第二楽章 「GR」 (4)
「ここ,ここ。」
国道二号線に車を止め,市役所前の細い通りを怪訝そうに歩く星悦に,一色が声を掛けた。星悦は会談の上に顔を向ける。
「なんや,そこにおったんか,カッツン。」
「よ。」一色は目を細めて星悦を見て。「変わってないな,思ったより。」
「待たせたやんね?」
「いや,俺も来たところ。」一色は答えた。「どっか入るか?」
「そやね。」
一色が階段を降り切るのを待って,星悦は新天駅の方へと足を進めた。
「このホール・・変わってないよなあ。」感慨深そうに一色が溜息をついた。「だいぶ前に高校の部のコンクールを聴きに来て以来なのにな。今もここでしてるのか?西阪神地区大会。」
「そうやね。でも北口の方に大きなホールが出来たから,来年からはそっちでやることになるらしいけどね。」星悦は左右を確かめてから,小走りで横断歩道を渡る。後ろをゆったりと一色が付いていく。
「関西に帰ってくるのは,久しぶりなん?」
「いや,実はそうでもなくて。」一色は言った。「二,三年前に一度来たことがある。」
「そうなんや。」そう言って,星悦は懐かしそうに一色を眺めた。目鼻立ちの整った一色は,高校時代の面影を残し,味のあるオッサンになっていた。
「星悦はどうなんだ?楽器店の方はうまくいってるか?」
「まあ,ぼちぼちやな。」星悦は笑って。「でも楽しいで。一日中楽器いじれるし,若い子ォらもようけ来てくれるしな。」
「お前,昔から楽器好きだったもんな。」
「なんやそれ,それ言うならカッツンやってせやないか。」
「俺は卒業以来吹いてないよ。ホルンのラッカーだってくすんじまって,主管はオイルを差していないから,もう錆び付いてるだろうな。ま,そういう俺も,な。」
「うちに持ってきてくれたら,すぐにでも直したるで。この前やって,りゅーやんのボコボコのラッパ,大変やったけど何とか直したからな。」
一色はカフェの扉の前で足を止めた。「劉介のペット?」
「あー・・」星悦の顔が強ばった。「変なこと言ってしもうたな。まあええ,ごめん,忘れてくれんか,今の話?」
「劉介のペットって、あの時の、なんか?」
「いやあ、やから今の話は忘れてくれんか?」
「あいつ・・・まだあの時のペット持っていたのか?」
「・・・・」
「随分と過去を引きずるなぁ,劉介って。もう20年以上も昔のことじゃないか。そんなペット直すために,わざわざ星悦のところまで来たのか?」
「・・いや,それもあるけど,りゅーやん,県新で先生やっとるから。」
「・・話の筋が見えないんだけど,あいつ,音楽の先生でもなったのか?」
「そうやなくて,県新のブラバンの顧問の先生になったんや。」
注文したエスプレッソを手に取りながら,一色が星悦の方を振り返った。
「あいつが?県新の顧問?」
「せやで。あの永岡先生と並んで新天の輝かしい歴史に名を残す男になるんや,僕らの同期がさ。」星悦は愉快そうに笑みを浮かべた。
「それはどうだろうなぁ。」一色は苦笑いを浮かべて。「確かに同期が母校で顧問をしているのは嬉しいけどさ。」
「りゅうやんなら大丈夫やて。生徒に人気があるからな。」星悦はなんの心配もなさそうな顔で,明るく言った。
一色はエスプレッソを口に含みながら,一息ついた。
「ん,そうだ。」一色が目を止めたのは,ホールで行われる市内の高校の定期演奏会のチラシだった。
「同期と言えばさ,裕也もブラバンの顧問やってるんだってな。」
一色の言葉に,星悦の顔にくっきりと影が浮かび上がった。
「星悦も楽器屋しているなら,こういう情報はすぐに入ってくるんだろう?」
「まあ・・・」星悦は眉をひそめてカフェラテに口を埋めた。「カッツンさ・・・まだあんなのと連絡取り合っとるんか?」
