朝
カーテン越しに注ぐ陽光が閉じた目蓋に刺激を与え、俺は意識を覚醒させる。
今日も憂鬱な一日の始まりのようだ。
目を開けると最初はぼやけていた視界も次第にはっきりとした輪郭を取り戻し、目に映る景色が色を帯びていく。
そして耳にまな板と包丁が打ち合わされることでトントンと小気味の良いリズムを刻む音が聞こえ、それを意識すると同時にいい匂いが部屋へと漂ってくる。
「ふあ~」
俺はこみ上げてくるあくびをそのまま吐き出し、起き上がってひとつ背伸びをすると部屋の中を見回す。
部屋にはテーブルと椅子が一脚、そしてベッドとクローゼットしか置いていない。はっきりと言ってしまえば殺風景であり、また大して広くもない。だが、男の部屋としてはこれで十分だ。
そのテーブルの上にはいつのまに置いたのかわからないが昨夜眠るときにはなかった着替えがおいてあった。白いTシャツに黒のパンツ、そして赤いレザージャッケットとそれと同色のレザーパンツ。まあ、用意してもらってなんなんだが派手じゃないだろうか? そもそも動きにくいんだよな…… なんて疑問があったのも最初だけだ。人間はやはり慣れる生き物で、こんな格好をさせられるようになってから五年も経つとどうでも良くなってくる。 今となっては何の疑問も持たずに着替えてしまう。ちなみにこの格好は用意した奴曰く「完全な趣味」らしい。
唯一まだ身に着けていないジャケットを持って部屋の外に出ると、先ほどまではうっすらと鼻に届く程度だった料理の匂いが濃くなる。それもそのはずで、俺の部屋の外はダイニングルームであり、キッチンは目と鼻の先だ。
キッチンには食材を切る作業を終え、鼻歌を口ずさみながら機嫌よくフライパンを振るう人物がいた。
純白の布地にフリルのついた可愛らしいエプロンを着用した少しくせっ毛の髪の長身の人物。そして注目すべきはその人物がエプロン以外の布地を身にまとっていないことだ。そう、いわゆる裸エプロンである。意識したわけではないが、どうしてもフリフリと振られる臀部に目が行ってしまう。
意識しないとどうしても視界に収まってしまうので、意識してそこから目を逸らすとその人物へと声をかける。
「おはよう」
俺の声に気付くとその人物はフライパンから視線を俺へと移し、朗らかな笑みをその顔に浮かべた。
「あら、やっと起きたのね。今日はいつもよりお寝坊さんじゃない?」
「昨日は寝る前に少し本を読もうと思ったら熱中しちゃったんだよ」
「あら、わかるわ~。でも、あんまり夜更かしはだめよ?」
この人にとったら十九歳になった俺でさえも未だにガキ扱いだ。それはそうと……
「兄貴、その格好気持ち悪いからやめろって」
「お姉さまとお呼びっ!!」
あえて描写は避けたが、この人はれっきとした男だ。ついてる物もついてる。
「へいへい、お姉さまお姉さまっと。つか時々兄貴の痔に犯されたやんごとない場所と小汚いソーセージが目に入ってマジでテンション下がるんだけど?」
「だから兄貴と呼ばないでったら。それにしてもこの子ったら、どこでそんな下品な言葉を覚えてくるのかしら」
まったくもう、と言いながら調理の手を再開する兄貴。ほぼ毎朝繰り返されるこの会話は習慣のようなもので、時々ある普通の格好の時でさえ兄貴にあなたは気持ち悪いんだという旨の言葉をぶつけてやらないと調子が出ない。まあ、裸エプロンじゃない日なんてそうあることじゃないが……
「ライル、さっさと顔洗ってお皿の準備しちゃって」
「はいよ」
兄貴に促される形でキッチンに入り、水がめから適量の水を掬い取って洗顔する。さっぱりして気持ちがいい。そろそろ水がめの中も空になりそうだ。今日辺り川に汲みに行かないといけないな。
「またそんな不精して……手のかかる子ねぇ」
そう呟きながら近づいて来た兄貴はフリルのエプロンを捲くり上げそのまま俺の顔をぬぐう。なんとも鳥肌が立つような行為だ。
だがそれが兄貴クオリティ。素の言動の半分は気持ち悪い。それらにいちいち反応すると更に気持ち悪い言動の呼び水になることから大抵のことはスルーするのが俺のルールだ。
