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第一楽章 宝島 (1)

 今後、すべての章のタイトルには、その章で中心となる吹奏楽曲の曲名をつけていくことにします。


 第一楽章はT-SQUAREの「宝島」。吹奏楽経験者なら一度は聴いたことはあるかと思います。シバリューなりの青臭いこの曲の解釈についていっていただければと思います。

                第一楽章  宝島

                      

                     1


 よく晴れたものだ。大空を泳ぐ鯉が本当に気持ちよさそうだ。憩いの森もロータリーの植込みの木々も、青葉の枝を大きく広げている。高校の敷地は鮮やかな緑で顔を染めて笑っている。

 大型連休が明けても、教室からも職員室からもまどろんだ雰囲気は消え去らず、昼休みの職員室では、教諭たちが土産話に花を咲かせていた。

 久しぶりに実家に帰ってくつろいだ話。慰労の為に温泉に行ったはずが、行き帰りで大渋滞に巻き込まれ、目的地でも賑やかな連中が風呂を占拠していて余計に疲れた話。東京に行った、四国に行った、話の内容は十人十色。

しかし、そんな話題もどこ吹く風で、参考書と石器で埋もれた机に向かって、黙々と一人遊びをしている教諭がいた。壁にもたれて談笑していた大西は彼に目が止まり、話していた田岡にそっと耳打ちをした。

「ねぇ、先生―――斯波先生、さっきからずーっと静かになんかしてはりますけど?」

 大西の言葉に、田岡はさしたる反応は示さずに。

「あー斯波先生なら、またどっかの博物館でハニワ買いはったそうですわ。」

 大西先生は目を丸くした。

「ハニワ。また?てか斯波先生って買わはらへんでもハニワ、ようけ持ってはりますやん。」

「あー、『たける君と仲間たち』やろ。今度のはデイヂーらしいて。」

「デイヂー。」

 二人は、花輪を巻いたハニワを頬擦りする斯波の姿を、しばし眺めた。

「それよりも大西先生。」田岡は声を潜めて言った。

「斯波先生、今年から吹奏楽の顧問になりはったやろ?まぁ、うちの吹奏楽は、こんなん言ゥたらアレやけど、存在価値の見当たらん部活やし、離任された小林先生もそないにやる気のあらへんヒトやったけどな、ちょっと斯波先生には務まらん気がするんや。――いや、生徒がどうのこうのって話じゃない。なんつぅか――はっきり言ゥて、斯波先生――あまりにも変人すぎんか。」

「いや先生、それは言いすぎですわ。・・まぁ、確かに斯波先生はここに来てまだ二年ですから、この学校に慣れてはらんかもしれませんけど、でも先生、去年三年の日本史の個別指導して、第一志望に合格させたやありませんか。ミテクレは変かもしれませんが、技量はほんまもんやと私は思いますけど。」

 自分の意見に同意が得られなかったためか、田岡は顔をしかめた。

「でも、それはそれ、これはこれですよ。吹奏楽の顧問はハニワと遊んどいていいだけやないんです。生徒一人ひとりの技術を高めるサポートをせんとあかんし、コンクールでは指揮も振らんとあかんのですよ。吹奏楽の生徒の中にも、例えば古河とか、真面目に頑張ろうとしている子もいるんです。経験の薄い教師が顧問になったら、そんな子はやる気をなくしてしまうんとちゃいますか?」

 大西は、肩にかかった髪を優しくかき上げ、やわらかな笑みを浮かべた。

「顧問になりはって一ヶ月たちましたが、何の問題もないようですから、生徒にも結構ウケがええんとちゃいますか?それに、聞いた話では、斯波先生―――あの永岡先生の教え子らしいですよ。」

 田岡の動作が一瞬止まった。目を見張る。

「永岡先生て・・・あの、永岡先生?」

「ほかに誰がいはります?」

 大西は声爽やかに田岡に尋ねた。

 田岡は押し黙って、もう一度、何気なく斯波の方に目をやった。

 斯波はニタニタしながら、自作の土俵でたけるとデイヂーに相撲を取らせていた。

 


 五月晴れの日には、外に出て弁当箱を開くのがいい。そう思っていると、ほら、真っ白な講堂の外に生徒が集まってきた。

 彼らはここ県立新天高校の吹奏楽部員だ。

 最初にコンクリートの講堂前の地面に腰を下ろしたのは、爽やかな笑顔が印象的な細身の男子と、肩をすくめて背筋の曲がり、やたらと周りを見回す男子の二人組だった。

「それでさぁ・・・」肩をすくめた男子は座り切る前に話の続きをし始めた。爽快な男子は彼の話に熱心に耳を傾けている。

「今年のコンクールの代表校の予想ですよね?」

「そうですわ。」肩身の狭い男子は顎をゆっくり前に突き出した。頷いたらしい。

「問題は、関西代表なんでえ。」

「どうしてなんですか?」

「だってほら、コンクールにはさ、三回全国に出たら次の年は出られないっていう決まりがあるでしょ。そのせいで今年は清流が出られないから、関西代表の席が一つ空くわけ。」

西原(さいばら)商業と、九重南と、あと一つってことですか?」

「そうですわ。」肩をすくめた男子は顎を突き出した。「兵庫は強豪が多いからな。明石第一だとか、県立衣笠(いかさ)(がま)とかがそこに入るかもしれない。でも大阪の涼泉や京都の御所ヶ原も外せないし、この四校が横並びとなると、いよいよどこが行くのか分からないねええ。」



