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第二楽章「GR」 (2)

この章は元々「パクス・ロマーナ」というタイトルにしていたので,描写の中でも「パクス・ロマーナ」の方が「GR」よりも多い旨,ご了承いただけますと幸いです。

 Dデー――・・・


 張りのあるオクターブの和音。ユニゾンで動くファンファーレ。しかし、指揮壇の上に立った学生の指揮者は、数秒も経たないうちに演奏をやめさせた。


「ストップ、ストップ!」指揮者は指揮棒を横に振り。「今、誰か出だし遅れたぞ!それとピッチがすごく悪い。ちょっと、外でもう一回チューナーで音程合わせして来て。」


「――はい。」


 返事をしたのは、ステージに設置された段の上に並んでいたトランペットとトロンボーンの奏者たちだった。指揮者と対面する位置にいるトランペットの奏者が、隣のトロンボーンの奏者と目で合図を交わした。二人が立ちあがると、両脇に座っていた他の奏者たちもそぞろに体を起こし始めた。そして彼らは、各々の楽器を手に携えたまま、コンサートホールのステージから、袖の方へはけて行った。


 彼らがステージから姿を消すのを見計らって、学生の指揮者は残った奏者たちに向かって言った。


「それじゃあ、三小節目のホルンが入るところから下さい。最初の、ホルンのAアーの音、お願いします。」


 そう言い、指揮者が指揮壇の横に置かれたキーボードでラの音を鳴らした時、


「ファンファーレは後回しだ、萱島かやしま。」


 二階の観客席の方からマイクを通した太い声が飛んだ。即座に学生の指揮者は二階の方を振り返った。



「クラの入るところから始めろ。あいつらがいないと出だしをやっても意味がないからな。」


「・・・分かりました。」


 学生の指揮者は大きな声で二階へ返事をすると、再び楽団の方に向き直った。


「・・それじゃあ、クラリネットの始まるところからお願いします。」


「はい!」


 短く、鋭い返事が、大きなホールの壁に反響した。


「・・ったく。今まで何やってたんだお前らは。チューニングしたんじゃないのか?それくらいの音くらい合わせられないでどうすんだ。」


 二階席に腰を下ろした千林の小言は、マイクを通してホールに響いた。


 学生の指揮者は手を止めた。しばしステージに沈黙が流れた。


「・・・すみません・・。」


 指揮者は一人を除いて誰もいない観客席に向き直り、深く頭を下げた。


「・・・じゃあ、お願いします。最初のGゲーの音。」


 


 ステージを離れたトランペットとトロンボーンの奏者たちは、袖の下にある待機室の一室に入り、輪になって集まった。自分たちの足音以外の音は、全て壁に吸い込まれてしまい、無のように静かな部屋。


 奏者たちは、俯いたり、壁に空いた無数の穴を見たり、楽器の磨き具合を確かめたり、様々に振舞っていたが、誰も目を合わせて合図を送っていないのに、誰かある一人に全員の関心が集中していることを、音のない部屋の空気が伝えていた。


「よし。じゃあ、全員でBベー、下さい。」


 背の高い半袖の男子が口を開いた。手には銀色のトランペットを持っている。その男子の声に続いて、全員が楽器を構えた。男子はマウスピースを口にあてたまま、トランペットのベルを上下させてタイミングをとった。


 Bの音。


 透き通ったオクターブの和音に、かすかな波紋が立った。男子はベルで円を描き、Bの音を締めくくった。


「誰か、ちょっと高いな。最初は合ってるんやけど、途中から揺れてくるな。それじゃあ・・」


 男子は続ける。


「先に各自でチューナーでもう一度Bベーの音を合わせよう。それから、ペットとボーンごとにパートでBの音を合わせてから、両方の楽器合わせてチューニングをしよう。それが終われば、『パクス・ロマーナ』の出だしを」


「早くしましょ、守口センパイ。」バス・トロンボーンを重たそうに抱えた男子が、けだるい口調で話に割り込んだ。「こんなことで時間かけてたら、また先生の雷喰らうことになりますから。」


