第一楽章 宝島 (4)
そろそろシバリューの青臭さにも慣れてくださったのではないでしょうか(笑)。
シバリューというキャラは現在21歳(つまり、カオルたちと同い年)の作者の未来の姿でもあり、今の作者自身と似た思考回路を持った人間でもあります。もちろん、カオルや辰悦、元気、曜子といったキャラにも、作者の欠片が散りばめられています。ただ、作者はシバリューほどに熱い人間ではありませんが 汗汗
この小説のこの部分、実は三年前に書いたものなので、いろいろとつたない部分もありますがご容赦ください。現在、ようやく筆を起こし、第二章の途中を執筆中です。
4
「ありがとうございました。」
ブレザー姿の学生が二人、『楽器店マーキュリー』を出て行く。
演奏会の費用集めに来たようだ。星悦は商店街を歩いていく二人をニコニコしながら二階の店の窓から見送り、受け取った演奏会のチラシを店の掲示板に貼った。
「息子さん、遅いですね。」従業員の中村が、楽器を磨きながら星悦に声をかける。
「ああ、うん。今日から吹奏楽に入部するんですよ。」
「えっ?まだ入ってなかったんですか、辰悦君?あんなに上手いのに。」
「うん、まあ。あいつ、引っ込み思案だからね。」
「辰悦君が入ったら、県新のブラバンも活気付くでしょうね。」
「だといいけどね。あいつ、本番に弱いところあるし。ほかにも――ほんまに、分からんことばっかりで。」
「それ、分かります。私の娘も今年で五歳になるんですけど、親の私にも意味不明な行動をよくとって――」
星悦は黙って自分のデスクに座り、その上にある写真を静かに手に取った。
辰悦の、小学校の卒業式の写真。カメラを向けられ、無邪気に笑みをこぼす辰悦と元気。
中村は話に熱中して、まだ一人で話し続けている。一方で、星悦は十年近く前の情景を思い出していた。
名前は、なんていうんだい?
大人用の厚手の毛布で身をくるまれた幼い子は、なにも答えない。
それも、教えてくれないのか?
幼い子は、透き通った瞳を星悦に向けたまま、反らさない。
家族に知らされるのが、そんなにイヤか?
コクリ、とその子は頷き、小さい声で、おじさん、と呼んだ。
ん?
その子は一瞬うつむいたが、すぐに星悦をまっすぐ見つめて言った。
――ボク、おじさんの子どもになりたい。
紆余曲折があったあと、結局、星悦はその子と約束をし、その子が辰年生まれだったので、辰悦という名前にし、自分の子として育てることに決めた。兼壱が機転を利かせてくれたおかげで、商店街の人から不審がられることはなかった。
あれ以来、星悦はその子との秘密を守り抜いてきた。家族は探さない、知らせない。それでよかったと思っていた。
でも、どうなんやろう。本当のところ。やっぱり僕って、マズイことしてるんやろか。
星悦は写真を見つめながら、長い溜息をついた。
「――よし、じゃあ今日はここまで。みんな、お疲れ様ァ。」
昼食休憩も取らないまま、結局合奏は二時前に終わった。斯波の発した解放令に、部員はフウと大きな息をつき、へたりこむ。
「それと、この曲、六月の文化祭でやるから、キッチリ練習しとけよ。明日は自主練にするかわり、来週の土曜にはまた合奏やるから、そのつもりで。」
『合奏』の言葉に、部員の顔が暗くなる。
すっくと和音が立ち上がり。
「今日は終礼ありません。自由に解散してください。」
言われなくても、みんな早々と楽器を片付け、帰り支度を始めている。
特に璃紗は必死だ。
「どーしよお。バイト遅れるわあ―――んじゃ、カオルちゃん、バイバイ」
「うん。バイバイ」
カオルも譜面台をたたみ、ツバを捨てて、立ち上がった。
「いい音だね」
不意に右側から声がした。いきなり言われてたのと、その内容に驚いて、思わず。
「え?どこが?」
辰悦は気さくな笑みを浮かべた。
「なんか、サビみたいなところあるじゃんか。そこのところ、すごく楽しくてのびのびした音だった。」
「え・・・でも私、ボーンとペットだけで吹くところ、音高すぎるから、吹きマネしてたんだけど・・・」
