第二楽章 「GR」 (3)
「ただいまぁ」
二階の楽器店に向かって、辰悦は叫んだ。
しばらくして、暗い階段の上から声が戻ってくる。
「おう、お帰り、辰悦。」
辰悦は階段の横を通り、右手にある小さめの扉を開いた。部屋に入り、楽器をベッドの上に置き、服を着替え、すぐに階段を駆け上がっていく。最上段の扉を開くと、光とともに、黄色い夕日が差し込む穏やかな店の内部が目前に現れた。
「今日は遅かったな。」星悦はクラリネットのキーの動きを確かめながら、優しく言った。「リューやんもいよいよ本腰入れてきたのかな。」
そう言いつつ、腰掛けているクラリネットの持ち主に、「ああ、こいつ、おっさんの子供の辰悦。県新でな、ペットを吹いとんねん。」と紹介する。同い年くらいの学生に、辰悦は愛想よく挨拶をした。
店は今日もジャズで満たされていた。星悦のお気に入りのクラリネットがソロを始めると、星悦は修理をする手を止め、顔中に笑みをほころばせる。今日は一段と笑みが明るい。ただそれは、毎日星悦に接している辰悦からすれば、やや型にはまった、辞書に載っている「笑み」の定義そのままを再現したような、笑いのように感じた。夕陽が少し弱くなる。
ジャズの中に、不意に違う調子の音楽が割り込む。星悦が顔をあげて。
「電話だ。取って、辰悦。」
「うん。」
辰悦は、壁側の台に置かれた電話のもとへ駆け寄る。しかし、着信音は十秒もしないうちに切れてしまった。
「あれ・・」
辰悦は不思議そうに液晶画面を覗き込む。星悦の手も止まる。
「およっ、もう切れたか?辰悦、ちょっと番号、見てみて。」
星悦はジャズの中からそう叫んだ。
しかし、辰悦は前かがみになったまま、動かない。
ん?
ちょっとジャズの音がうるさいかな?
「辰悦。こっちから電話し直してくれるか?辰悦?」
やっと辰悦は振り向く。
「あ―――変な業者からの電話みたいだから、かけ直すのやめとくね。」
平然として言う。いや、平然としすぎている。
「あ、そう・・・?ありがとう。」
「父さん」
「ん」
「僕、ちょっとペットの練習してもいい?試験週間に入る前に、確認しておきたいところがあるから・・・」
「――おお、ええよ。やっておいで。」
辰悦はニコリと笑い、階段へつながる扉の奥へ消えた。その所作が妙に速い。星悦はクラリネットを机の脇へ置き、電話の着信画面を覗き込んだ。液晶画面には、星悦が今朝見た電話番号がくっきりと表示されていた。
「――どうしたんや。今日は店にいるんじゃなかったんか?」
受話器の声はやや苛立ちを帯びている。
「いや、おったんやけどな、ちょっと作業中で、手が離せへんかったんや。んで、今度は何や、カッツン?」
一色の後ろで誰かの話す声が聞こえた。
「――どないしたん?」
「あぁいやいや、何でも。実は今、新天まで来ているんやけど、ちょっとお前の店まで行ってもええか?言ってもまだ四時やし、遅すぎるっていうことはないやろ。」
話し声と物音で、一色の声は途切れ途切れにしか聞こえない。
「・・うーん、ああ、ええけど?」
生返事。
「店がイヤなら、どこかで落ち合う、ってのもいいぜ。要はお前に会いたいだけだからな。――もう少し丁寧に言えば、お前に会わせたいやつがいるだけだから。」
「――僕に?」
列車の到着アナウンスが一色の声を遮った。確かに一色は新天駅にいるようだった。
「僕に会わせたいやつって?」星悦はもう一度繰り返す。
ようやく一色の声が受話器に戻った。
「――それは会ってからのお楽しみ。んじゃあ、市役所会館の近くの店にしよう。昔よく俺たちで言ったところのさ。んじゃな。」
