第二楽章 「GR」 (3)
兼壱が「彼」を見たのは、暖簾を片付けに表へ出た時だった。
アーケードの屋根を打っていた雨音は消えていた。下校時刻を過ぎた商店街には、夏服姿の中高生が何組かいた。もちろん、向かいの星悦の店・マーキュリーの前にも、楽器吹きらしい学生の姿がある。いつもはそんな光景を一瞥したきり、暖簾を手に店に戻る兼壱だった。
しかし、今日は。
兼壱は手を止め、代わりに目を細め、駅の方から歩いてくる高校生をよくよく確認した。
太く力強い眉、高めの鼻、品良く整えた黒髪、意志の強い目。馴染みの組み合わせのはずだが、どうもしっくりこない部分がある。
(辰悦じゃ、ねえのか?)
梅雨時にもかかわらず、その学生はブレザーだった。ここらでは見慣れない制服だ。
(でもあれは、どこをどう見ても辰悦だ。人違いなはずは・・・)
不意に兼壱はその大柄な体に震えを感じた。顔色を変え、急いで店の扉を開ける兼壱の背を、さらなる衝撃が襲った。
「千林!」
はじかれたように兼壱は振り向いた。見れば、先ほどの学生が、走って追いついた私服の男に穏やかに会釈をしているところだった。
「守口先輩。すみません、わざわざ。」
「気にすんな。でも、いきなりやな。家、帰っとらん?清学の制服着たままでさ。」
「一色さん――あ、さっき車乗せてくれた人、その人に駅まで送ってもらったんです。その人は別に仕事があるみたいで、それで僕一人でここまで来たんですよ。」
「ふうん。せっかくなら新天横丁まで送ってくれたらええのにな。阪神から阪急って、結構乗り換えに時間がかかるからさ。」守口は笑った。
兼壱は二人が『マーキュリー』の前で止まるのを見るや、矢も楯もたまらず、店の中に飛び込んだ。
厨房を片付けていた奈美子が顔を上げた。
「どないしたん、そんな顔して。」
「千林・・清流学院・・」兼壱は青ざめながら呟いた。
「は?」
「せやから、清流学院の千林なんやて!あいつ・・・星悦・・相当マズいことしでかしやがった――星悦
とこ電話するわ!」
「向かいなんやから直接言いに行けばええやんか。」
「やからそれがあかんねんて!」
「なんで?」奈美子は眉間にしわを寄せる。
「よう聞け。」兼壱は奈美子に迫って言った。「今な、星悦のところに、辰悦そっくりの高校生が行こ
うとしとるんや。そいつ、『千林』って呼ばれとる、清学の子らしい。清流学院で、吹奏楽部で、『千林』っていうことは、俺が何を言いたいんか、お前にはもうわかるよな?」
兼壱の気迫に、気丈な奈美子も、次第に顔色を変えていった。
「・・それ、ほんま・・・?」
「んで――なんで俺も?」
守口の問いに、聖斗は答えに困ったふうだった。
「ま、ええよ。俺は暇やから。でも、リード選びなら、牧野とか深草とか、サックスの奴と来りゃええのに。」
「そうじゃないんです。」聖斗は素早く答えると、物思わしげな顔で大きな瞳をそっと楽器店に向けた。
「迷惑でしたら、すみません、先輩。」
「いや、それはないけど。」守口はドアを指さして。「中、入る?」
「そうですね。」聖斗は頷き、ドアに手をかけた。
ドアに掛かったベルが、小さく音を立てて揺れた。
二階へ続く、狭く細い階段の先から、ゆったりとしたテンポにアレンジされた『A列車で行こう』が漏れてきていた。
その階段の先に、年季の入った木の扉があった。擦りガラスなので、中は見えない。
「なんか、近づきがたい店やな。」
守口は笑って階段を先に登り始めたが、聖斗は階段に足を置こうか迷った末、再び商店街へと出て行ってしまった。
「千林?」
急いで階段から降りてきた守口は、不思議そうに尋ねた。
「守口先輩・・・やっぱり帰りませんか?」
「帰りませんかって、俺は、千林が来いって言うからついて来ただけなんやけどな。」
困ったように笑う守口を見て、聖斗は一層肩をすくめた。
前方にある、茶色くて味のあるドア。左上を見上げれば、「楽器店マーキュリー」と書かれた看板に目が留まる。この楽器店に行くために車で自分を乗せてきた一色は、別に用ができたから独りで向かってくれ、と言い残し、私鉄の新天駅で聖斗を下ろして去ってしまった。その変り身の早さが、聖斗には拭えぬ違和感を残した。守口を呼んだのは、さんざん迷った挙句であった。
「・・・すみません。」
後ろ手にカバンを持った守口は、聖斗の突然の謝罪に、もう一方の手で頬を掻きながら言った。
「いや、謝ることやないよ。別に俺は嫌々来たわけじゃないし。・・でも千林、ええのん?何か用があって来たんやないのか?」
「それは、そうなんですが・・・」
――お前さ、ひょっとして双子じゃないのか?