 ―――いずれ話さねばならないので、ここで一旦休憩して、吹奏楽のコンクールについて話をしようと思う。

 まず、吹奏楽コンクールのスタートは地区大会だ。その上に県大会、地方大会と続き、頂点が東京の普門館で行われる全国大会だ。地区は七月の末にあり、県は八月上旬、地方は下旬、そして全国は十月に開催される。

 次に表彰の仕方だ。まず、プログラムの全団体の演奏が終了すると、A、B、C、Dで評価された各団体の審査の集計がなされ、その後審査発表が行われる。発表では全て団体に「金賞」「銀賞」「銅賞」が贈られる。だから、「銅賞」といっても、決して三位という意味ではないのだ。そして、全団体の表彰が済み、それぞれが三賞のどれかを受賞したところで、次の大会の代表校が発表される。この代表は「金賞」受賞団体から選ばれる。つまり、「金賞」を取っても代表になれるとは限らないのだ。少しややこしいかもしれない。ここで惜しくも代表から漏れてしまった「金賞」のことを、俗に「カラ金」とか「ダメ金」とか言ったりする。

 県立新天高校の場合は、最初が西阪神地区大会、次に兵庫県大会、関西大会、全国大会へと駒を進めていくことになる。



 背が曲がり肩をすくめた男子が熱心に今年のコンクールの代表校の前評判を話していると、四人の女子がその横に座り込んだ。

「オリさん、またコンクールの話してんの?飽きへんなぁ。あ、おっす、リッちゃん!」

「こんにちは。」横川律人は爽やかな笑顔で、おさげ髪の女子に会釈をした。

 そのおさげ髪の子の横の女子は、オリさん――織田光慈の話に興味を抱いたようだ。

「清流が出ないって、本当?」

「ほらカオル、こんな奴相手にしちゃダメやって。こいつの頭はブラバンでぎっしりなんやから。」

「いわゆる、ブラバンオタクさあ。」

 その横の女子が弁当箱を開きながら、からからと笑った。眉毛の曲がり具合が絶妙だ。

 おさげは続ける。

「この前も今年の課題曲の話ずーっと聞かされてさぁ。ほら、何やったっけ、パ――なんとかっていうの、ほら、あれ。」

 オリさんは、もじもじしながら。

「『パクス・ロマーナ』だよぉ。」

「あーそれ世界史で今日習った!『ローマの平和』でしょお?」

 垂れ眉の女子は、箸を片手にキャッキャとはしゃいだ。

「そう、そのパクス何とかが、ローマ帝国の軍隊をテーマにしただのどうのこうのって、問わず語りで延々と聞かされて。正直ウンザリしたわ。」

「・・・・聞かしたんじゃぁ、ないよぉ、あれはあ――独り言だもの。」

 弱々しい声に少し抑揚をつけて、オリさんは言った。強く言い返したつもりのようだ。

「独りで課題曲のことぶつぶつ口にしてるのも、結構問題よね。」

 髪を頭のてっぺんで団子に結んだ女子が、エビフライを箸で摘みながらさり気なく口にした。逆三角に縁取られたレンズが光る。

「さすがコード、なかなか言いますねぇ。」

 おさげはおむすび片手に満足そうに笑った。

「清流が出ないって、本当?」

 おさげの横の子がまた訊いた。

 オリさんはもじもじしながら。

「・・ええ、そうですよ。」

「そうなんだ・・・。」

 その子は小さく溜め息をついた。

「・・でも、あの学校はマーチングにもお、取り組んでいるし、コンサートもたくさん開いているから、暇になることはあ、ないんじゃあないかな。」

かばうようにオリさんが言った。 

 空に、一直線のヒコーキ雲が流れている。おさげはそれを見上げて、やりきれない笑みを浮かべた。

「――ま、コンクールのこといくら話したって、ウチらには関係ないよ。どーせ今年も銅賞だし・・・・」

「曜子ちゃん。」

 垂れ眉は急いで口を挟み、おさげにだけ聞こえる声で、カオルと呟いた。

「あ―――」おさげは顔色を変えて、垂れ眉と反対側の自分の横に座るその子を見た。

「ごめん・・・・カオル。」

「いいよ、そんな。もう忘れたし。」

 カオルはせわしく手を横に振った。複雑な笑みを浮かべながら。

 カオルは、二年前の春、私立の清流学院高校を受験した。進学校であるだけでなく、部活動も盛んで、バレー部を始めとして運動部は近畿大会の常連であり、吹奏楽は全国経験もある強豪校だ。これほどの好条件が整い、しかもカオルにとって手が届かない学校ではなかった。

 だが、カオルは落ちた。新天高校に入学後届いた成績通知。一点差で散った夢。

 なにやってるんやろ、わたし。

 この前、曜子の誘いで清流学院の定期演奏会に行った。立ち見が出るほどの大盛況。ステージに立ち並ぶ部員のオーラ。指揮棒が振り下ろされた瞬間、多彩に、壮大に繰り広げられる音の祭典。