雑踏と雑音が消え、単調な響きの電子音だけが残る。一方的に電話を切られたようだ。
「―――」
星悦は静かに受話器を下ろす。そして、何も意味を含ませない溜息をついた。
思い出したようにジャズが耳に入ってくる。激しいはずのリズムが、今は妙に穏やかに聞こえた。
「何かあったんですか?」
クラリネットの持ち主は大きな目で星悦を見ていた。
「ん――いやいや、大丈夫。もうすぐ終わるから、もうちょっとそこで腰掛けておいてや。」
持ち場に戻る。クラリネットを握りかけたが、一息つくこともなく机上に戻し、後ろでマウスピースを覗き込んでいる中村さんに声をかけた。
「中ちゃん、ちょっと続きやっといてくれる?」
「あ、はい。ええですけど、なんですか?」
「ちょっと昔の友達に会わんといかんようになってしもうて。」
「ああ、そんならどうぞ。辰悦くんのご飯は私が食べさせておきますさかい、あまり遅うならんようにしてくださいね。」
「はいよ。おおきに。」
中村さんに言われて、星悦の頭に辰悦の顔が思い浮かばれた。
暗がりへ続く扉の向こうから、トランペットの音は届かなかった。
辰悦は部屋の扉を閉めた。勝手に鍵も閉めていた。それでも誰かの視線を背に感じていた。
あえて電気はつけなかった。電灯と共に浮かび上がる異質なものが、この部屋にもありそうな気がした。
ベッドに投げ捨てたカッターシャツが手に触れ、袖が湿り気で鈍く手の平を滑った。シャツが、ではない。
(何で分かったんだろう・・・)
辰悦はもう一度、液晶画面に映った電話番号を脳裏に浮かべる。間違えようがなかった。あの時見た電話番号と、一文字たりとも違わぬ番号だった。
辰悦の脳裏に浮かんだ電話番号がフェイドアウトし、記憶のアーカイブから過去の映像が取り出され、再生されていく。
・・・・
雪が降っている。街の十字路は雪の底に息をひそめている。その白さの上に赤い飛沫はありありと浮かび、一人の女性を源として四方に散っていた。
辰悦は立ち上がる。立ち上がっても辰悦の顔は車の中を覗き込むことはできない。脚に痛みを感じた。不意に誰かに腕を握られる。自分と同じ服を着た、同じ背丈の、同じ顔の子供に。
「お母さん!」
二人は十字路に倒れている女性に駆け寄った。その横を無情な車は悠々と走り去る。
「お母さん!」
赤い雫は濃さを増していく。女性は一層白くなった顔をもたげる。
(海斗・・・・聖斗・・・・)
およそ二人にしか聴こえないくらいの、か細く、吐息のような、声。
「お母さん!」
「お母さん、死んじゃダメだよ!救急車呼ぶ?どうすればいい?」
二人の声は同様に甲高い。しかし、声の震えは異なっている。
(海斗・・・・聖斗・・・・)
やがては物質になってしまう、その来ようとする運命に少しでも抗うかのように、女性は二つの名前を呼ぶ。そして目からは涙が溢れた。
「お母さん!お母さん!」
「海斗!」
辰悦の腕が再び握られた。そして無理やり引っぱられる。同じくらいの背丈しかないのに、余りの力強さに、辰悦は思わず転んだ。また強い力で引き上げられる。
「海斗、救急車呼ぼう。僕はこっち行くから、海斗はあっちに行って。大人のひとを見つけたら、誰でもいいから助けを呼ぶんだよ。」
辰悦は、年端も行かないその子供を正面から見つめた。自分の姿を鏡に映して見ているかのようにそっくりな容貌であるのに、その身体に似つかわしくないほど落ち着いた話し方。まるであの女性がこの子を通じて喋っているかのように。