 守口と呼ばれた男子は黙り、ムッとした表情で男子を見た。しかしそれは一瞬のことで、すぐに元の人好きのする顔に戻して言った。


「・・・せやな。じゃあ、早速各自で合わせてくれん?」


 守口の一言で、奏者たちは各々広い部屋の方々に散らばり始めた。バス・トロンボーンを抱えた男子も、肩をすくめて、面倒くさそうにトロンボーンを持ち上げた。奏者たちは、片手に持ったチューナーを耳元に近づけ、自分のBの音がよく聞こえるように、部屋の隅、壁に向かって音を鳴らす。守口は自分の音程を確かめた後、トランペット・パートの奏者たちに一人ずつ近寄り、二人で一緒にBの音を確認し始めた。


「よし、山寺。」守口は部屋の隅で音程を合わせていた一人の男子の背中を叩いた。男子は静かに振り向く。金色のトランペットに、沈んだ大きな瞳をしている。守口が何を言っても聞こえないので、守口はチューナーを相手のベルの先にかざして合図とした。山寺は黙ってベルを上げると、Bの音を鳴らした。


 チューナーの針は、最初の1、2秒は中央に静止していたが、暫くして右に傾き始めた。


「・・・ちょっと、高いな。山寺。」守口は、あえて小さな声で言った。「でも、最初の出だしはバッチリやったで。最初の感じで、もういっちょ、お願い。」そして気さくな笑顔を浮かべて、無口な相手に音を求めた。


「・・・そうや、そうそう。オッケー!じゃあ、今度は俺と合わせてくれん?」


 トランペットを構え、Bの音を鳴らしている間、守口は気づいていないふりをしていたし、山寺の顔も相変わらず無表情だった。それでも、守口には、見えない心の視線が自分たち二人に集まっているのが、良く分かっていた。


「・・・完璧やな。」守口は笑って言った。「それじゃ、ペット全員で合わせよか。」




「――守口ィ」


 間延びした声が帰路の空に届く。


「あん?」


 守口は片方の眉を吊り上げる。いかにも面倒そうに。


「山寺のことだけどさ、あいつ――外した方がいいんじゃね?」


 堤防のコンクリートに、足音は単調なビートを刻む。


「なあ、反応しろよ」


「――言ってますよ、千林さん。」


 守口は左を歩く聖斗に向かって、ため息混じりに茶化して言った。


 聖斗が顔を上げて。


「山寺が、どうしたって、樟葉?」


 樟葉と呼ばれた夏服の学生は、カッターシャツをひらひらと黒ズボンの外に出しながら、暑さで気乗りしない声で答えた。


「今日のチューニング、ペットが追い出されたの、山寺の音程が悪かったからやろう?前もそうやったやろ。あいつがいると、せっかく上手なほかの奴らの音が乱されて、あいつ、足引っ張ってるだけやで。だから、あいつをさ―――」


「山寺は、今伸びてきているところだよ。それに、吹奏楽は個人技じゃなくて、全体でやるものなんだから、仲間の至らないところを補い合うべきじゃ」


「正論だよ、聖斗。教科書なぞったみたいにキレイな解答だ。でもよ。」


 樟葉は笑う。


「・・・それはザコいバンドが言うことだよな?」


 それ以上は言わない。笑顔ではぐらかす。


「―――」


 聖斗はトランペットのパートリーダーに目を向ける。


「守口さんは、どう思いますか?」


 守口は答えない。


 その沈黙が長ければ長いほど、樟葉の笑窪が深くなる。


「な?聖斗、お前の口からお父様にその旨奏上して頂けないか?」


 聖斗の瞳が一瞬、鋭さを増す。


「――ていうか、お前もさ、よく自分のこと棚に上げて言えるよな。」


 ぽつりと守口が言う。


「え?」


「今日のボーン、先生に止められへんかったけど、最初のファンファーレ、パート内で全然揃っとらんかったで。合奏の後も、大してパー練しとらんかったし。それに、お前・・・舞台袖で墨染と何やっとったんや?」