 ・・マジ、ヤバイ。

 曜子の感じた震えは、カオルにも伝わってきた。繊細なフォルテ、重厚なピアノ。今の自分には到底真似できない、巧みな表現力。

 その中で特に光っていたのは。哀愁と滑稽さを見事に吹き分けた、アルト・サックスのソロ。その透き通った音色に、二人はあっという間に吸い込まれた。

 七色サックス。曜子が呟いた言葉。

 今もカオルの目の前に鮮明に映し出される。そして必ずそれについて来る思い。

 なにやってるんやろ、わたし。

 カオルの気を察したかのように、おさげの曜子がため息をつきながら言った。

「――でも、ほんまに上手かったなぁ、七色サックスの『愛を奏でて』。」

「七色って、なんですか?」律人が尋ねる。

「清流の定演でソロ吹いてたサックスの男子のこと。」

「あ、それ、千林君やろ?あの人ウチらと同い年らしいで!」垂れ眉が話に加わる。

「うそぉ!プロ級に上手いで、あの人!」曜子が目を丸くする。

「千林――あぁ、確か清流の顧問の実の息子ですよね。」オリさんも続く。

「めっちゃイケメンさあ。」垂れ眉の未来(みく)はうっとり目じりが垂れている。

「まあ・・・」三角縁の和音(かずね)はあくまでマイペースだ。「確かに、ここのブラバンは清流の比になるはずもないし、カオルが失望するのも仕方のないことよね。」茶に口を添える。

「おいおい部長が言っちゃああ・・・。」オリさんはもじもじしながら。

「コードの言う通りさあ。」未来が手を高く上げて和音に賛同した。

「部員少なくて楽器そろわないし、練習場所の講堂は暑いし寒いし苦情来るし、おまけに

顧問は・・・」

「そう、それ!」曜子が未来に向かって指を差した。「だいたいシバリューってさあ、」まあ面白くて授業も楽しいし生徒のことよく分かってくれるけど、と早口で付け加えて、

「吹奏楽の指導能力、ないでショ?」

「確かに、小林先生と交代してから今まで、一度も顔を出さずにただ基礎練やれって言うだけで、まだコンクール課題曲も何も配っていませんからね。」律人が苦笑いした。

「シバリューは今までハニワばっか相手しとったから指導の仕方分からんのはしゃあないけど、副顧問のカイリューは前からいるんやから、なんかすりゃええのに!」

「何や、ポケモンみたいやね。」未来が笑う。

「貝原先生は、小林先生がいたときからずっと事務の仕事ばっかりやらされていたから。」

 和音は静かに茶をすする。

「はあー」未来はおおげさに肩を落とす。

「先生がやる気ないんやもん、今年もどうせコンクール無理さあ。出場料の無駄やって。それ使わないで毎年貯めていったら、新しい楽器一本ぐらい買えるんじゃない?」

「そんなこと言っちゃあ・・」オリさんはもじもじしながら。「小林先生は、コンクールは賞じゃない、出ることにィ、意義があるんだってぇ、言っていたしぃ・・」

「意義。何が意義?大会出ても何一つ得るものなんてあらへんやん。」曜子が口を尖らす。

「そうね。あえて言うのなら、劣等感、あきらめ、仲間割れ・・・」

 和音が指折り数えていると、駐車場のほうから内股で走ってくる化粧女が見えた。とたんに曜子と未来の顔が渋る。

「来た来た、ペンキ女・・・」

「超バッドタイミングさあ。」

 ペンキ女、と密かに名づけられた女子は、五段の石段をヘロヘロになって昇り、アクセサリーを山ほどぶら下げた黒いカバンをジャラジャラ揺らしながら、和音と未来の間にヘナヘナと座り込んだ。

「ぐぁ~、すーがくの小てすとほんま疲れた、あ!」

 語尾をヤケに強調する口ぶりがヒジョーに特徴的で、聞く側の癇に障る。

「ねえ聞イてヨォ未来ちゃ、ん!」

「はいはいはいはい、一体何さあ?」

 未来が眉間にしわを寄せても、相手は全く彼女の嫌悪感に気がつかない。アクセサリー好きの女子は、マスカラを塗って大きくなった瞳を、嬉しそうに輝かして。

「璃紗すーがくほんまあかんワァ!いや、マジで!五問中三問以上正解で合格の小テストさあ、十回も0点とったんやから!そしたらニシダが、西園寺、お前はもうべんとうくっていいぞ、っていってくれてえん。すごくなくなくない?璃紗0点しかとってへんのに補充ぬけだせてんで、え!」