「イヤだ。お母さんが、お母さんが・・・」
「ここにいたってお母さんが死んじゃうだけだよ。急いで救急車呼ばなきゃ。早くしなきゃ本当にお母さんが死んじゃうよ!」
「イヤだ、お母さんとはなれるの、イヤだよ、お母さん――」
二人の額を黄色い閃光が照らした。群青の背景に、車体が黒々と浮かび上がる。その運転席に立っている人物を想像したとたん、辰悦の足が後ろへ引いた。引いた足は二度と前には戻らなかった。
「海斗!」
背中であの子の叫ぶ声がする。
辰悦はひたすら走った。止まることを許さぬ勢いで、何かが辰悦の背中を強く押していた。走るしかなかった。止まることは終わることを意味する。幼い頭脳の思考の中で、辰悦はそれを強く感じていた。
車が止まる音。
「聖斗!大丈夫だったか?」
「一色のおじちゃん、海斗が今救急車呼びに行ったとこなの。」
「それは大丈夫だ。もうそこまで救急車が来ている。海斗はどこに行った?」
「分からないけど、あっち。」
「よし分かった。ほら、救急車があっこに見えた。ちょっと待てばすぐに着く。来たらすぐにお母さんを乗せてもらうんだぞ。おっさんは海斗を探しに行くから、しっかりするんだぞ。いいな?」
しばらくして、車のアクセルの音が聞こえた。海斗はビルの物陰に隠れて車が隣のとおりを走り去るのを見届けた。そして、おそるおそる十字路の方に向き直る。
救急車のサイレンは止まり、雪の上から救急隊員が身体を引き上げるのが見えた。隊員の足元にはさっきの子が見える。
辰悦は唇を噛んでその光景を眺めていた。涙が流れていた。それでもきびすを返すしかなかった。今追いかければ――あの父親のところに戻ることになる。
「海斗ォ!そこにいたかあッ!」
踏切の向こう側から声がした。辰悦は胸に刺されたような痛みを覚えた。そして後は、無我夢中で、走った。走った。
それから先は、何も目の前に見えなくなってしまった。
扉を強くノックする音に、辰悦は跳ね起きた。
眠っていたのだ。
鍵を外し、扉を開けると、星悦の顔があった。訝しさと、そして心配を浮かべた面持で。辰悦はその表情に既視感を覚えた。
「どうしたんやぁ、部屋の明かりもつけんと。」
「いや・・・眠かったから。」
「そんなら服着替えて寝んと、風邪引くで。さっきからなんか様子、おかしいで。」
「ごめんなさい・・・」
「いや、謝らんでもええけど。――それと、さっきの電話」
「あ・・・」
「――?なんや?」
「ちょっと、もう少し寝かせてもらえますか。あと、晩御飯もいりません。」
「――どないしたんや?そんで、さっきの電話、一色さん言うて、俺の中学の時からの友達からやったわ。」
黄色い閃光が、脳裏に蘇った。
「――ん?どうしたんや?」
「いえ・・・それで・・・どんな電話だったんですか?」
「いや、久しぶりに会えないか、ていう話やってんけど、向こうも俺に会わせたいっちゅう――それはええか、お前には関係ないわな。ああ、でも、あいつ、お前にも会いたいって――」
胸をえぐられた感覚がよぎる。黄色い閃光が視界を遮るほどに照りつける。
「・・・なあ、辰悦、さっきからほんまにおかしいで。カッツンの電話番号見てからや。どないしたんや。それか、ひょっとして――お前、カッツンの知り合いか?」
勢いよくドアが跳ね返ってき、星悦は危く鼻を挟みそうになった。鍵がかかる音がする。部屋は物音一つしない。
「―――辰悦?」
星悦はドアノブをかき回した。しかし、部屋は沈黙を続けている。
「・・・俺・・」星悦はドアに向かって呟いた。「何か変なこと言ったか?」