「無理に高い音出さなくていいと思うよ。低い音のいい響きが高音でも出せるように、ゆっくり練習していけばいいと思うし。」
「あ――どうも、ありがとうございます。」
妙にくすぐったい。こんなことを言われた時は。
「――鏑矢君、ソロ凄かったね。いつからペットやってるの?」
「小三の頃から」
「あ、だよね―――」なんだかホッとした。
辰悦は立ち上がる。
「がんばろうね。文化祭に、間に合うように。」
「そうだね。」
「それじゃあ」
「うん」
「カオル~!」未来がこっちを向いている。
「みんなでさ、元気君のお店に食べに行かへん?元気君本人を連れていけば五割引だってさあ!ね、曜子もさあ!」
「でも、未来。」和音が肩を叩く。「元気、もういないよ?」
和音はポツンと置かれた椅子を指差して。
「え!もう帰ったの?ハヤテ?」
「ううん、帰ってないと思うわ。多分――」
「どこ?」
「ゴメンやけど、ウチ、今日はコンビニで済ませるから。」
曜子はサックスをストラップに吊り下げたまま、譜面台を持って立ち上がる。
「え?何で?まだ練習するん?」未来の瞳は白黒だ。
「うん。ちょっとソロやらんと、マズイっしょ。あ、コード、というわけで今日施錠ウチがやるから、先帰っておいて。」
「――うん・・いいけど、明日自主練だけど、いいの?」
「うん。」
「曜子」カオルは親友に声をかけた。
曜子は振り向かない。ただ一点を見つめている。
「――あんな、アッサリ吹かれて、たまるかよ。」
楽器を片付ける辰悦を、ずっと睨みつけている。
「――うん」カオルはうなずく。
「絶対、上手くなってやる。」
「――うん。」カオルはうなずいた。
夜。静かな横丁商店街に、一台の車が止まる。
『 ♪準備中♪ 営業時間 午前十一時~午後三時半 中華亭・ごっつぁんです 』
・・夜、やってないのかよ。
斯波の肩から力が抜ける。
あの時、言ってくれたら良かったのに。
店の中は、黄色い光に満ちていた。恨めしそうに、しばしの間たたずむ。
ふと、後ろを振り返る。向かいは星悦の店、『マーキュリー』。
こちらも、まだ、二階の店に明かりがともっていた。
そして三回では、白い光りのもと、薄っすらとカーテンに映った影が揺れていた。
なにかを思い、しばしの間、明かりを見つめる。
一度踏み出しかけた足を引き戻し、斯波は車の中に入っていった。
その車を見送る、一人の影。
「・・先生?」
元気の手には、硬球が堅く握られていた。
―――・・
新天市の西隣、浅倉市である。
百坪を超えそうな邸宅の立ち並ぶ住宅街に、穏やかな朝が訪れた。
その中で、道に向かって横に広いガレージを構え、緑の垣根で周囲を覆った、一際目立つ豪邸があった。表札には「千林」とある。
整理された広いリビングの中央に置かれた長テーブルに皿を並べながら、藍は父の背に話しかけた。
「お母さんのいないバースデー・パーティも、今年で十七回目やね。」
対面キッチンでコーヒーを入れていた父が振り向いた。鋭い目をして。
「いや、十一回目だ。」
脅迫するような父の目つきに、藍は思わず口籠った。
「あ・・・そうやわ。あたしももうボケてきたんかな。ハハハ・・」
笑みはぎこちない。
裕也はグラスを両手に持ってテーブルに寄ってきた。
「よく眠れたか?」
「うん。ありがと。」
手渡されたグラスに、口を近づける。
「・・ウーン。久しぶりにお父さんのアイスコーヒー飲んだけど、味は全然落ちてないわ。」
「何を抜かすか。」
裕也の目が和らぐ。
「――仕事の方は、順調なのか?」
父の言葉に、藍は思わず苦笑して。
「お父さん、これでもう三回目やで?うん、トラックの方は最近仕事も増えて、いろんな高校行けて結構楽しいで。やっぱ高校生は若々しいわ。みんな元気で、しばらくぶりに前搬出の依頼受けた学校の楽器運搬に行ったら、ちゃんと覚えていてくれて、なんやすごく嬉しい気分になったんよ。」
長女の藍は、去年の春、とあるトラックの運送屋に就職した。普段は学校給食を届けに小学校や中学校を訪れるが、演奏会の日やコンクールの季節には、市の内外の高校にも出向いて楽器の運搬を引き受けている。
