人間道キャンセル界隈
「はい、次」
呼ばれて入ってきたのは、いかにも疲れた顔の女性だった。
「山井薫 享年三十六 過労による心筋梗塞か……」
閻魔は閻魔帳に目を通す。
「ブラック企業勤めは大変だったようだが、徳はそこそこ積んでおるようだし、次も人間に転生だな」
「そんな!」
閻魔の言葉に山井は悲鳴を上げた。
「気持ちはわからぬでもないが、天道に進むには、徳が足らぬ」
死したものは、生前の行いによって六道のどこかに輪廻する。輪廻転生を繰り返し、魂の研鑽につとめれば、苦しみから解き放たれる『解脱』を得られるが、たいていは、その繰り返しから逃れることはできない。
「そうではありません! 私はもう人間は嫌なのです!」
山井は泣き崩れた。
「どうかお願いです。私を畜生道に行かせてください。猫に、猫になりたいのです!」
閻魔は困惑する。
「確かに閻魔帳にも畜生道を希望するとあったが、畜生道って、弱肉強食の世界だからしんどい世界だぞ? ついでにいうと、輪廻転生から『解脱』できる道がなくなってしまうし」
「いいえ。猫がいいです。猫がダメなら、いっそクラゲにしてください」
山井は必死で訴えた。
「……困ったな」
閻魔はふうっと息をついた。
「人頭杖、どう思う?」
閻魔は杖の上にのった紅白の二つの生首に訊ねた。善行と悪行を見る生首たちも困惑しているようだ。
「畜生道プチ体験をさせてみてはどうですか?」
善行を見る白い生首が答えた。
「少なくとも、その体験をしても人間道に戻れる程度の『徳』はあります」
「そうさの、『堕ちる』分には、『徳』はいらんわけやし」
赤い生首も頷く。
「ありがとうございます!」
山井は涙を流して喜ぶ。
「よし。では馬頭観音に話してみてやる。念のため言っておくが、体験期間中に死ぬこともあるが──」
「かまいません!」
山井は嬉しそうに畜生道へ延びる道へ走っていった。
さすがに体験すれば、人間に戻りたいと言ってくると思ったのだが、山井は畜生道で第二の生を全うしたいと答えたらしい。
ちなみに、畜生道を望む人間は最近、増えつつある。そのたびにプチ体験をさせるようになったが、人間道に戻りたいという魂は一割程度だ。
「困ったものだ」
閻魔は眉間に皺を寄せる。
人間として生を受けたものが再び人間に転生する。それは人間として生まれたものの願いだったはずだ。だからこそ、『徳』をつむ。徳をつむものがいるからこそ、人間道は清濁併吞なのである。
皆が皆『堕ちる』ことを望んだら、人間道は荒れるばかりだ。
「人間道キャンセル界隈が増えてくると、六道輪廻のシステムそのものの改革が必要か……」
閻魔は頭を抱える。
「いっそ、畜生道の上位に愛玩動物道とか増設してはどうですかね」
白い生首が提案する。
「いいや、いっそ人間道の上位にすべきじゃ。昨今は人間道って不人気だからの」
「はあ。難しい世の中になったなあ」
運ばれてきた閻魔帳に『畜生道希望』と書かれているのを見て、閻魔はため息をついた。
改稿でルビ入れてみた




