プロローグ
細く長く息を吐き、手元の本から顔を上げた。
その瞬間、静かなクラシック音楽とコーヒーの香ばしい匂いが意識を現実へと引き戻した。
時計を一目見て、飲み頃の温度になった紅茶の上澄みをすする。
人を待っている時というのは、何故こうも時が過ぎるのが遅いのか。
約束の時間はとうに過ぎているが、幸いにして今私は機嫌が良い。
思えば、今日は朝から良い事が続いた。
朝食のゆで卵が良い加減で茹で上がり、家を出れば三軒隣の孝之助の散歩に出会い、立ち寄った書店では好きな作家の新刊を見つけ、指定された待ち合わせ場所に着いてみればとても雰囲気の良い喫茶店だった。
そして今、窓の外は私の好きな曇天。
この曖昧な空の色と、押し潰さんとのしかかってくる雲の重さが実に好ましい。
故に、今私は機嫌が良い。
だから、もう少しだけ待ちますよ。
そう自己完結し、再び手元の文庫本を開こうとした時、来客を知らせるベルの重い音が鳴った。
入り口がよく見えるカウンターの席に座っていた私は、待ち人が来た事を知る。
本を鞄に仕舞い、誰かを探すように視線をさまよわせるその人に声をかけた。
「父さん」
「あぁ、そこか。すまない、遅れた」
「父さんが忙しいのは承知していますから。それで、用というのは?」
「お前に紹介したい人がいる」
横にずれて、父さんの後ろに居た女性が姿を見せた。
身長は私よりも少し低いくらいで肩にかかるくらいの軽く癖のある真っ黒の髪に色白の肌。
前髪が少し長いせいで隠れてはいるが、見える範囲だけでも顔立ちが整っているのが分かる。
私の感性では美しいと素直に思えるご婦人だ。
しかし残念な事に人見知りなのか、伏し目がちでなかなか目が合わない。
「紹介しよう、こちらは園田杏子さんだ」
「…園田杏子です。笹原先生の研究室でお世話になっています」
「これはご丁寧にありがとうございます。初めまして娘の笹原涼です」
そう言い頭を下げてからようやく私は理解した。
もう随分前に妻を亡くした父がこう改まって娘に紹介する女性とは…つまりそういう事なのだろう。
「彼女とは少し前からお付き合いしていて来月には籍をいれようと思っている。今週末からは一緒に家に住む予定だから手伝ってあげなさい」
それはまた急な話ですね。娘の私にも相談なしですか、と苦笑いするのが娘として正しい対応だろうか。
それとも祝福の言葉を贈る?
脳内では問題なくいつも通りの思考が進んでいるのに、口からは何の言葉も出なかった。
しばらくしてようやく絞り出した言葉はなんとも情けない退却の宣言。
「父さんすいません、この後少し用があるので私はこれで」
「あぁ、急に呼び出して悪かった」
「いえ、失礼します」
軽く会釈し二人の横を通り抜けようとしたが袖を軽く引かれた気がして立ち止まる。
振り返れば思った通り彼女で。
「あのっ」
「はい」
口が開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。
…引き止めておいて、何も言わないのですか。
同じように何も言わない私が怒っているとでも思ったのか、小さくなってしまった彼女は緊張した面持ちで決心をつけるように小さく息を吸う。
そして勢いよく顔を上げた。
「わたし、私は、頑張って貴女のお母さんになるから」
あ、初めて目があった。
「お好きにどうぞ」
感情を出さないように言えば、予想外に冷たい声になってしまった。
繊細そうな方だ、傷つけてしまったのではないだろうか。
しかし、これ以上この場にいては抑え込むべき感情が暴れだしそうで、私はそのまま彼女の手を振り払い店を出た。
お支払いは父さんが何とかしてくれるはず。
一時間の遅刻の代償と思えば安い方かと。
店が完全に見えなくなった頃、人混みを避け全力で走り出した。
息はもう既に切れていた。
―認めない
―認められない
―認めたくない
―あんなのが
―あんな人が
―私のお母さんになるなんて
―あんなに
―あんなに可愛い人が!
―お母さんになるなんて!!
「もしもし、伊織ちゃんですか。私は天国を見つけました」
『…涼さん、現実へと帰ってきてください』
最後まで読んでいただきありがとうございました。
誤字脱字等あればご報告頂ければ幸いです。
今後も趣味全開で参りますのでよろしくお願いします。