「やけど――なんでそんなに仕事のこと聞きたがンの?」
「え―――そんなに聞いていたか?」答えに戸惑って。「そりゃ・・娘がうまくやっているかどうか心配するのは、親として当たり前のことだろ。」
そうではない。そんなことではない、自分が考えていることは。
あの時のことがまだ吹奏楽界で話題にのぼっていないか、明るみに出ていないか、ただそれが知りたいだけなのだ。
娘は何も察しない。
「またァそんなことを言う。はいはい、ご心配おかけして、誠に申し訳ございません。でもあたしももう独立して、結婚もしたンやから、いつまでも子ども扱いせんといてくれる?」
「そうは言ってもな・・」
裕也は藍の顔を見つめた。表の庭が少しかげった。もの寂しげな裕也の瞳には、亡き妻の面影が映っていた。
「・・あたし、聖斗呼んでくるわ。」
父の視線から顔を反らして、藍は立ち上がった。
裕也は表の庭に目をやり、ネガのように反転した妻の残像を追っていた。
「聖斗―っ、ごはんだよ。起きてる?」
「はあい、今行くから。」
残像はぼやけ、やがて二つに分離する。
階段の方から音がして、息子がリビングに入ってきた。
「おはよう、父さん。」
剃って薄くなっているが、きりっとした原型をとどめた眉、高めの鼻、奥に何か光るものがある、大きく、鋭い瞳。
「おう。」裕也はそれだけ言い、あとは満足げに息子を心ゆくまで眺めていた。
聖斗は、裕也が指揮を振る清流学院吹奏楽部で、アルト・サックスを担当している。誰から学んだわけでもない、卓越した豊かな表現力と技術の高さは、彼が生来サックス奏者としての資質を備えた人物であるだけでなく、人一倍の努力家であることを物語っていた。来年のサックス・パートリーダーにふさわしいということは、親の裕也だけでなく、部員も同じ考えであった。
テーブルの皿に藍が父の料理を盛りつける。やがて三人が席につくと、藍が。
「ほなら、お父さんの四十三歳の誕生日を祝って・・・乾杯!」
「乾杯」
カン、とグラスが軽く音を立てた。飲む間の、しばしの沈黙。
ああ、と聖斗は真っ先に声を漏らした。
「やっぱり、父さんのアイスコーヒーはおいしいですね。」
息子の褒め言葉に、父の口元が緩む。
「調子は、大丈夫そうだな。」
「はい。定期演奏会のあと、しばらく音の具合が良くなかったんですが、このところは低音もよく響きますし、調子もだいぶ戻ってきました。」
「そうか――ほかの奴はどうだ?」
「そうですね――滝井は最近一層音が鳴るようになってきましたし、橋本は指回しが速くなって、ビブラートのかけ方も上達しましたね。演奏会でソロが成功したので自信もついてきたみたいです。墨染は演奏会前からの不調をまだ引きずっていますが・・あ、山寺は毎日休まず練習している甲斐あって、今伸びてきているところです。」
「山寺・・・あのヘタクソが?」
裕也は鼻で笑った。
中高一貫の私立で、学業でも部活動でも名門校である清流の吹奏楽部では、毎年、新入生の入部テストがある。ただ、去年は高校からの入学者の入部希望者があまりに少なかったので、仕方なく入部テストは廃止したのだった。その為、全国レベルの強豪校の部員の個人の技量に、バラつきが出来てしまったのだった。
山寺のトランペットは、今はまだしも入部当初は、とにかく、聞くに堪えない音だった。コンクールで地区落ちのレベルだろう。裕也は彼を入部させたことを心では後悔していたが、聖斗の言うとおりの、彼の熱心な練習態度を見て言い出すことができなくなり、今は彼がどこまで伸びるか見守ることに決めた。一度は他の楽器に変えようと試みたが、彼の前に立つとその意志は全て無に帰った。
山寺はいつもトランペットを手にしていた。そし誰とも接することなく、ただ一人で黙々と譜面台に向かっていた。一日中、校舎の裏で立ったまま。
そんなに好きなのかよ、トランペットが。
裕也は呆れに近い感心を彼に抱いていた。
ずっと下手でも続けるか?
絶対に追いつけない才能を見せ付けられても、その楽器が好きか?
