第一楽章 宝島 (2)
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「てか、なんできょーぶかつあるうン?どよーびでしょお?」
天気予報では今日は真夏日の暑さらしい。くずれかけた化粧の上から新たな化粧の層を塗ったくり、璃紗がピーピー口を尖らせる。
「他の部活はフツーに練習あるやろ。ない方が不自然なんちゃうん?それより」
曜子は汗を手で拭いながら、苛立たしそうに返した。「あんたさあ、暑いって分かってて何でワザワザ化粧する?そんなにケバいのが好きなわけ?」
「ちぃがぁううーっ。これはあ、日焼け止めなんよ。けしょうとひやけどめのくべつもつかへんのぉ?へっ、ばーかばーか!」
「こいつ・・化粧も濃いけど、キャラも濃い。」
「突然変異かなんかじゃない?天然記念物にでも指定しとけば?」
未来の言葉に、カオルが思わずくすりと笑う。
「ちょっとお、かおるちゃん、いまわらわんかったあ?」
「えっ、ううん、全然」
「こういうのには正直に言ったほうがええんやで、カオル。その方がこいつの為にもなるんやから。」曜子が諭す。
璃紗が顔を上げて。
「あ、リッちゃんや!」
「ほんまや、オリさんもおるさあ。」
「おっす、リッちゃん、オリさん。」
「こんにちはぁ。」
「みなさんおそろいで。」
白く照り輝く講堂の前の広場に、六人は集まった。
「コードは?」カオルが尋ねる。
「あぁ、白鳥さんは、斯波先生のところに行っていますわ。なんでも、頼まれた原譜のコピーを渡しに行くとかなんとかで・・」
「コピー?てことは、やっと合奏始めるンや。よかったさあ。」未来は垂れ目に皺を寄せる。
「シバリューもようやくやる気を出してきたんかあ。な、よかったな、西園寺さん?」
「あほなこといわんといてよぉ。璃紗いそがしくなったらバイトこまるっていうたやろお?」反抗する璃紗の顔は泣きそうだ。
「あ、みんなおはよう。」
音楽棟の方から和音が現れた。
「あ、コードおはよう」
和音はオリさんの方を向いて言った。
「オリさん、元気はまだ来ない?」
「ええ・・昼までには来るってえ、言ってましたけど。」
「昼までに部活は終わるんだけどなぁ。」和音は溜め息をつく。
「えっ、どないしたん、浜岡が部活に来るン?」曜子が目を丸くする。
「うん・・」
「野球部の方は、どうなるんさあ?」未来も続く。
「なんかもう、どうでもよくなったみたい。」
「なんちゅー、えーかげんな。」璃紗が呆れて。
「やっぱ、あいつは続かんかったか。」曜子は肩をすくめる。
「あ、でも、今日は別の用事もあって、元気は来るらしいのよ。」
「なんなん?」
「なんか、ブラバンに入りたいっていう友達がいるから、その子を連れてみんなに紹介したいって。」
「げっ?ブラバンに入るん?こんな部活に?」
「ねぇねぇ、その子、女の子?それとも男の子さあ?」
「男の子よ。」
「ィやったあー!」未来は背中を大きく反り、拳を強く突き上げる。
「ええ?なあ、かずねちゃん、なんねんせいなん、そのこ?」
「ええと、二年生。だから同い年。」
「元気先輩の話によると、その人は『マーキュリー』のご子息だそうですよ。」
律人が爽やかな口調で語る。
「え?じゃあ―――鏑矢君?」とカオル。
「そんなヒト、おったかなあ?」
「ていうか、ジャズのおっさん、結婚してたっけ?奥さん」曜子が眉をひそめる。
「みたことない、みたことない」未来は大きく首を振る。
「それって、危ないんじゃあ、ないですかねえ。そのぉ・・」
「不義の息子」
「いやあ、曜子ちゃん、昼ドラやないんやから。そんなドロドロしてんの」
「島田」未来の背後から低い声がした。思わず未来の顔色が変わる。
「ひゃっ、シバリュ、じゃなかった、斯波先生!」
斯波は重たい目をしていたが、怒ってはいないようだった。
「朝からギャアギャア騒ぐんじゃないぞ。まあ・・朝と言っても、もう九時を大幅に過ぎてしまっているけれど。練習開始予定時間とっくに過ぎているから、早く中に入って。白鳥、譜面配ったか?」
