序曲
――カオルの耳に蘇える。
あの時夢見心地に聴いた曲が。
吹きながらとなりで聴いた曲が。
カオルには聞こえた。
胸にしみわたる温かい音が。
静寂を切り裂く鋭い音が。
おとぎ話みたいに愉快で滑稽な音が。
吹雪となって襲いかかる連符の嵐が。
心揺さぶる熱い音が。
カオルは肌に感じた。
その奏者の温もりを。
その奏者の力強さを。
その奏者のユーモアを。
その奏者の厳しさを。
その奏者の情熱を。
カオルはその音を聴くたびに思い出した。
今の自分があるのはその奏者に逢ったからだと。
・・・
序曲
「うおっ、リューやんじゃないか。どうしたんだい。」
優しい日差しが窓に触れる。満開の桜の花びらで、風がピンク色に輝いている。
駅前にある横丁商店街。今日は全ての店が休みを取る日で、どこもかしこも皆シャッターを下ろして出払ってしまっており、たまに春風が練習中のウグイスの歌声を連れてくるだけの、時間も音も見当たらない、そんなアーケード。そこへ一台の車が止まったのは、まだ太陽が南中していない頃だった。
突然の来客のために注ぐコーヒーに、四十を過ぎた星悦の親しい顔が映った。
いただきます。中肉中背のその男は黙ってコーヒーを飲んだ。
「お前は僕の子どもの学年じゃないから、同じ学校でも全然噂なんか耳にしないから、どうしてるか気にしとったんや。元気そうでなによりや。」
男は一口飲んでカップをおろしながら、ゆっくりと店の中を見回す。外で『楽器店マーキュリー』ののぼりが揺れている。店中がジャズで満たされている。
「壁がだいぶ茶色くなったな。俺、いつからここに来てなかったっけ?」
「かれこれ十七年ぶりやな。確か開店の日に顔出してくれた時以来やと思うわ。」
「――いい味が出ている。」
男は立ち上がり、節くれだった荒れた手を、壁に当てた。
「あの頃は、俺、結構大変だったよな。」
男は呟く。
「まぁ――確かにいろいろあったけどな。それで、今日はなんや。ほんまは休業日やけど、リューやんは特別に応対したるわ。楽譜か?それともこれの修理?」
星悦は右手でピストンを動かす真似をして、ニヤリとした。
「あぁ――」男も微笑を見せた。「そのことで、今日来たんだった。・・ちょっとこれを直してくれないか?主管のへこみがひどいんだけど。」
そう言いながら、男は足元のケースからサビだらけのトランペットを取り出した。
星悦は受け取り、眼を細めて調べながら、男の方を見た。
「・・頑張れば出来ンことはないけど、わざわざこんなオンボロを使うことはないやろ。ペットなら他に持っているンとちゃうん?」
男は笑みを消し、少し真面目な顔をして。
「―――あの時のトランペットなんだよ。」
「あの時・・・?」
星悦は眉をひそめて男の顔を眺めていたが、思い当たるところがあったのか、眼を一瞬大きく開けて、すぐに怪訝そうに、眼を震わせて男を見た。
「まだ持っていたのか?」
「その時の傷だ。」
男は大きく窪んだ主管と、一部折れ曲がったベルを指差す。
「――ええんか、こんなの直して。思い出したくないやろうに。」
「イヤ・・。今の自分に至る出発点は、このペットなんだ。今は感謝の気持ちさえ抱いているよ。何も聞かないで、直してくれ。」
「――お前がええんなら、僕は何も文句は言わん。」
星悦は旧友に優しく笑った。男は修理の間、店に飾っている楽器や譜面を眺めたり取ったりしていた。
やがて星悦が。
「――そうや。リューやん、うちの子どもがな。」
二階にある店の扉が音を立てた。黒い学生服を着た若い顔が見えた。
「ただいま、父さん。」
「おう、噂をすれば、何とかってヤツやな。」
高校生らしいその子は薄っすらと灼けた顔を、男と父親に向けた。
「・・・こんにちは。――お客さん?」
「せやけど、お前、こん人知らんのか?お前の学校の先生やぞ。斯波先生。」
「あ――」その子は慌てて頭を下げた。「すみません。噂はお聞きしていましたが・・」
「四六時中ハニワと戯れている変なオッサンとかいうのだろ、どうせ。」
「いえ、そんなことは」
「楽器やってるだろ?」
「え?」
「―――トランペットだろ?」
「・・・なんで分かるんですか?」
「俺の口と似てるから。」
男は、狐につままれたような顔をしているその子を見て、悪戯っぽく笑った。
「辰悦、この人は父さんの長い友達で、高校の時新天の吹奏楽でトランペット吹いとったんや。んで、今年からブラバンの顧問になるんや、な?」
男――斯波は軽く頷いて。
「けど、指揮なんて振ったことないから、果たしてできるかどうか。」
「リューやんなら大丈夫や。」星悦は斯波の背中を叩いた。「辰悦、お前がこれからお世話になる先生や。リューやん、ご指導の方よろしくな。」
「え・・・?」
今度は斯波が星悦を見た。