さも自慢げに彼女は語る。

「十回も課題作った西田先生の方がすごいわ。」

 曜子はよく通る声ではっきりそう言った。とたんにアクセサリー好きのネコ目が曜子をギロリと捕らえる。

「トダさんにはしゃべってへんわ!かって話にはいってこんといてや。マジキモイ、イ!」

「『キモイ』なんちゅう言葉はな、自分の顔見てから言うもんやで。」

 曜子は何のダメージも受けず挑戦的な笑みを浮かべて言った。

 ネコ目は意外と気が弱い。言い返せないくらいの傷を負い、スグに丸くなって、優しいかわいい後輩に援軍を求めた。

「ねェリッちゃあん、なんかいいかえしてよう!璃紗なんもわるいこといってないのにィ、なにあいつゥ、ほんまムカツクゥ!」

「まぁ、まぁ・・・気にしないことですよ。」

 ハハッ、と律人は愛想よく笑い、曜子にも恐る恐る会釈して、公平な立場を表明した。

「ところで」元気は?和音がオリさんに問いかけた。オリさんはスパゲティをずるっと吸い上げて、モゴモゴしながら言った。

「さぁ・・・今日は見てないですがねええ。彼もまたあ呼び出しなんじゃあ、ないですかね。」

 ふう。和音の紅茶に波紋が広がる。

「最近よく野球部の練習に混じっているのを見かけるの。バカな考え巡らせていなきゃいいんだけど・・・。」

「あのさあ。」璃紗が見ていた鏡を閉じて言った。

「こんどから、璃紗たちのこもんかわったんでしょお?だれだったっけ?」

「え?」カオルは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに腑に落ちて、答えた。

「あぁ――斯波先生?」

「グエ~ッ、シバリューなん?ウソォん!璃紗にほんしの小テストの補充まだいってないのにィ・・」

 この世も終わりのようだ。彼女にとっては。

「お前そういや、四月からクラブ来てなかったもんな。」と曜子。

「あ、そうそう先輩、斯波先生って、県新吹奏楽部のOBらしいですよ。」

「えっ?」

 今度は曜子と未来とカオルの三人が目を見開いた。

「あ――そんなこと聞いたことあるわ。」和音は最後に残した玉子焼きを食べる。

「どういうことどういうこと、それ?」

「なんか、鏑矢さんに聞いたんですけど、昔、永岡先生って、吹奏楽界で名を馳せたすごく偉大な先生が県新のブラバンの顧問してはった時があったらしいんですけど、それで県新が初めて全国に行った時、鏑矢さんと斯波先生、二年生だったそうですよ。」

「ええっ、ジャズのおっさんが?シバリューと同級生?」と曜子。

「リッちゃん、斯波先生って何の楽器吹いていたの?」とカオル。

「トランペットだそうです。」

「ねぇ・・」

「全国ってさ、普門館やろ?すげえシバリュー!」

「普門館のステージってさあ、黒光りして自分の顔が映るんやろう?」未来は興奮して。

「永岡先生て、今どこにいるの?」とカオル。

「ね~え・・」

「ええと、確か神戸の方の学校に飛ばされてえ、何年も前にい定年したらしいですよお。」

「青海高校ね。それと、清流学院の千林先生は、斯波先生と同期の部員だそうよ。」と和音。

「青海って、昔は全国の常連校だったところじゃなかった?」とカオル。

「うわあ、すげえ、じゃあさ、今年はさ、永岡先生の教え子対決が見られるってことやな。んー、なんかウチ、わくわくしてき」

「んもぉ、きいてよォ!璃紗怒るよッ。それでさあ、シバリューってェじゅぎょうとかきびしいから、やっぱりれんしゅうとかキツくなるんかなあ?やったら璃紗、バイト出来んくなるからめっちゃこまるゥ!クラブやめんといかんくなるわあ。どうしよう?」

「えーやんえーやん、あんたがクラブ辞めたら、クラブもっと楽しくなるし。決定はお早めにな。」曜子は嬉しそうだ。

「うるさいッ」璃紗はふくれっ面をして怒鳴った。

 ちょうどその時、威勢のいい、よく通る声がカオル達の後ろからした。

「オーッス!」

 未来が振り向いて、

「あ、元気君!」

「久しぶりやなあ、浜岡。どないしたん?」

「お、知りたいか知りたいか?俺な、今まで野球部の整備手伝っとってん。今野球部の体験入部やっとんねんけど、俺さ、動きがいいって先輩に褒められてん。入ればレギュラーも間違いなしかもな、ハハッ」

「え、ってか浜岡って、運動神経良かったんやね。文化部やのに。」

 嫌味を嫌味と感じない璃紗は、ソーセージを食べながら平凡な声で感想を述べた。

「すごいですねえ、先輩。」律人が爽やかに言った。そのせいで元気はますます図に乗って、

「やろ?見てろよお前ら、夏には県新野球部のエースになって甲子園からテレビ越しにみんなに手ェ振ってやるからよ!」

「エースって、浜岡君ピッチャーなん?」

「ほっとき未来、自己陶酔、自己陶酔。」

 曜子は垂れ眉の下の目を真珠のように輝かせる未来をなだめた。

「元気。」和音が普段より大きな声で口を挟んだ。思わず元気の姿勢が改まる。

「本当に野球部入る気なの?聞いた話だと、野球部って運動部の中でも一番練習が厳しいらしいよ。」

「心配はいいですよ、部長。」元気はおどけて答えた。「俺は好きなことは多少しんどくても手を抜かずに地道に努力するタチなんです。」曜子たちの方に向き直って。「お前らも、俺をバカにするのも今のうちだけやぞ。すぐにでも甲子園で俺がバットを振る姿が見られるようになっからさ!」

