悪役令嬢は静かに退場……させてもらえません!
私、ブラントシュタイン公爵の娘ロザリンデ(十四歳)は、運動神経があまりよろしくない。
だから乗馬はあまり得意ではないけれど、「この馬はおとなしいから」「天気もいいし」「最近ふさぎ込んでいるみたいだから気分転換に」という婚約者であるルシアン・エルンベルク第一王子殿下の言葉を真に受けて、失敗しましたね。
確かにルシアン殿下が用意してくださった馬はおとなしかったの。きれいな雌馬だったわ。彼女は乗馬に慣れずぎこちない私に合わせてくれた……だから悪いのは私。
馬の動きについていけず、落馬しました。
ある晴れた秋の日の午後に。
――ううーん、これが私?
自室のドレッサーを覗き込みながら、私はぺたぺたと自分の顔を触っていた。
鏡の中に、それははっとするような美少女がいる。ネグリジェ姿だが。
緑色の瞳が私を見返す。
赤い髪の毛はくるくるとうねり、腰よりも長い。なのにつややかで毛先まできれい。ちゃんと手入れされている。
白くてしみひとつない顔もそう。日焼けに注意し、保湿に気を遣っている。
そして手。ささくれもひびわれもない。苦労をしていない手。爪もきれいに整えられている。
それはそう、だって私はブラントシュタイン公爵の一人娘だから。
私は私のことがわかる。わかるのだけど、不思議なことに今の私にはもうひとつの記憶があった。
タナカ・リナ、二十六歳。会社員。
夜のオフィスでエナジードリンクを飲んで気持ち悪くなり、椅子から転落。右側頭部を床に打ち付けたところで記憶が終わっている。
落馬して私が打った場所も、右側頭部だ。
頭を打ったことで記憶が蘇ったらしい。
だが、問題はここからだ。
タナカ・リナの記憶の中に、このキツイ顔の美少女を見たことがあった。
推しイラストレーター、リュンヌ先生が描く、女性向け恋愛ファンタジー小説の挿絵の中で。
作品名、『白き聖女と蒼き運命』。五巻まで出ていて、好評続刊中。愛読していました。
ヒロインは平民出身の聖女アデル・ヘスター。
ヒーローは第一王子ルシアン。
そして闇落ちして聖女の命を狙う悪役が……ロザリンデ・ブラントシュタイン。
待て待て待て。小説の世界に転生ですって? そんなバカな! それも、よりにもよって悪役令嬢に転生!?
――ま、まだここが白聖女(※『白き聖女と蒼き運命』の略称)の世界とは限らないわ!
白聖女との共通点は、私が挿絵そっくりの美少女で悪役令嬢と同じ名前かつ婚約者がヒーローと同じ名前、同じ見た目ということだけ!
これだけならまだ偶然の一致と言える……ッ!
「お嬢様、ルシアン殿下がいらっしゃいました」
その時、ドアがノックされ、執事の声が響く。
えっと思う間もなくドアが開いて部屋に入ってきたのは、すらりとした体躯に凛々しい顔立ち、藍色の髪と瞳を持った少年。きらびやかな王子様衣装が眩しい。
二つ年上の、ルシアン・エルンベルク第一王子殿下だった。
「ロザリー、もう起きて大丈夫なのか?」
ルシアン殿下の心配そうな声音に、私の心臓が、ドキンと一回大きく跳ねた。
同時に、脳裏にリュンヌ先生の美麗イラストが走り抜ける。
あのイラストがリアルになっています。見間違えるわけがない。何度繰り返し読んだことか。
なんて美しいの……ッ!
