遭遇
外に出た俺は水場を目指して歩を進めていく。住居の周辺は鬱蒼と茂る森林であり、この森の中ではなぜか方位磁石も効かないのだが、ここは俺にとって庭のようなものなので道に迷う心配はない。
しばらく道とも言えないような道を進んでいくと目的地である水場が見えた。そこは道中に生い茂っていた樹木のない拓けた場所にあった。明度の高い水が滾々と湧き出る泉。この泉に関してはここに住むようになった当初から随分と世話になっている。
人が生きる上で欠かすことができないものが水だ。俺たちがここに居を構える上で最も重要だったのは水場の確保であり、その条件としてこの泉が合致したからこそここの近くに住居を建てたのだ。
そこで誰もが浮かべる疑問がなぜもっと近くに建てなかったのかということだろう。その理由は単純かつ明瞭であり、とても厄介なものだ。
「おっと」
あるものに気付いて木の陰に身を潜める。そのあるものとは俺の一・五倍は大きな身体を持った猪だ。これが先に述べた住居を泉の近くに建てなかった理由であり、厄介なことの代表格だ。
この猪の名前は『ウォーリアボア』
普通の猪の数倍の体格を誇り、毛皮は鉄にも匹敵するくらいに硬い。また、とても好戦的であり、他の生物を見かけると問答無用で襲い掛かってくるのだが、その突進は大岩にすら穴を穿つので洒落にならない。そのウォーリアボアが泉の水を飲んでいた。
俺たちの住居をここに建てなかったのは何もこのウォーリアボアの生息地だからというわけではない。しかし、理由には大いに関係がある。
そもそもウォーリアボアは生まれたその瞬間からウォーリアボアだったわけではない。生まれたばかりのウォーリアボアはかわいらしい赤ん坊の猪だったはずだ。
その成長の過程である物質を大量に摂取してしまったがために今の姿になってしまったのだ。その物質とは…
『魔素』
生物にとって毒とも言えるこの物質を取り込んだことで猪は凶暴さを増し、より攻撃的な姿へと変貌したのだ。
この泉の水は通常よりも含まれる魔素の量が多い。故にそれを摂取した動物が変質してしまうことがよくある。したがってこの泉周辺は危険種の出現地帯であり、家を建てようものなら寝静まった頃に泉の水で変質してしまった危険種にせっかく造った住居が破壊されかねない。だから、泉とはほどほどに近く、危険種の縄張りからも外れている場所に住居を建てたというわけだ。この変質してしまった動物のことを『危険種』と呼び、発見次第討伐してしまうことが望ましいとされている。なぜなら、危険種は生殖機能を持っていないために同種と交配して増えるということはないのだが、奴らは絶えず空気中に濃い魔素を放出している。放置すれば新たに危険種と変質してしまう個体が出てくるためだ。
もちろん魔素は人間にも影響のある物質だ。しかし、人間から危険種に変質したという例はなく、大量に摂取すると体調が悪くなったり発狂するに留まる。これだけでも問題なのだが人から危険種に変質してしまうよりはマシだろう。
「さて、どうしようか」
目の前の問題にどう対処するべきか思考を巡らせる。危険種は新たな危険種を生み出す。放置は論外。しかし、空気の悪くなった家から逃げるように出てきてしまったために武器などは持ってきていない。素手で倒せないこともないが、確実に無傷ではすまないので兄貴に言い訳するのに困る。もう、『愛のお説教』という名の体罰は勘弁願いたい。ウォーリアボア討伐よりも怪我が増えることは必至だ。拳で身体を痛めつけながら言葉で精神的にも削ってくる。反撃もできないものだから余計つらい。
ならば選択肢はひとつ。
戦略的撤退の後、武器を持って帰り討伐する。一分の隙もない作戦だ。懸念は戻ってきたときにウォーリアボアがすでに泉を後にしていたときだが、そのときは兄貴に助力を頼んでの山狩りならぬ森狩りだ。まあ、今までに何度かこういうことがあったので問題はないだろう。
ウォーリアボアに気付かれないように泉を後にしようとする。そのとき、タイミングの悪いことに丁度水分補給を終えたウォーリアボアがこちらに顔を向けてしまった。