「それって、三振ばっか、てこと?」

 とたんに元気の甘栗頭が焼き栗みたいに赤くなった。

「ちげーよ!そー人のことバカにすんのいい加減にしろよ、戸田!」

 元気はそう言って、ふとロータリーの横の時計を見た。

「みんなもそろそろ急がんと、五時間目間に合わんようになるで。んじゃ、ブラバンのみなさん、お達者でえ。俺は今日から野球人だァ!」

 元気はちらりとカオルの方を見て、ニッ、と浅黒い顔に満面の笑みを浮かべた。カオルは思わず目をそらした。頬が少し赤らむのが分かった。

「ちょっと、なんなら退部届は?」和音が叫ぶ。

「さっき置いときました。」

「どこに?」

「貝原先生の机の上。」

 和音が顔色を変えて口を開いたのを、元気が出鼻をくじいて。

「後始末は宜しくお願いします。んじゃさよなら!」

 足音に比例して後ろ姿がだんだん小さくなっていく。

 和音は立ち上がった。

「私――ちょっと音楽準備室行ってくる。みんなはもう戻ってていいから。」

 曜子が眉をひそめる。

「え?コード、どうする気?何したって無駄やって。」

「でも、退部届だけは先生来る前に取り戻してくる!元気のお父さんにバレたら、厄介なことになるでしょう?」

 そう言って、和音は弁当箱を片手に、足早に講堂の横にある音楽棟に消えていった。

 璃紗は立ち上がり、んーと両手を伸ばしてのびをした。他の人もつづいて弁当を片付け、歩き出す。

「浜岡先輩がいなくなったら、チューバどうするんでしょうね。」

 ひょっこりと律人が後から顔を出すと、曜子はさあねとだけ言った。

「オリさん、浜岡の担任――誰やったっけ?」

「世界史の田岡先生ですわ。田岡先生、浜岡君とこのラーメン、大好物ですからねえ。浜岡君が野球部に転部したことが田岡先生に知れたら、すぐに浜岡君のお父さんの耳に入りますねえ。」オリさんは肩をすくめた。

「でもさあ、元気君が野球やったら絶対かっこいいさあ!甲子園もなんかもうお隣さんみたいに近くなった感じやね。」

 未来の真珠の輝きは璃紗にも伝染する。

「まあ浜岡はべつにきょうみないけどお、でも野球部が甲子園いったらブラバンでおうえんいけるから、ヤッパリがんばってクラブつづけちゃおうかな、あ?守口先輩が間近で見られるチャンスかもしれないし。ああ、最高―ん!」

「のんきやね、あんたらは。」曜子は呆れて後を振り返った。

 その直後、予鈴が鳴り、生徒達は慌ててロータリーを回り、校舎へ走っていったのであった。






 石畳に映るソテツの影が、少し傾いた。玄関から稚魚の大群のように出てきた生徒のも今はまばらとなり、目の前の白い講堂から、ブーだのピーだのペッポーだの、不規則な音楽が飛んでくる。ブラバンが音出しを始めたのだ。

 CDを再生させる。換気扇が回り、ライターの火が光り、シューッと白い煙が勢いよく流れては消える。斯波の耳には、在学の時と変わらないかまびすしい音の応酬が飛び込み、

瞳には、昔のままでいてくれた白い講堂があった。

 長いこと止めていた煙の味が、最近むやみに欲しくなる。胸の奥からムズムズと、何かが這って出ようとする感触に襲われると、昔はいつもタバコを手にしたものだった。ただしそんな時は、斯波はいつも指に大事にはめている指輪を、静かに外すのであった。

 扉が開く。大柄な男性が入ってくる。眼鏡の奥の冴えた瞳は、楽しいのかも怒っているのかも、なんの感情の機微も示さない。斯波はこの瞳に見られるとつい喫煙に集中して、吸い過ぎてよくむせるのだが、今日の男の瞳は、どこか柔らかな感じがした。

「――あ、すみません。勝手にCD借りてます。」

「どうぞどうぞ、おかまいなく」

 男は静かにプレイヤーに耳を澄ませる。

「――『五月の風』。九七年の吹奏楽コンクールの課題曲ですね。これは――そうか、青海高校最後の普門館での演奏。指揮は永岡憲吾氏。氏の最後の指揮でもありますよね。」

 斯波は男を見た。

「当たりです。よく聴かれるのですか?」

「ええ、まあ。前任の小林先生が永岡氏指揮の演奏のCDをよくお聴きになりまして、それで自然と演奏曲に関する事柄が私の記憶の中にも入ってきまして」

 題名にふさわしく、颯爽と駆け抜けるような伴奏に、メロディーの木管が軽やかに乗っかって、新緑の朝を優しく描く。

 朝、か。

 オレンジ色に映える灰皿に、タバコを押し付ける。

 夕焼け空には、合わないよな。

 それでもCDは止めない。

「――貝原先生、そろそろ、話して頂いてもいいのでは?」

「何のことです」

「おれ――いや、僕を、地歴公民科で音楽とは無縁の男を、どうして吹奏楽部顧問に推薦なんか、されたのですか?」

 男――貝原の目元と口元が緩む。

転調して、トリオが始まる。クラリネット単独の親しみあるメロディー。

「いえ、そんな大したことじゃないです。先生は突出した素敵なユーモアをお持ちの方ですから、そんな面白い人が作る音楽ってどんなのかなあ、って思っただけですよ」

「今の僕が作る音楽なんて、大したものじゃないですけどね。」 

 斯波はタバコを取り出しかけて、すぐに戻した。

「――でも、正直、吹奏楽部の顧問になれるなんて夢にも思ったことがないんで、すごく嬉しいです。」

 貝原は黙ったまま、机に向かい、パソコンの電源を入れた。

「そんなことおっしゃって」

 貝原の口元がかすかに緩んだ。・・笑った?