俺なら、ヤだな。
藍は二人の会話をおかしそうに聞いていた。
「いやだ、二人とも親子なのに、その話し方じゃまるで先生と生徒みたいやね。」
「あ・・」裕也と聖斗は顔を見合わせた。
「・・・・そりゃあ仕方ないだろ。聖斗は部活で父さんと顔合わす方が多いんだから。」
「あ、そっか。清流って練習忙しいのに、何で聖斗家にいるんやろうと思えば、そうか、父さんと母さんの誕生日は部活休みなんやったね。忘れとったわ。ハハハ・・」
「何を今さら」
インターホンが鳴る。
若い執事がノックをし、部屋のドアを開ける。
「旦那様、一色様がお見えです。」
「――ちょっとすまん。」裕也はフォークを置き、席を立った。
一色の名に聖斗の瞳がゆらぎ、急いで父に尋ねた。
「父さん」
「ん」
「・・もしかして、一色さん、海斗の居場所が分かったの?」
裕也は咳払いをし、服にこびりついた朝食の汚れを煩わしそうに払った。
「さあな。別の用件だろ。」
「もし海斗の話なら、すぐに俺に教えて下さい。お願いします。」
「分かった、分かった」
裕也は背中に次々と降りかかる聖斗の言葉を、急いでドアで遮った。
バタン。
メイドがきれいに掃除しておいた接待用の和室に、一色の姿があった。
裕也は会釈もせず向かいに座り、唐突に話し始めた。
「それで、何か分かったのか?」
一色は鋭い目で裕也を見、黙って一片の紙切れを机に置いた。
「・・東山のあるマンションの住所と、そこに住んでいた住人の名前だ。百万遍付近で浦島と思しき男を目撃したとの証言を頼りに調べたところ、この男が浮上してきた。」
鋭い眼は確信に満ちてギラリと光っていた。
裕也は紙に書かれた名と、渡された写真を見比べた。
吉田信二、三十六歳。清掃員。妻子は、無し。
年を重ねて老けてはいたが、間違いなく、ヤツの顔だった。
浦島英亀。あの、ヒデキ。
裕也は怪訝な顔を上げた。「住んで、いた?」
「ああ。二ヶ月前に部屋を出ている。管理人には、立川に引っ越すと告げたらしい。」
「立川?新天市の、立川か?隣町じゃないか。」
「・・それが、部下に調べさせたところ、立川に住む十三軒の吉田のうち、あいつの家は一つもなかった。やはり、また名前を変えて住んでいるようだ。」
一色はチッと舌を打った。
「それがよ裕也、あいつの主な仕事場の一つに、警察署があるんだ。」
「・・・・!」
「だから嫌な予感がするんだよ、俺。あいつなら、やりかねないだろ?」
「・・昔の事件を、調べるってことか?でもあの事件は、確か和歌山で―――」
「まあな。俺は警察のことはよく分からない。でも推理小説とかでよ、他の県の警察が事件の捜査に加わることってよくあるじゃないか。備えあれば憂い無しだ。」
「よく分からないが・・・でも十四年も前の事件だ。そんな事件を多府県の警察動員して捜査できるほど、警察も暇じゃないだろう?」
「でもな裕也、まだ時効」
コン、コン。
「――!」
「――?」
襖を軽く叩く音は、二人の胸を激しく突き刺す。
「お茶をお持ちいたしました。」
青年の若々しい声がする。さーっと、裕也の体から、しびれがとれる。冷や汗をかいた。
「―――入れ。」
「失礼いたします。」
和室の襖をゆっくり開き、先ほどの執事が現れた。
黒い礼装のようなものを着、素手で盆に載せた茶を二人の前に置いた。一色は置き物のように身動きせず、彼が深々と礼をして部屋を出るまで、一度たりとも目を離さなかった。
一色、おもむろに口を開きて、いわく、
「――すまん、口が滑った。」
「いや、大丈夫だろう。襖を叩く音とカブッたから。」