「あ、いえ、まだです。」
「それじゃ早くみんなに配ってやってくれ。さ、早くみんなも楽器出して、準備しろよ。十時半に四四二ヘルツでチューニングした後、即、合奏始めるからな。」
「はーいっ」
斯波はニコリと笑い、また音楽棟の方へ消えた。
ふうう、と未来が胸をなでおろす。
「よかったさあ、シバリューで・・本気で怒られるかと思った。」
「シバリューはガミガミ怒る先生やあらへんさかい」曜子が笑う。
「ていうか、十時半まであと一時間もないですから、譜面全部さらう時間もないですよ。」
律人が途方に暮れた顔をする。
「大丈夫やって。打楽器なんて適当に叩いとけば誰にも分からへん。」
「無理ですよ。かえって目立ちますって。」
「あの、コード、ごめん、譜面もらえるかな?」
「あっ、そうね、ちょっと待って。楽器庫に置き忘れてきちゃったの。」
「なんで謝るン、カオル?」
「なんとなく・・」
「それじゃあ、みんなも早く楽器出して。先に来た子たちがもう合奏隊形作ってくれているから。」
「はーい」
カオルたちは口をそろえて答え、靴箱のほうに向かった。
「――大きいのが、一、二、三千円と、八百円のおつりです。毎度おおきに、また来てや!」
帰る客と入れ違いになって入ってきた男を見て、レジにいた兼壱は目を丸くした。
「およっ、星悦やないき!どないしたんや!」
「どないって、別に、ラーメン食いとうなっただけやて。みそ、食わしてもらおか。」
「毎度アリィ!」ダルマのような、大きくいかつい目で、兼壱は星悦を上から下まで見た。
「かれこれ一月も会わなんだ。ま、あっこに座ってゆっくり話でもしようや。あおい!」
「はーい。」給仕をしていた女性が顔を上げた。
「ちょっとレジやっといてんか。んで至急みそラーメン特盛二つ、五番テーブルによろしく頼むわ!」
「ちょっと待てって、僕特盛なんて頼んどらん。」
「俺のおごりじゃ。ありがたく食え。」
「ええけど、父ちゃん、まさかまたサボる気やないやろね?」
図星を差されて、兼壱は赤くなり、
「ばッ、ばか言えッ、俺はナ、大事なお客さんが来てるから、ゆっくりそのお方とお話でもしたいんだヨ。サボる気なんて毛頭」
「あ、ジャスのおっちゃんこんにちは。」あおいは愛想よく会釈した。
するとすぐに厨房から、怒涛のような罵声が襲いかかってきた。
「あんたァ、せいえっちゃんならお向かいやねんから、いつでも会えるやろ!人手たりんから早よこっち戻って仕事しんかい!」
「うるせーなぁ。俺は昼休み取ってねーんだぞ!」
「昼間しか営業してへんのに何で昼休みが要るんよ!ウダウダ言わんと、早よ戻りィ!」
ガランゴロンゴバッチャーン!厨房で何かが吹っ飛んだ。
頭上で繰り広げられる夫婦ゲンカに、店の中の客は、ラーメンを食べながら、なんとなくいたたまれない様子だった。
「奈美ちゃん、相変わらず、怖いな。」
星悦は兼壱にそっと囁いた。
「ほっとけ。あいつは俺に文句を言うのが趣味なんさ。」
兼壱は白い歯をニッと見せた。いたずらっ子のようで、妙に可愛げがあった。
コイツも、昔と全然変わらないよな。
星悦は、温かい溜息をついた。
五番テーブルに座っていると、ほどなく給仕が盆に茶を載せて奥から出てきた。この人も兼壱の娘だ。
「はい、ジャズのおっちゃんの分。」
「お、藤子ちゃんか、サンキュッ。いやあ、また一層きれいになったなぁ。ほんまに現代版藤壷って感じやな。」
星悦の言葉に兼壱の娘は歯がゆそうな笑みをこぼした。
「親友の娘見て鼻の下伸ばすな。・・んで、藤子、俺の茶はどうした?」
「知らんわ。」藤子はつんとして。「自分で淹れろって、女将さんがゆうてはりましたけど?」
彼女は涼しげな顔をして去っていく。
「おい、藤子!」兼壱は舌を打った。「・・・たく奈美子のヤツ、いい年して子供っぽいことをするもんだ。全く――」
ことの元凶はお前じゃ?