「たまたまね。前に関西に帰ってきたとき,偶然会ってさ。あいつ,忙しそうだったな。清流学院だっけ,神戸の?」
「せやけど?」星悦はぶしつけに答えた。「タクトを振り始めてから,清流学院は全国常連の沈まぬ太陽になったとか,何とか,噂は聞くけどね。」
不意に,今まで必死に溜め込んでいたかのように,一色が吹き出した。
「な,なんやねん,いきなり。」
「いやさ,星悦・・・お前,分かりやすいなぁって思って。お前,劉介と仲良かったもんな。」
「仲良かった,やない。今も劉やんは僕の親友やで。」
「そうか。じゃ,お前も,随分と引きずる奴なんだな。」一色は涙を指で払った。
「ま,良いか。でさ,今回こっちにくるときにも,裕也に一報したんだけどさ。あいつ,来月サマー・コンサートやるみたいだぞ。」
「サマー・コンサート。」
「ほら,三年連続全国行った学校は,次の年コンクールに出場できないからさ・・・全く,人生に一度しかない高三の夏を抗えない力で封じられるのは,本当不憫だよな・・・まぁとにかく,高三の奴らのために,はなむけのステージを設けるんだってさ。課題曲も自由曲も選んで,そう,コンクールさながらにな。」
「それがどないしたんや。」
「だからそうとげとげすんなよ,全く。」一色は呆れ顔で星悦を見た。「その高三の為のサマー・コンサートのくせして,あいつ,高二の自分の息子のために特別ステージ設けるつもりなんだってさ。子煩悩というか,何だか本当,仕方がない奴だよな。」
星悦はカフェオレを飲む手を止めた。
「あいつ・・そんな歳の子がおるんか?」
「まあ,二十四のときの子供だから,いても不思議じゃないだろう?」
「楽器は?」
「アルト。」
「・・・そこはペットやないんや。」
「自分より上手くなられると癪に触るんだろ。」一色は茶化すように言った。「何だよ,打って変わって興味津々だな。」
「興味持ったら,行ってみなよ。」一色は言った。「七月十日の日曜日。時間は十三時,場所は衣笠釜のクルトゥアホールだってさ。」
一色はエスプレッソを飲みながら,横目で星悦の様子を確かめた。一式の言葉に,星悦は黙り込んでカフェラテの水面を覗き込んでいた。そこに妙案が隠されているかのように。
「行けばきっとお前,驚くぜ。」
一色はそう言って,満足げに星悦に笑って見せた。
唐突に金管楽器のファンファーレが星悦の腰から響く。
「ビビッた!」
「着メロ設定したやつが、それ言うかよ。」一色は呆れて。「その出だし、『アイーダ』?」
「電話かかっとるわ。ごめん、ちょっと外出てもいいか?」
「どうぞごゆっくり。」一色は澄まし顔で答えた。
カフェの扉を開け、星悦はしつこく叫ぶ携帯電話をようやく開いた。画面に目をやり、電話の主を確認する。
「兼壱?」
「お前出るの遅すぎや!」
「・・・兼壱、もう少し声量落としてくれんか?今の耳に――」
「今どこにおるんや?」
「・・・え?」
「今どこにおるんやって訊いとるんや。質問の意味分からんか?」
「いや、分かるけど・・・新天駅前のカフェだよ。」
「何でそんなとこにおるんや。」
「今日カッツンから久々に電話かかってきてさ。一緒に会おうって言われてさ。」
「カッツン?」兼壱は意表をつかれたような声を上げた。「お前まだカッツンと連絡取り合っていたんやな。」
「この前向こうから連絡くれてさ。それで今久しぶりに会ってるんや。」
「そらまいったな・・・お前、いつ一人になりそうなんや?」
兼壱の声は、いつにも増して、反対意見を認めない凄みを含んでいた。
「・・・なんや、そんな声して。」
「なるべく早く戻ってこい。」兼壱は低く、明瞭な声で言った。「辰悦の本当の親が分かったんや。」