「・・はい?」

「先生、実は音楽と近しい関係なんでしょう?」

課題曲が終わり、自由曲に移る。

 どことなく不吉な響きが、勢いよくクレッシェンドされる。

 トランペットのファンファーレが高らかに鳴り響く。

 斯波の顔が思わず歪んだ。

レスピーギ作曲『ローマの祭り』より、第一曲・チルチェンセス、第四曲、主顕祭。吹奏楽コンクールでは定番の曲目だ。そして斯波にとっては―――

「え・・」

「音大に通っていらした頃から、顧問になることだけを考えて生きてきたらしいですね。ある人から聞きました。」

 トランペットのファンファーレと、盛り上がっていく短調の重奏。

 換気扇から、もくもくと白い煙が一続きに流れていく。

「どうして、そんなこと―――」

 貝原の瞳から真意が読み取れない。一気に吸い込まれそうになる。

 危ない。

とりあえず、急いで時計に目をやった。

「――あ、すみません、申し遅れました。」

 斯波は咳き込みながら話を切り出す。

「――何をですか?」

「僕、今日用事がありまして。申し訳ありませんけど、戸締りよろしくお願いします。あと、白鳥にこれのコピー頼んでおいて下さい」膨らんだ茶封筒を差し出す。

「明日は午前中を使ってその合奏をすると伝えておいて頂けますか。」

「しかし、土日に部活動をすればこの部の保護者会が黙っておりませんよ」

 斯波は思わず笑みをこぼした。

「それを片付けるのが先生のお役目でしょう私は素材調べのために時間が必要なんです。それでは。」

 貝原に話す隙を与えないまま、斯波は逃げるように準備室を去った。

 後に残された貝原は、やれやれと疲れた顔をしたが、何かを思い出してか、にんまりと静かな笑みを顔に広げた。 


 


 鍵を開け、銀色の愛車に乗り込む。

 車内の空気は、いささか淀んでいた。窓を開け、MDをまわす。

 エンジン音とともに、トランペットの銀色の音が響く。

 ウィナーズ――吹奏楽のための行進曲――

 無伴奏の中光るソロトランペットが、ホルンやオーボエを引き連れ、やがてクラリネットの優しい、コラールのようなメロディーに落ち着く。

 二〇〇三年、吹奏楽コンクール課題曲、第一番。今から二年前のことだ。

 東京の普門館に響き渡る、黄色い音、純白の音、淡い音、太い音。

 トランペットのファンファーレが、次第に熱くなってくるメロディーの後で、弱く、しかし存在感をはっきり示しながら、トロンボーンによる最初のメロディーを導き出す。

 斯波は万華鏡のように表情を変える音楽に聞き入りながら、しかし、両手はぎゅっと、ハンドルを余計なほど強く握りしめていた。

 先生、実は音楽と近しい関係なんでしょう?

 俺が音大を卒業したこと、あの先生、知っていた。

 斯波は自分の手が煙草の入ったポケットに伸びていることに気づき、急いで引っ込める。

 貝原先生。

 あの人、昔の俺のこと、知っている?

 「ある人」って、一体誰なんだ?

 俺が音大入ったこと知っているのって、星悦と、兼壱と――あと二人。

 一人は、俺が過去を忘れることを望み、陰で俺を嘲笑う、千林裕也。

 もうひとりは、俺を過去にいつまでも執着させる、あの日以来ウツツから跡形もなく消え去った、恋人にして最愛の妻・玲子。

 俺はかつて、この二人の姿が脳裏をよぎるたび、気が狂いそうになったものだが、いつの間にかその影は薄れ、今の今まですっかり忘れていた。それが、あの曲を聴いたとたん、全てがよみがえり、俺に突然襲いかかってきた。

曲が最高潮を過ぎ、バンド全員で奏でた重厚な響きが、再び、ただ一本のトランペット、そこに回帰していく。

突然よみがえる金管のファンファーレ。終止符の前、低音のベーの音が曲を締めくくる。

千林。俺はあいつを今でも許せないのだろうか。

玲子。俺はまだ許されないのだろうか。

俺はまだ、過去から離れられないまま、今に至っている。

――永岡先生。やっぱ俺、吹奏楽に戻ってこなかった方がよかったのでしょうか。

リピート再生で、ソロトランペットが再び響きだした時、開け放った窓から全く同じ旋律が飛び込んできた。

ステレオだ。

斯波は思わず車線から外れ、広くなった場所に車を止めた。車は衣笠釜市との境、嫁川まで来ていた。

MDを止め、河川敷から響くトランペットの音源を探す。

いた。橋梁の柱に寄り添うように立つ、学生服姿の男。斯波はあっと声を漏らした。

あの子は、星悦の店にいた―――そうだ、確か、鏑矢辰悦という名前の。

辰悦は離れた車道にいる斯波の存在に気づかずに、クラリネットの旋律を軟らかく奏でる。斯波は車の横にたたずんだまま、包み込むような音色に聞きほれていた。

辰悦は自分の音を確かめるように目を閉じて、ウィナーズのメロディーを独奏し続ける。

・・・。

きっと、優しい性格なんだろうな。星悦によく似て、周りを和ませ、心地よくさせる雰囲気を、彼もまた備え持っているのだろう。

斯波は思わず身震いがした。

生まれながらのトランペッターって、こんな奴のことを言うんだ。

なんだか、すごく、快い。

俺、やっぱり音楽が好きなんだ。それでも、吹奏楽が好きなんだ。

・・永岡先生。俺―――

一曲を吹き終わり、辰悦はふと車道の方を見上げた。

銀色の車が一台、沈み行く夕日を浴びて、松明のように川面を照らして川縁を走り去り、消えていった。


 ――静かなところへ行きたい。

 川辺は闇に包まれようとしていた。

 静かなところへ行って、あの音を再生したい。

 斯波はハンドルを握り、ただそれだけを考えていた。

 嫁川の河口辺りまで来て、斯波は車を止めた。周りは既に色を失い、点々と家屋の明かりだけが、とうろうのように浮かんでいる。

 斯波は車の窓を開け、シートをゆっくりと倒す。

 無音の空間の中、心の音が、次第に鮮明になって聞こえてくる。

 