「いや、あれは――」


 樟葉が急に顔を赤くする。彼の沸点は意外と低い。それを知りながら、守口は静かに続けた。


「――俺も、ヒトのこと言えるほどちゃんとはできとらんけどさ」


 守口の話を聴きながら、聖斗は不意に後ろの山並みを振り返る。ひしめく住宅街を縫うように、坂が続いている。その中に、誰かの気配を感じたような気がした。


「山寺のことは――」守口は続ける。「――山寺だけやのうて、誰のことでも、本人がいない所でどうこう言うの、嫌いなんや、俺。」


「・・・別に俺も、陰口が好きなわけじゃなくて――」と樟葉。


 守口は樟葉の言葉など気にも留めずに、聖斗に向かって言った。


「山寺のことは、俺が何とかするよ。聖斗の言うとおり、あいつ、最近すごく伸びてきているし。音程だって、合奏前はパートの中で一番早く合わせられるんや。パートの皆も、ちょっとのミスは全然気にしてへん。やから、本番までには、何とかさせるからさ」


 生真面目な顔で後輩の聖斗に話していた守口の顔が、ふと緩んだ。


「・・って、偉そうに言えるほど俺も吹けるわけやないんやけど。」守口は弁解を隠すように罰の悪そうな笑みを浮かべて。


「俺、タカピーな態度とるヤツが、一番嫌いなのにな。」


 聖斗は頷くこともせず、かと言って守口を無視しているわけでもなく、鋭かった目つきを和らげて、伸びた三本の人影を見つめている。そして、二人との会話を振り返り、妙な居心地の悪さを身に感じていた。


「お」


 樟葉が小さく声をあげる。守口と聖斗も顔をあげる。


 前から銀色の車が近づいてきた。運転席の人物は三人に向かって窓から手を出して振り、ゆっくりと停止した。


「一色さん」聖斗たちは車に近寄る。


「また会ったな、聖斗。」助手席を指差して。「乗ってけよ。」


「さすが金持ちだな。ベンツでお迎えなんてよお。」樟葉がたらたら皮肉をこめて言う。


「大丈夫です、俺は。みんなで電車で帰りますから。」


「いいから乗れよ。」と一色。「お前に会わせたい奴がいるんだ。」


「俺に・・ですか?」


「おう。」


「ちょっと待ってください。」聖斗は残りの二人を見る。「もし迷惑でなければ――」


「俺たちはいいよ、聖斗。楽器店なんていつでも行けるし。」守口が言う。すかさず樟葉が。


「その『たち』から俺はできれば除いて――」樟葉が口を挟みかける。


「本当にごめんだけど、今日は聖斗だけしか乗せられないんだ。また今度機会があれば、乗せてやるよ。」一色は笑顔で言った。「ほら、聖斗。」


 仕方なく聖斗は反対側のドアに周り、車の中に入った。


「またな。」守口が手をかざす。聖斗は静かに会釈した。


 車は上流に向かって走り、手前の橋を渡ると、今度は反対に、市街地の下流へ向かった。


「いいよなあ、聖斗・・・ずるいよなあ。」


 まだ樟葉は文句を漏らしている。


「守口ィ」


「何だよ」


「さっきのおっさん・・・あいつのドライバーかなあ?」


「さあな。」


 樟葉は大げさに溜息をついて言った。


「ずるいよなあ、聖斗・・・。」樟葉の言葉は梅雨空に消えていく。「才能か、金持ちか、どっちかだけにしろよなあ。」


 一色の車は浅井市の駅前を通っていた。信号で足止めを食らい、腹いせに一色は取り出したタバコのケースをポケットにねじ込んだ。いつものえびす顔とうって変わって、今の一色の面持ちは険しい。


「聖斗。」


「はい。」


「――さっきの仲間が、『楽器店』に行くとかなんとか、って言ってたよな?」


「はい。」


「今日行くつもりだったのか?」


「はい。」


「どこに?」


 向かいの信号がようやく黄色に変わった。聖斗はゆっくり答える。


「はっきりと名前は思い出せないんですが・・・新天市にある楽器店です。」


「新天?」


「はい。浅井の楽器店よりも、そっちのほうがリードやマッピの種類が多いんです。確か、新天横丁にあると聞いたんですが――」


 左折信号が変わり、向かいの信号が完全に赤になる。


「『楽器店マーキュリー』か?」


「あ――」聖斗は一色を横目で見た。「ご存知だったんですか?」


 タバコを灰皿に置く。信号が青になる。


「聖斗。何も俺がお前を連れ出す必要はなかったみたいだな――」


「・・・」


 一色は口元を緩ませ、アクセルを踏んだ。



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