兄貴と俺の間に血の繋がりはない。
兄貴と俺の関係を簡潔に表すなら兄貴は俺の父親の友人の子供ということになる。つまりは他人である。それがとある理由から俺は兄貴と二人で実に十二年もの歳月を共に過ごすことになった。
その理由とは単純に一緒に組んで仕事を行っていた二人の父親が仕事中の事故でこの世からいなくなってしまったということに起因する。当時まだ十にもなってないガキの俺には他に身寄りがなく、孤児院にでも行くしかなかったのだが、そこを兄貴が引き取って育ててくれたというわけだ。
なぜ、俺を引き取ったのかと聞くと兄貴は冗談めかして「一度、男の子を自分好みに育ててみたかったの、ウフッ」と言うが、本当のところはわからない。いや、マジで冗談だよなと身の危険を感じないこともないが、基本良い人なので、きっと聞いたら俺が泣いてしまうような理由があるはずだ。
性格は先に述べたとおり基本的に良い人ではあるが身体は男、心は女な人物なので扱いが時折面倒だ。付いてるものは付いてるくせに女扱いしないとうるさい。兄貴と呼べばすぐにお姉さまと呼べとの訂正が入るのはもちろん、クラウスという親からもらった立派な名前があるにも関わらず自分の名前はクラリスだとのたまう。
それなら付いてるものを取ってしまえと兄貴に言う者もいるのだが、ある理由から不可能であるためどうしようもない。
まあ、例えどんなであろうと俺は兄貴が嫌いではなく、本当の兄弟のように思っているため問題はない。世間から疎まれる存在であろうとも俺だけはそばに居てやりたい。
「さ、朝食にしましょうか」
「ああ」
兄貴の言葉に頷いて食卓へとつく。そして兄貴がテーブルの上へと料理を並べていく。料理といっても朝に手の込んだメニューが出てくるわけもなく、トーストに野菜のスープ、オムレツにサラダとオーソドックスなものが並ぶ。
二人分の食事を並べた兄貴が席に座ったのを確認して料理を口に運んでいく。食事の時は無駄話をしないというのが我が家の方針だ。だから二人して黙々と食事を進めていく。
「そういえば」
不意に兄貴が口を開く。食事中には無駄話をしない我が家だがなにもいつも無言で食事を終えるわけではない。ようは無駄な話でなければいいのだ。つまり今から兄貴が話すのは聞く必要がある話というわけだ。
「また帝国がどこかの国を滅ぼして領土を広げたみたいよ」
「ふーん」
帝国というのは正式名称カナトル帝国という大陸で最大の領土と軍事力を持った国だ。しかし、大陸で最大ではあっても国の歴史は浅く、建国からわずか三十年しか経っていない。それを成したのは帝国の持つ強大な軍事力。正確に言えば別なのだが、今は割愛する。
その帝国がまた国を一つ潰した。俺が同じような話を聞くのはこれで五度目。
「相変わらずすごいな」
「そうね、面白くないことに」
兄貴が若干不機嫌そうに呟く。
それきり話は終わり、食卓にはまた食事の音だけが響く。そのまますべて平らげて立ち上がる。ちなみに兄貴はどこで聞いたんだか、食事の際は一口ごとに三十回噛むと美容にいいという話を信じて実践しているため未だに俺の半分くらいしか皿の上の料理は減っていない。
「水汲みに行ってくる」
簡潔にそう告げるとジャケットを羽織り、桶を持って外に向かう。帝国の話で多少雰囲気の悪くなった食卓から逃げるように……
「ついでにスイーツでも拾ってきてね」
「やだ」
背中にかけられた言葉を短く拒否し、外に出た。
家の外に出ると目に映るのは、木、木、木。木以外のものはというと草くらい。
俺たちの家があるのはとある国の奥地にある森の中。ご近所さんなんて存在しない。一番近い人の住む地まで直線距離でも三日は歩く。だが水場は意外と近く、ここからなら好きな歌を二曲も口ずさみながら歩けば着く。立地条件はそう悪くはない。
「さてと、行くか」
桶を持って水場へと向かう。気が向いたら適当な果物でも摘んで帰ろうか、そんなことを頭の中に思い描きながら――