噂好きに特有の好奇の目つきで樟葉にそう尋ねられたとき、聖斗は思わず言葉を失った。樟葉は高等部から清流学院に入学し、中学時代は新天市の平林中に通っていた。高校で樟葉と知り合ったつもりだが、向こうは以前から聖斗を知っているような口ぶりで近づいてきた。
横丁商店街に一軒、楽器屋があるんだけどさ、そこで千林、バイトしてなかった?してない?というか知らない?変だな・・・だって、俺そこでお前絶対見たもん、一度や二度じゃないよ。名前は訊かなかったけどさ。まさか、ひょっとして双子とか?・・いや、冗談だって。そんな本気でビビるなよ。でも面白いよなあ。本当に千林だと思ったんだけどな・・。
「んじゃさ。」
肩を掴まれ、聖斗はぎょっと背筋を伸ばした。ただ、掴んだのは守口だった。
「ここで二の足踏んでいても仕方ないし、入りづらいなら俺が先に見てきてやるよ。それか一緒に来るか?」
聖斗の身体は、その意に反して再びドアの中へ押し込まれる。
「あの、ちょっと、先輩?」
「行く?行かない?五、四、三、二―――」
「大丈夫です!自分で、歩きますから。」
「了解。迫られると決断が早いな。」守口はそう言って階段を駆け上がり,扉を開けた。聖斗も急いでその背中を追いかけた。
「すみません。」
守口の声が狭い部屋に響きわたる。守口の身体がドアをふさいでいるので、聖斗はその背中から顔だけ覗かせた。店の主人はいないようだった。作業机には磨きかけのクラリネットがあった。主人の代わりに二つの顔が訪問者に向けられた。
「あれ・・・誰もいらっしゃらないんですか?」
「みたいですけど。」
曜子は素っ気なく守口に答えた。隣でチューナーを眺めていたカオルも、きょとんとして守口の方を振り返った。
「だってさ。」守口は後ろの聖斗に耳打ちした。「せっかくだから少し見てくか?」
「あ・・」曜子が先に聖斗の存在に気づいた。すかさずカオルに今しがた入手した情報を伝達する。受信完了の有無は、カオルの目が大きく見開くのですぐに分かった。
「あの・・千林君じゃないですか?本物?」
曜子の浮き足立つ口調から身を潜めるように、聖斗は守口の後ろで小さくなり、内気そうに会釈した。
「うわー本物だあ!」大きな声を上げる曜子に、カオルが口を挟む。
「失礼だって、曜子・・」
「流石お前、有名だな。」守口が茶化して、無理やり聖斗を前に引きずり出した。
「清流学院って、神戸ですよね?ここまで遠くないですか?」
曜子の質問に、代理で守口が答えた。
「まあ、電車で20分くらいだし。私学だと市外から通う奴も多いから、むしろ近い方かな。」
「そうなんですか。」
「ここからは近い学校?」
「あ、そうです。うちらは地元の県立新天高校です。駅から坂上がってすぐのところで。知らないですよね。」
「県立新天高校って、県新、ですか・・・?」
反応を示したのは聖斗の方だった。
「そうです。知ってるんですか?」驚いて曜子が言った。
「そう言えば、そっちの高校の新しい顧問がうちの顧問と同期だって聞いたことがあるかも。」守口が言った。「そうか、うちの顧問の母校の子か。これは大変失礼いたしました。」
カオルは、守口の親しげな仕草に、口元を緩めた。
「カオル、どうする?」
「え?ああ・・・」カオルは手に握ったコーグの黒色のチューナーに目を落として。「今日は鏑矢さんも中村さんもいないから・・。また今度にする。」