「今度の執事は――ちゃんと仕事、だけを、しているか?」
「ああ、高木はよく働いてくれる。料理も得意なんだ。」
声を低くして。
「・・書斎には。」
「入れてない。」
「よし。」一色はゆっくり頷き、旨い茶を少し飲んで、すぐに口を離した。
「裕也、でもよ。執事なんて表向きはおとなしそうでも、裏では何しているか分からないぞ。浦島のことでよく学んだはずじゃないか。・・・亡くなった奥さんのためにも、もう執事なんか雇わない方がいいんじゃないか?」
「―藍も結婚して家にはたまにしか来なくなって、この広い家には俺と聖斗と高木の三人。俺も聖斗も料理が出来ないんだ、執事やメイドがいなけりゃどうやって食っていけばいいんだよ?」
一色は眉間にしわを寄せながら、和室の高い天井を見上げた。
「こんなバカデカイ家を売り払えば、一生外食でもやっていけるだろうさ。それに、この家にいたままじゃあ、いつまでも昔のことに囚われることになるだろう?」
湯茶に波紋が浮かぶ。
「どういうことだ」
「どうもこうも。ここには二人の奥さんとの思い出があるし、浦島の足跡も残っているし、それに、その、新聞記者のカメラだってあるだろう?だいたいカメラなんてそんな重要証拠、とっとと捨ててしまった方が―――すまん、また口が滑りやがった。」
「カメラは書斎のある所にしまっている。それに、フィルムはとっくに焼いた。」
茶の色が濁る。話題に飽きたのか、裕也は大きく息を吐き、顔を若干明るくして言った。
「ところで、海斗の方は何か調べてくれたか?聖斗のヤツがうるさいんだよ。」
「そりゃあ、双子の兄貴のことだ。弟が心配するのも当然だろ。気にもとめない親のほうがどうかしてるよ。」
「しょうもないこと言わずに、はやく言え。」
「ちょい待ち」一色はぐびりと茶を飲み干し、鞄から新たなファイルを取り出した。
「何でもでてくる鞄だな」
「まあな。ほいこれ、聖斗が沖田の息子から聞いた話を頼りにして、中学の水泳大会に出ていた、聖斗によく似た平泳ぎの選手の名前を探した。すると――いたいた、一人海斗らしき子が見つかったんだ。」
頬杖をつき外を見ながら聞いていた裕也は、思わず手を払い、顔を一色に向けた。
「誰だ?」
一色はファイルを見せ、一人の名前を指差して言った。
「これが例の中学の水泳部の連絡網。で、これが海斗と思しき奴だ。」
裕也は目を凝らしてよく見た。
「・・・鏑矢、辰悦―――鏑矢ァ?」
ファイルから目を離し、どっと笑い出す。
「鏑矢って、それじゃあまさか、あのトロンボーンの星悦の息子か?」
「多分。」
「いや、有り得ない、有り得ない。もし本当に海斗だとしても、あんな下手な奴に育てられたんじゃ、楽器吹かせてもダメだな、絶対・・・」
顔色変えない一色に、裕也は思わず口ごもる。
「・・すまん。言いすぎかな。」
「いや。なあ、裕也・・」
「何だよ」
「ってことは、海斗にも楽器を吹かせるつもりなのか?」
「―――」
裕也は顔をしかめ、喉の中でうなった。
「――冗談だよ。本気で言うと思っていんのか?」
「まぁ。別に良いけど。それでな――」一色はファイルに目を移す。「この鏑矢って子、沖田の息子と鉢合わせになったその試合のあとで、すぐに部活を辞めたらしい。その水泳部の別の奴に彼のことを聞いても、誰もが知らないって一点張りだそうだ。だから、俺はますます海斗のような気がしてきてな・・」
「―――」
裕也は顔を曇らせたまま、晴れた庭の方を眺めたまま、何も言わない。
・・こいつ、聞いてんのか、俺の話?