 ド――シ――ソド――・・、ソ―ド―レッミファ―ミ―レ―――、ド―ミ――・・

 

 真っ暗の舞台の上で、辰悦のトランペットだけが、光を浴び、喨喨と響いている。

 斯波はもう一度繰り返す。『ウィナーズ』の最初のトランペット・ソロを。

 ド――シ――ソド――・・

 すると、辰悦にだけ当たっていたスポットライトが、だんだんと大きく広がっていく。

 ホルン。トロンボーン。オーボエ。フルート。そして、クラリネット。やがて、スポットライトはバンド全体を柔らかく照らし出す。その楽団の視線を集め、中央で指揮を振っているのは、斯波自身だった。

 すごいな。

 斯波は目を閉じながら、心の中で呟いた。

 あいつのトランペット。あの音から、全ての楽器の音が生み出され、ある楽団の一つの音楽にまで発展していく。あいつのトランペットは、音が鳴ったその瞬間から、その曲の合奏の全体像を描いているんだ。

全体の音が想像できる。バンドの響きがひしひしと伝わってくる。

あいつとなら・・・俺は叶えられるかもしれない。

あいつの音楽に俺が本気で挑めば、誰にも劣らないアンサンブルが引き出されるに違いない。

 斯波の目に映っているのはもう、一人のトランペット奏者ではなかった。ホールに響きわたる、勝者を讃える厳かなコラール。それを演奏する、一つの楽団だった。

 でも、なんだろう。あいつのペットの音・・・快いのに、どこか胸に引っかかる。

「ブーッブー!」

 眼前の演奏会の情景が、あっという間に引き裂かれる。なんの愛嬌もないクラクション。驚いた斯波はハンドルに頭をぶつけた。

「おい、寝とんのか、アホンダラ!一本道に堂々と車止めンなよ!非常識やろ!」

 この後は洪水のような罵声が飛んできたが、斯波はその内容より、声色に注意深く耳を傾けていた。

 威勢のいい、太い声。これは・・

「おい、オッサン、目ェ覚ませ!」開いた窓から太い腕が伸び、斯波の胸座をつかみ上げ、懐中電灯を斯波の顔に押し付けた。

 しかし、斯波の顔を見たとたん、腕の主はあっと声をあげ、急いで腕を放した。

 斯波は彼の姿を見て、思わず笑った。

「オッサンは、お前も一緒だろ?兼壱。」

「・・・劉介か?」




 

 月のない空に、小さな星が点々と現れる。

「――何でこんなところ運転してたんだ?」

「知り合いの店に、ラーメンを届けて来てん。あ、俺、横丁商店街でラーメン屋やっとるから。」

「ああ、星悦から聞いたよ。行こうと思ってたんだけど、それどころじゃなくて・・」

 ほい、と兼壱は車の中にあった水のペットボトルを斯波に投げる。こういう時はコーーがよさげやけど、どうもカフェインはダメでよ、ちょっとでも飲むと眠れねえんだ、と苦笑いを浮かべる。

「それどころじゃないってえと、やっぱ――ブラバンか?」

 斯波は肩をすくめながら、笑って頷いた。

「音大でもペットしか吹いてなくて、指揮なんて初めてなのに、今年の夏はコンクールで指揮を振らなきゃいけないなんて、ひどいよな?」

「でもスゴイで。顧問なんてそうそうなれるものじゃないもんな。コンクールの自由曲はもう決めてンのか?・・やっぱ、『祭り』か?」

 兼壱はマジマジと劉介を見る。斯波はペットボトルに口を当て。

「いや・・今のレベルから言うと、まだあの大曲は無理だな。いいのか悪いのか、うちの部は三年生がいないから、来年もほぼ同じメンバーを組んでコンクールに出られるから、今年の夏は、とりあえず小手調べ、っていうことで、来年、イケそうなら、自由曲に選ぶ。」

「じゃあ・・・自由曲に選ばないってことも、あるんか?」

「かもな」

 兼壱は黒い川に目をやり、弱い声で、劉介、と呟いた。

「なに」

「・・いや、劉介、なんでここにおったんかなぁ、と聞きとうなって。」

「あぁ・・」言われるとそうだ。家と正反対の方向へ、どうして車を走らせて来たのだろう。静かな場所なら、いくらでもあるはずなのに。

「辰悦君、だっけ」

「え」

「星悦トコの子」

「あぁ――辰悦や」

「さっき河川敷で吹いてた」

「へえ」

「音聞いたとたん、身震いがして。しばらく、車止めて聞いてた。」

「ハハ・・劉介もかよ」兼壱の白い歯が闇に映える。

「俺も、って」

「いやさ、俺も前に星悦の店で吹いているの耳にしてさ。確かにビビるよな、あいつのペット。ペットのお前が言うんだ、実力はほんまもんなんやろな。」

「――なんだか、面白くなってきた。俺」斯波は水を含み、星夜に流れる風を見上げた。

「あいつの音聞いてたら、まわりで演奏する仲間の音も聞こえてきたんだ。俺の耳の中で、何度も広がった。あいつの生み出した、完成された音楽が。あの音楽の響き、あの雰囲気を、俺、他のやつらにも聞かせたい。俺があいつの音楽を引き出すことが出来れば、きっとすごいことが起こると思うんだ。」