「店を開けっ放しで出ていくなんて、物騒だな。」守口はそう言って、値踏みするような目つきでショーケースの楽器をねめ回した。
「うちらが来たときにはいたんですけど、急用が出来て出て行っちゃったんです。もう一人の人は買い物行っていてもともといなくて。」
「ふうん。」守口はヤマハのマウスピースを眺めながら答えた。それを見て、カオルが小さく声をかけた。
「トランペット、なんですか?」
「俺?うん、ペットだよ。パーリーの癖して、合奏の度にダメだし食らってるけどね。てことは、もしかして・・」
カオルは笑って。「私もです。」
「ダメ出し受けてる方が?」
「いや、じゃなくて・・ああ、はい、両方の意味で、そうですね。」
「お互いお疲れ様だよねー。」守口も笑った。
「ま、あいつも結構顧問には檄を飛ばされているんだよ。実の息子だからって容赦しないから、千林先生。そこが顧問の良いところなんだけど。な?」
守口とカオルは聖斗の方を振り向いた。そしてようやく、聖斗の顔が神経質そうに歪んでいるのに気づいた。聖斗は、置き去りにされたクラリネットにかぶせられた布を少しはがしては戻し、はがしては戻していた。そこに何か手掛かりがあるかのように。
「どうする、千林?帰るか?」
「・・・そうですね。」
聖斗は守口の方を振り返った。だが、振り向きざまに、ショーケースの上に目が留まり、そこでまた顔色が怪しくなった。カオルは不思議そうに目線の先を追った。
「あ・・」曜子はいたずらっぽい表情を浮かべて、聖斗に向かって言った。「もしかして、ここに来た目的って、鏑矢君なんじゃないんですか?」
「え?」
それは曜子の言葉でもあった。聖斗は青い顔で探るように曜子を睨んだ。大人しかった聖斗のこの豹変ぶりには、さすがの曜子も言葉が出なかったようだった。
「ちょっと、曜子、それ・・・」
「ああ、今のは別になんでもないんです。すみません、ちょっと度がすぎていて。」
その言葉では聖斗はもう曜子を見逃さなかった。不安げな顔ながらも、聖斗は曜子に詰め寄った。
「すみません・・・その人、誰なんですか?」
「ああいやだからその・・・」
「単に伺いたいだけなんです。その人、誰なんですか?」
「別に・・その、すみません!」
「もしかして・・」聖斗は青い顔のまま曜子に迫って言った。「僕とその人・・」
「千林。」二人の間に割って入ったのは、守口だった。「お前、やっぱり今日、何か変だぞ?」
「変じゃないです。大丈夫です。ただ僕は・・・」聖斗の視線は、何度もショーケースの上と守口とを行き交った。
「あれがどうしたんだ?ただのテディベアじゃないか。」守口は言った。
「そうじゃないんです。僕が言いたいのは・・・あの・・・」
聖斗の差す指から逃げるように、曜子はカオルを引き寄せてドアへ向かった。
「カオル、何かやばそうだから、帰ろうか。」
「え・・と、曜子?」
「んじゃあ、失礼しました。すみません、先、帰ります。」
「ああ、うん。ごめんね、何か変な感じになっちゃって。」
「とんでもないです。私たちこそ、すみませんでした。」
カオルを引き込み急いでドアを閉めようとする曜子に、聖斗が声を大にして尋ねた。
「その人、僕と同じ顔じゃなかったですか?」
戻ってきた返事は、階段を下りるスタッカートと、ドアが鳴らした、乾いた四分音符だけだった。