ウォーリアボアと俺の視線が絡み合う。
「……やあ」
片手を挙げて友好的に挨拶してみるが、効果は薄い。というかまったくの無駄だ。俺はウォーリアボアに背を向け一目散に走り出した。ちらりと背後に目を向けると俺を認識したウォーリアボアは初動こそ遅れはしたが確実に俺に向けて一直線にもの凄いスピードで迫ってきていた。
このまま追いかけっこをしても勝ち目なんてない。結果は俺の負け、それは最初からわかっている。俺は何も考えなしに背を向けて走り出したわけではない。そりゃ、本能的に動いたこともないわけじゃないが……。しかし策はある。というかウォーリアボアの討伐方法は三つしか知らない。一つは気付かれる前に滅多打ち。もう一つは現状は不可能。ならばあと一つしかない。
チラチラと背後を確認してウォーリアボアとの距離を測る。そうしながら前方にも注意を向けつつ、目標に向かってひた走る。そして、頃合いを見て俺は横に跳ぶ。
それまでの勢いもあり地面をごろごろと転がる。転がっている最中に耳に鈍い衝突音と何かが折れる音が響く。起き上がって、状況を確認してみるとそこには大木に勢い良く衝突して気を失っているウォーリアボアの姿があった。何をどうしてそうなったのかはわからないが見事にひっくり返って無防備な腹部を晒すその姿はあまりに滑稽だ。しかし、衝突した木が根元から折れていることからその突進の威力が窺える。
俺はそこらにある木の枝の中でも先の尖った鋭い物を選び、気絶するウォーリアボアに近づくと角度を調整しつつ勢い良くその眼球に突き刺した。例え危険種となっても大抵の生物は目が弱点だ。ウォーリアボアもそれは変わらない。だが、ただ目を潰すだけでは致命傷には至らない。ウォーリアボアは俺の与えた痛みによって意識を取り戻す。そしてそのまま痛みと怒りに身体を振るわせながら起き上がろうとするのだが、それを許すほど優しくない俺は枝を容赦なく奴の脳に届くまで押し込む。するとびくりと一度痙攣してウォーリアボアは動きを止め、そのまま黒い液体になったかと思うとそれは沸騰するかのように泡立ち、やがて黒い液体など最初からなかったかのように消えてしまった。あとに残ったのは青い小指の爪ほどの大きさの青い玉。俺はそれを拾い上げると無造作にジャケットの胸ポケットに入れた。
変質した危険種は死に至ると骨も残さずに消えてしまう。なぜかと聞かれるとそういうものだからとしか言いようがない。学者とか頭のいい連中ならば具体的な説明を出来るかもしれないが、生憎と俺はそこまで頭が言い訳ではない。
さて、俺がウォーリアボアを討伐した方法は単純に障害物に当てて気絶させたところを仕留めるというものだ。ウォーリアボアは緩やかにカーブするくらいならば大して意に返さないが、急激な方向転換にはついてこれない。その習性を利用するのだ。簡単なようでこれが意外と難しい。大前提として追いつかれないこと、そして障害となりうるものが近くにあることが挙げられる。前者は実行者の度胸と脚力次第。後者は辺りは生い茂る木々が売るほどあるので問題ない。しかし、実はもう一つ重要な要素がある。それは逃げすぎないことだ。ウォーリアボアの突進は大岩をも穿つ。これは嘘ではない。そんな突進の前では樹木程度の障害は無きにも等しい。ただし、それも最高速度の突進の場合だ。つまり逃げすぎないというのは、ウォーリアボアをスピードに乗らせないということだ。そうすれば突進の威力は目に見えて下がり、先ほどのような結果を生む。あとは眼球のような比較的柔らかい部位から脳があるだろう場所に向けてブスリとやれば一件落着である。
「それにしても……」
自分の姿を見てみる。横っ飛びのせいで服は土に汚れ、あちこち擦れている。両手も同様に汚れ、右手に出来ていしまった擦り傷からは血が滲んでいる。汚れはどうとでもなるが傷は隠しようもない。何より木が倒れる豪快な音が響いたのだ。これはもうチェックメイトである。
「愛のお説教確定か……」
ため息を一つ吐いて、俺は水を汲むために再度泉へと向かうのだった。