気まずい雰囲気を察し、星悦は慌てて言葉を茶と一緒に飲み込んだ。
「渋ッ!」
星悦は口に含んだ茶を全て口から噴射した。
「・・・・おまえ、ちゃんと手ェしィや。」
兼壱は太い眉を寄せて、顔をお手拭でぬぐった。
「ごめん、ごめん」
「いや、お前は俺の顔拭かんでいい。なんとなく気持ち悪い。」
「あ、そう。・・・でもな、兼壱、奈美ちゃん怒ってんでえ。僕のことはええからさ、もう奥に戻った方がええよ。」
「ここは俺の店だ。俺の好きにして何が悪い。」
ムキになるとこめかみに青筋の浮き出る兼壱をみた星悦は、やれやれと寒い溜息をつき、壁にかかっている『中華亭 ごっつぁんです』の品書きに目を移した。
しばしの沈黙のあと。
「はあい、みそラーメンの特盛二人前でーす。父ちゃんちょっと、手、どけて。」
「・・あ、おう・・」
兼壱は急いで手を引っ込めた。星悦は給仕に顔を向けた。
「あぁ、明子ちゃんも手伝うてんのか。大学はどうしたん?」
「今日は午前の授業が全部休講で、サークル行くにも時間があるから、少し暇つぶしに。」
「はあ、それで家業の手伝いか。感心やな。」
「おっちゃんも、食べに来てくれてありがとう。おおきに。」
次女の明子はやわらかな笑みをほほにうすらと浮かべた。
「・・あ、父ちゃん。母ちゃんが、ジャズのおっちゃんとは長い付き合いやし、確かにしばらくゆっくりと二人で話することもなかったやろから、今は好きにしなさいって。ただし、あとの皿洗いは全部ひとりでやることって言っとったで。」
「なに?」パッと兼壱の顔から青筋が消えた。
「そうかあ、あいつが折れたかあ。珍しいなあ、ハハ。よしよし・・分かった。いくらでも洗ったるわあ、て言っとけ!」
「はあい。」
星悦はしばらく、明子の後ろ姿をぼうっと眺めていた。
「――明石の上や。光源氏が惚れるのも無理はないなあ。奈美ちゃん似やもんなあ。」
「お前さ、さっきからヒトの子にニヤニヤして見とれてるけどな、あいつら、絶対お前みたいな、油が切れてひからびた四十の男やもめなんて、全く興味ないぞ。お前みてェなのの舅なんて絶対俺、なりたくないから。それから、あいつらは、俺似だ。」
「ただ賞賛しておるだけやんか。えらいヒドイ物言いやな。」
「うるせ。それとな、光源氏は、オレだ」
「ワケが分からん」
兼壱の前には、湯気立つラーメンがあった。味噌の香りが兼壱の目尻にしわを寄せる。
「・・・奈美子のヤツ、麺、うまくなったなあ。俺の方が絶品やけど、これもなかなか。」
豪快に汁を飛ばしながらラーメンに食いつく兼壱には、すっかり笑みが戻っていた。星悦はほっと安堵の息をもらし、イスに体を預け、自分もうまいラーメンをすすった。
「そういえば、兼壱、リューやんには会ったか?」
つるんと一本、いきおい良く吸い上げて。
「おう。ちょうど昨日な、鳴浜の方で会うたんや。お前の言ってた通り、元気そうやったで。そんで、改めて友情と約束の確認を取り交わした。ニヒ」
兼壱はニヤニヤしながら、レンゲでコーンをすくう。
星悦はタイミングを見計らって、言った。
「――兼壱、ひとつ言わせてもらうが、親同士の約束のために、子供の人生引っかきまわしたりすんなや。藤子ちゃんも、明子ちゃんも、あおいちゃんも、ほかにしたいことあったかもしれんのに。元気もかわいそうやで。あいつが嬉しそうに硬球持って歩いてんの、僕、実は見たんや、この前――」
ギロッとだるまの目が光る。
「なんやて?元気が、また野球やってるんか、コソコソと!」
しまった。隠そうにも、もう遅い。
「ちゃうちゃう、ちゃうって」
「じゃあなんや、チワワか?」
「そやない、体育の時間でな、あいつがソフトボールしているとこ見ただけや。勘違いすんな。あいつは、いつも放課後に、元気にチューバ吹いとる。」
・・あぶない。うっかり、口が滑ってもうた。