「とりあえず」一色は机に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「浦島の件はそういうことだ。それから、もしかすると浦島みたいに姿をくらましたかもしれないが、一応ここにある鏑矢の電話番号にかけてみろよ。イヤなら、俺が代わりにかけるからさ。それでアポ取って、一度会ってみろ。」
「―――」
「ちょっと聖斗に会っていくよ。それじゃあな。」
「――勝則」裕也の目が動く。
「お?」
「――星悦に、聖斗を会わせるのか?」
「ああ。ありがたいことに、あいつは俺には敵意がないからな。」
「ふざけるな。あれはお前が――」
「おアイコだろ。この話はしないって言ったぞ?」
「お前が言い出したんだろ」
「・・そうだっけ?まぁいい。俺の好きにさせろよ。んじゃな」
一色は部屋を出た。
裕也は溜め込んでいたものをすっかり吐き出し、静かにファイルを手に取った。
鏑矢、辰悦。
以前家に入ってた、あいつの楽器屋の開店セールのチラシにあった電話番号とおなじ。ということは、やっぱりあいつの子供か。それなら今も新天にいるはずだ。しかしそれならいつ、どこで海斗に会った?あの時、家内と子供ふたりは大阪にいたのに・・。
再び、庭に影が差した。
一色は長い廊下の向こうにある、聖斗の部屋へ向かっていた。
廊下には、黄色い音が染み込んでいる。
アルトサックスの、太く、明るく、響く音。
エキゾチックな旋律と、リズミカルな音符の群れで、廊下は浸されている。
軽く戸を叩き、中に入る。
音の世界が、たちまち消える。
「一色さん」
「――『スペイン』か。お前が吹くとこの曲が二倍に良くなるな。」
「お世辞をありがとうございます。」聖斗は笑った。「この前定期演奏会が終わったところなのに、もう二ヵ月後のサマーコンサートに向けて練習しなくちゃいけなくて。でも、マーチングのグループは、今日も休みを返上して練習だから、それに比べたら、まだましかなあって。」
「ハハ・・裕也のヤツ、今年はコンクールないんだからもう少し休めばいいのにな。」
部屋には、有名なサックス奏者のポスターや、ずらりと並べられた吹奏楽のCD、そして中等部のころからのコンクールのパネル写真があった。
「三年連続全国に出場したら、翌年は否が応でも出場不可だなんて、考えてみればひどいもんだよな。お前のサックスを東京の奴らにも聞かせてやりたいのに。」
「俺は来年があるからいいんです。可哀想なのは先輩たちですよ。」
「まあ、そうか。」
一色はベッドの縁に腰掛けて、ポスターを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「海斗が楽器吹いてたら、何の楽器やっていたんだろうな?」
聖斗の方に向き直り、アイソ良く笑う。
「――お前と顔がそっくりだから、やっぱりサックスかな?」
聖斗は首を軽く横に振った。
「海斗と俺は双子だけど、口元だけが違うんです。俺は母さん似で、海斗は―――どちらかというと、父さん似だと思います。」
「それじゃあ、トランペットだな。いいなあ、兄弟そろって、吹奏楽の花形楽器だな。」
「でも、父さんが許さなかったでしょうね。」
聖斗はサックスをいじりながら、力なく笑った。
「・・小さい頃、海斗が父さんの書斎に入ってトランペットで遊んでいたら、父さんがものすごい剣幕で取り上げて、海斗を思いっきり殴ったんです。海斗と俺は三歳の時からピアノをやりはじめたんですが、あの頃でもう海斗は上級の曲も弾けていたんです。だから音楽するなら俺より海斗のほうが向いているのに、ってその時は思って・・」
一色は口を閉じ、黙って聖斗のほうを見た。
一色は、もともと笑った状態で出来上がった顔で、無意識的に口元が緩み歯を見せて、いつでもにこやかな様に見え、空気を柔らかくする雰囲気を持っていた。しかし、この時は、一色の口元からは笑みは消え、神妙な表情を顔に浮かべていた。
違うんだ、聖斗。
あいつはな、裕也はな、海斗がそうだったから海斗にしきりに手を上げたんだと思う。
俺の読みが当たっていたら、聖斗、お前も気の毒なものだぞ。
「一色さん」聖斗は一色を見た。何かを求めている眼だ。
「海斗に会いたいか?」
一色は直ちに聖斗の心を見通した。
「え・・・?」聖斗の瞳が揺れる。「一色さん、海斗に会ったの?」
「いや、会ってはいない。人違いかもしれないが、前沖田が言っていた水泳部の男子の居場所が分かったんだ。」
「きっとその人だよ!沖田は確かに俺にそっくりの男子を見たって言っていたから!」
聖斗の心が弾んでいるのが一目で分かる。
なんせ、海斗が行方不明になってから、もう十一年も経っているのだから。喜びもひとしおのはずだ。
「そうか、そうか。んじゃあ俺が、今海斗が世話になっているところに電話して、お前と会えるようにするよ。また今度電話するから、楽しみに待っておけ。」
「ありがとうございます、一色さん。」
聖斗の晴れやかな笑顔に、一色は十一年間ほとんど海斗の捜索に関心を寄せなかった、父・裕也のしかめ面を合わせていた。