「具体的には」

「・・・・」

 思わず兼壱を睨む。兼壱は小さく笑い、せせらぎに視線を戻した。

「俺、心配してたんだ。お前のこと」

「まさか」

 兼壱の芝居じみた口調に斯波は笑ったが、兼壱の表情はやわらがなかった。

「俺な、お前が大人になって、綺麗な奥さん貰って、可愛い子供に囲まれて、幸せな結婚生活なんていうぬるま湯に浸っているうちに、辛酸を嘗めて誓うたあの約束を忘れてしまうんじゃないかって、心配やったんや。」

「兼・・」

「もちろん、俺がお前が幸せになるのを妬んだ訳やあらへん。エエ大人になった今さらに、高校時代の約束覚えてるかって聞くのも、バカバカしい。よぉ分かってる。でもな」

 高校三年の夏、県新を最後に去った日がよみがえる。

 上履きから譜面台から何まで、全てを鞄に押し込んで、誰の迎えもない朝。手には楽器ケースを提げていた。

 劉介。

 講堂のほうから声がする。振り返る。兼壱と、星悦。

 兼壱は会うなり、いきなり頬を殴ってきた。

 ケンイチ、何するんや。真っ青になる星悦の顔。

 劉介。兼壱に睨まれる。

 逃げたら、今度こそブン殴る。

 もう殴ってんじゃないか。俺が頬を押さえながら笑って起き上がると、兼壱は急に顔を歪め、涕を流し始めた。

 ちょちょっ、ケンイチ、大丈夫か?慌てる星悦の顔。

 劉介。兼壱が水気の多い声で言う。

 普門館、行けよ。俺達の代わりに、永岡先生を普門館へ連れて行け。俺は大人になったらもうパーコやらんかも知れん、やからお前が県新の吹奏楽部顧問になって戻ってきて、俺の子供らを、永岡先生編曲の『祭り』で、全国に連れていったってくれ。・・もし拒否したら、ブッ殺す。

 あの時の仁王顔にも、年とともに優しい目じわが刻まれ、親友の兼壱は白髪の混じる働き盛りの男となって、今、斯波の前にいる。

「お前が音大に入って、卒業した後もプロ目指して頑張っているって知ったときは、まだ約束覚えとったんやって、嬉しかった。そやけど、川上さん――やない、玲子さんがいなくなってから、連絡途絶えてしもうて、俺、お前が気ィ狂って海でも飛び込んだんやないかて、心配やったんや。」

「大げさな」

「大げさやない。そやったら、教師として県新に戻ってきたとき、なんで真っ先に俺たちに会いに来んかった?俺、そーいうのメチャクチャ腹立つンや。ブン殴りたくなるくらい。」

「じゃあ殴れよ、今」

「ふざけんな。子供の先生、親が殴れっか」

「別に俺は、ふざけてなんか」

「劉介」

 兼壱は斯波と目を合わせようとしない。ずっと川を見ている。

「――絶対、普門館、行けよ。行かなんだら、今度こそ、ブッ殺す」

「・・物騒な話だな」

「俺は本気だ。この二十云年間、ずっと待ってたんや。こんなチャンスつかんで、みすみす逃すヤツがあるか。そやから、先生――」

 さっと兼壱は斯波の方に向き直り。

「――うちの息子、頼んます」

「―――」斯波は何かを言おうとしたが、心にある塊は言葉となって出てこなかった。

 すると、いきなり兼壱は深々と下げていた顔を上げたので、石頭が斯波の顎に直撃した。

「ガアッ!」

「イテッ、と・・ハハハ、すまんすまん。なあ、どやった、俺の演技。涙チョチョ切れの名俳優って感じやなかった」

 兼壱の顔は嘘のように晴れやかだ。斯波は思わず顔をしかめて。

「・・最悪だ」

「あれっ、そないに?」

「クサイ三流小説のアレよりも、もっと、いたたまれない、というか、痛々しい。」

「ひでえなぁ。定期演奏会の劇では、一番人気を博した俺が・・」

 二人は思わず笑った。

「・・ま、えっか。劉介」

「なんだ」

「時間、あっか」

「ああ。帰り道だったから」

「じゃあさ、ちょっと飲んでかねえ?俺、知り合いの店でうまいとこ知ってんだ」

「ちょっと、おい」斯波の顔つきが豹変する。「アホ、飲酒運転させる気か?俺もお前も店の主人も、みーんな逮捕されるぞ。明日の朝刊の一面に載ったらどうする」

「ええやんか、一度俺新聞に載りたいと思ってたんや」

「無理無理、俺、トランクに火縄銃のレプリカあるから、なおさら、無理。」

「大丈夫や。その店で泊まらせてもらえばええから。な?」

「・・・・・全く」

 よし、じゃあ俺について来い、兼壱はそう言って車に乗り込む。

 斯波は久々に、友人という神聖な温もりに浸かり、あたたかい溜息をついた。


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