「――リューやん、僕さ、ボーンやる前にちょっとだけペットやってた時あったやろ?こいつな、ちっちゃいときオモチャのラッパが大好きで、小学生になると、ペットやりたい言ゥて聞かんくて、しゃァないから僕が教えてやってたんや。せやのに中学に入ったら水泳部に入って、でも長続きせんくて途中で止めて、高校になったらブラバンに入る言っていたのに、往生際が悪ゥて、一年経ってもよう入ろうとせェへんのや。」
「父さん、先生に余計なこと言わないでよ。」辰悦は少しムキになって言った。
斯波は辰悦の顔をまじまじと見た。太くきりっとした眉、高めの鼻、奥に何か光るものがある、大きく、優しい瞳。
星悦の物ではないと、直感した。だが、妙な懐かしさを感じずにはいられなかった。
シンエツ――辰悦・・・鏑矢、辰悦。
「――ということは、二年生?」
「え?あ、はい。」
「地歴の選択があるだろう。何を取っているの?」
「日本史です。」
「・・・もしかして、二組?」
「はい。」
昨日見た名簿が頭に浮かんだ。そうか、やっぱり星悦の息子だったのか。それにしても、昨日は彼をどんな人物だと考えていたのだろう。テンポ良く、小気味の良い返事。快い。
「それじゃあ、俺が受け持つクラスだ。よろしくな。」
斯波は辰悦に笑いかけ、星悦を見た。
「いい息子さんだな。」
「へ?」星悦はぽかんとした。「――あぁ、それはおおきに。」
そう言って、星悦は自分と背丈のあまり変わらない辰悦の肩をポンポンと叩いた。
「よかったな。褒めてもらえてよ。」
斯波は星悦の顔を見た。それから、そっと彼の左手に目を移す。
斯波には人や物をじっと見る癖がある。斯波が無口になって自分の手に視線を注いでいるのに星悦は気づき、頬に曖昧な笑みを浮かべた。
「ああ――指輪なら、とっくの昔に失くしたわ。」
「・・・そうなのか?」
斯波は顔を上げた。
「女房が事故で死んだのも十二年も前の話、七回忌まではやったはずやけど、それからは記憶にない。女房も、もう自分のことは忘れてくれって、冥土で言っているに違いないわ。」
まるで他人事のように星悦は語る。「事故」という言葉に、辰悦の体がビクンと脈を打った。
「そうか・・。」
全く、妙なこと考えるヤツだな、俺は。それじゃあ、この子は母親似なのだろう。
だが・・・。心の虫はなおも斯波の疑念をつっつく。
自分の子なら、これほどまでによそよそしいだろうか。
表面には出さずに。
「・・・ごめんな、変なこと訊いてしまって。本当に、すまん。」
「ええて。」星悦は、からからと笑った。「リューやんとはもう十七年も会ゥてへんから、この子が生まれたのも家内のことも知らんのはしゃぁないて。・・全く、そんな青菜みたいな顔せんと。塩かけたろか?」
「――ありがとう。」斯波の顔が緩んだ。「星悦はいつになっても優しいな。」
無邪気な星悦の笑みの後には、手がくたびれた薄黒いテディベアが、ちょこんと座っていた。
「どうもありがとう。おかげで見違えるほど綺麗になったよ。」
星悦から手渡されたトランペットは、磨かれて再び銀色の輝きを取り戻していた。
「そう言ゥてもらうとうれしぃわ。また楽器壊した時は、いつでも直したるで。」
「人聞きの悪い。」
星悦と辰悦は店の外まで斯波を見送りに出た。斯波は、何か光るものを秘めた辰悦の目をもう一度よく見た。
この目。思い当たる者もいないわけではないのだが。
「・・県新で、会うのを楽しみにしてるよ。」
「はい。」辰悦はうなずいた。
すると、星悦が思い出したかのように。
「ケンイチには、もう会ったんか?」
「ケンイチ――?あぁ、兼壱。あいつ、またここに戻ってきたのか?」
「おぅ。しばらく元町で店開いとったんやけど、やっぱこっちがええ言ゥて、五年前にこの商店街に移ったんや。ほら、あそこの店。今日は休みやけどな。」
『中華亭 ごっつぁんです』。赤地の暖簾に書かれた金色の文字が揺れている。
「なかなか旨いんや。暇な時でええから、寄ってやってくれ。」
それから斯波の耳元で囁く。
「あいつ、お前との約束、まだ覚えてんねん。それで今一人息子をシゴいとる。」
斯波は顔を遠ざけ、不意を突かれたような顔をした。それを見て星悦はニヤリとし、斯波の背中を車の方へ押した。
よく笑うヤツだな。相変わらず。
斯波は苦笑いをにじませた。
「それじゃあ、また。」
「おぅ、じゃあな、リューやん!」
車は商店街を後にした。出口の桜がきらめいていた。
新天横丁の駅前を過ぎれば、曲がりくねった『蛇の背坂』に至る。その坂を上りきれば、学院大学まで春なら見事な桜並木が見られる。地元の人はここを『学園花通り』と呼んでいる。その通りに沿って左側にあるのが、県立新天高校だった。
(女房のことも、もう忘れてしもうたわ。)
平然と語る星悦の顔が眼前によみがえる。
そんなに簡単に、忘れられるものだろうか。
辰悦の顔が浮かんだ。
・・・・・
息子、か。
斯波は左手を顔に寄せ、その薬指にはまった、磨かれて光を放つ指輪をしばしの間見つめた。そして、しっかりと刻まれたその名に、そっと唇を合わせた。