「フーン・・」兼壱は目を細くした。完全に見破られている。そのうち麺が太くなる。
「おっと、伸びてまう、食おう、食おう。」
食事を始めると、今までのことはすっかり忘れてしまう。
良かった。星悦は背中にへばりついた服をゆっくりひきはがした。
でもな、兼壱。
お前が、リューやんとの約束守りたい気持ち、分かるで。あいつと一緒に普門館の舞台に立ちたかったお前の気持ちは、僕も持っとる。
でもな、そのために五人も子供生んで、数打ちゃ当たるやろうって考えで、ボンボコ子供をみんな吹奏楽に放り込むのは、あかんで。親のやることやない。
兼壱。元気はな、チューバやのうて、野球がしたいんや。お前も分かっとるくせに。いくら約束でも、リューやん、こんなこと、望んでなんかおらんよ。な、兼壱。
「――そういやあ、玲子さんの話はしとったか、リューやん?」
「え?あ、いや、なんも聞いとらんけど。」
星悦は思わず溜息をついた。
「玲子さん、あれっきり、なんかなあ。」
「あれっきり、ていうても、もう十年近くも前やろ」
「せや。」
「まあ――しゃあないっちゃあ、しゃあないけど、でも劉介も、もう落ち着いたんやろ?せめて居場所さえ分かれば、連れ戻すこともできるのになあ。」
スープを飲み干し、アァ、と兼壱は声を上げる。
「・・あの時、やっぱり帰すんじゃなかったなあ。ところでよ、おい」
「何や。ポンポン話飛びすぎやで。」
「あのな」真面目な顔を、突然近づけてくる。「・・辰悦のことは?身元、分かったんか?」
茶を飲んでいた星悦は、またむせた。まわりを、そっと一瞥する。
「いきなり、なんや。こんなトコで話さんでも、ええやろ?」
「お前がカワちゃんのこと話すから、俺も喋りとうなって。」
「メチャクチャな理由やな」
星悦の吐息がスープを揺らす。
「――結果論から言うと、ハテナ、や」
「あんな、星悦」更に兼壱が身を乗り出す。「正直、ヤバイと思うで。家族に連絡もせんと、淀川のほとりで六歳の子拾うたまま、その子が高校生になるまで、何も身元を調べずに、自分の子として育てておる、って。ハタから見たら監禁やで?自宅監禁十一年。」
「オイ、僕はナ、なに不自由あらへんように育てておるわ。中学も高校も、行きたい所に行かせてる。もちろん、大学もそうするつもりや。それでなにが監禁やねん。」
「まあ安心しいや。俺、これでも法学部のハシクレやから、万一サツにニオわれた時はうまく法律の抜け道見つけて、救い出したる」
「こんな時に法学部か」
「こんな時こそ法学部や。ほかにラーメン屋の店長が法律使うとこあるか?」
「・・・兼壱、厨房戻れば?こんなヒマな話してるヒマあるんやったら」
「ヒマやないで。俺はナ、マジメに星悦のこと心配しとるんや。なんかな、正直言って、今、お前、いい息子に恵まれて、シアワセな生活真っ最中やろ?せやから、そろそろ、暗雲が立ち込めてくるような・・・」
星悦は箸を置いた。
「コトダマ、って言うやろ?それにな、兼壱。前にも話したけど、僕が辰悦の身内を探さへんのは、辰悦の要望なんや。・・凍てついた、冷たい子供の手のひらで握られて、オジちゃん、帰りたくない、って・・僕、辰悦の本名すら知らんのや。」
星悦の表情がだんだん陰っていく。兼壱は飲みかけたスープを口から離し、箸を置いた。
「あぁあ――スープがマズくなってもうた。」立ち上がる。
「兼壱」
「すまね、俺、やっぱ厨房戻る。俺のオゴリだから、好きなだけそこにいてろ。」
「あ、いや――僕も、そろそろ店に戻らないと、休憩時間、終わりだし・・」
「星悦」
「は」
「劉介のことも元気のことも、首突っ込まんでエエ。お前には、もっと身近に、もっとせなあかんことがあるやろ」
「――」
「そいじゃ」
兼壱のダルマの目はニコリと笑い、厨房にラーメンの空き皿を持っていった。