか。
「すごいですね」
「そっそんな、すごくなんかないよ。私に出来るのはこんな事くらいだし」
いやいや、十分凄いですよ。
しかしそうですか、在宅ですか。
という事は家にいるんですね。
おはようからおやすみまで、一つ屋根の下なんですね。
なにそれ緊張する。
「だからこれからは殆ど家にいる事になるんだけど、もし涼ちゃんが嫌だったらどこか」
「嫌じゃないです」
即答した。
むしろいてください、お願いします。
今後の杏子さんの幸せな日常生活のためならば、緊張なんてつまらないもの駆逐してみせます。
気を抜けばにやけそうになる情けない顔を必死で引き締めていれば、何故か杏子さんが驚いたように私を見ていた。
そして次の瞬間、嬉しそうにふにゃりと笑った。
「…ありがとう」
あ、目があった。
実は驚くべき事に、今日初めてのアイコンタクトです。
そして、一発ノックアウトです。
「……買い物、行きましょうか。少し用意をするので玄関で待っていてください。すぐに行きます」
「うん」
臆病者の私はまたしても逃げ出した。
そしてこの後もワンパターン。
「再起不能です。伊織ちゃん、助けてください」
『寝れば治るんじゃないですかね』
「誰と寝ろと!?」
『…わぁ、かなり重症ですね』
お引越し編でした。
次から日常編です。