興奮しすぎたせいで、ふうっと意識が遠のく。
ルシアン殿下のあわてる声が聞こえた、気がした。
忘れていたが、ロザリンデの体はあまり丈夫ではないらしく、しょっちゅう熱を出してはルシアン殿下の見舞いを受けていたため、王子様にもかかわらずルシアン殿下は勝手知ったる我が家のように私の部屋を訪れるのだ。
***
意識を取り戻したあと、私はベッドの中でじっくりと考えた。
ここは間違いなく、あの小説の世界だ。さっきまで部屋にいて私をなでまわしていた両親に記憶が混乱しているフリをして(いや、混乱しているのは事実だが)いろいろ聞いてみたところ、白聖女で出てきた設定がいっぱい出てきたからである。
他世界の空似、ではなさそうだ。
そうなると、当然ストーリーも白聖女通りに進むのだろう。
困ったな。ロザリンデはヒーローとヒロインの純愛を邪魔する悪役令嬢である。
作中のロザリンデは、婚約者であるルシアン殿下のことが好きだった。一方のルシアン殿下は、ブラントシュタイン公爵に後ろ盾になってもらう代わりに押し付けられたロザリンデのことを、疎ましく思っていた。作中のロザリンデは高慢な人物として描かれていたものね。
だからルシアン殿下が控えめだけれど芯が強くて頑張り屋の聖女アデルに心を奪われるのは、当然なのだ。そしてルシアン殿下の心が聖女アデルへと移るのを目の当たりにして、ロザリンデは闇落ちする。
人を雇ったり毒を使ったり、聖女へのいやがらせをやりたい放題。
作品の途中で悪事がバレてロザリンデはルシアン殿下から婚約破棄される。そのせいでさらに荒れる……というね……。
つまりロザリンデは大変イタイ人物なのである。
この話、完結していないからロザリンデがどうなるのかはわかっていないが、やっていることがえげつないので絶対に断罪される。逆にされなかったら読者が暴動を起こすって。
正直に言う。タナカ・リナはロザリンデのことがあまり好きではなかった。
悪役好きの読者には人気があったみたいだけど、考えが幼稚で行動が極端で。毎巻イライラしながら読んでいたのだ。
でもいざロザリンデになってみると、怒るのも無理はないとは思う。ロザリンデはルシアン殿下のことが好きだし、彼女は正当な婚約者だ。いくら大人の都合で結ばれた関係とはいえ、先に不義理を働いたのはルシアン殿下のほうである。
だからって、いやがらせをしたところでルシアン殿下の心は戻ってこない。
闇落ち→悪役令嬢化してしまったら、破滅は免れられないわけよ。
だから私は悪役にならない。
そのための解決策はひとつ。
「ルシアン殿下と距離をとろう(物理的に)」
実にシンプル。
ヒーローとヒロインのそばにいなければ私が悪役化することはない。
留学しよう。できれば十年くらい。なんならそのまま帰ってこなくてもいい。
遠い外国で、おとなしく、穏やかに過ごすのだ。
誰も傷つけず、誰にも断罪されず、静かに物語から退場する。
そうすれば破滅の未来は回避できるはず。
ところが。
***
「ロザリー」
本棚の陰から突然名前を呼ばれて、私は飛び上がった。
学園の図書館。放課後。留学先について調べていた私の前に現れたのは、腕組みをしてジト目のルシアン殿下だった。
「ブラントシュタイン公爵から聞いたんだが。向こう十年、外国に留学したいそうだな?」
お父様! なぜ全部話してしまうんですか!
私の静かに物語から退場する計画がすでにおじゃんである。
「ここで立ち話は目立つから、外で話そう」
というわけで中庭に移動させられた私、なぜかルシアン殿下に図書館の壁際に追い込まれる。
「留学ですが、見識を広めようと……その……将来のために……」
「将来のために。つまり王妃になるために、という意味かな」
「ソ、ソウデスネ」
「なぜ棒読みなんだ。目も泳いでいる。ロザリーは本当に嘘が下手だなあ」
にぃっと笑ってルシアン殿下が一歩踏み出す。後ずさりした私の背中が、壁にぴたりとくっついた。逃げ場がない。
「じゃあなぜ突然、外国に行きたくなったんだ。十年も」
「ソレハァ……」
「王妃になるのが怖くなったのか?」
「イーエ、ソンナコトハァ……」
こわいのは王妃になることではなくて、闇落ちして悪役になること!
なのだが、正直に言えるわけもない。そんな私にイラっとしたのか、ルシアン殿下がドン、と私の横に手をつく。
これはあれだ。あの伝説の「壁ドン」!
さすが胸キュン度ナンバーワンを自称するセレスタ文庫の人気作! 現在は物語開始前で小説では語られていない部分なのに、胸キュンポイントを外さない! 違う! そうじゃない! 今はそれどころではない。
気が付いたら泣いていた。
ルシアン殿下がぎょっとしたように手をどける。
脳裏に閃いたのは、最新刊で聖女を傷つけた私に向かって、ルシアン殿下が低く「許せない」と呟く挿絵だ。
リュンヌ先生の筆で描かれた、美しくて恐ろしい表情。
私はあの顔を向けられたくない。この人に憎まれたくない。嫌われたくない。
「……私には、未来が見えるんです。私はあなたを苦しめるの。だからさっさとあなたの前からいなくなりたいの! 私がいなくなれば丸く収まるんだもの!」
「ロザリー、何を言って……未来……? 君が僕を苦しめる……?」
私の叫びにルシアン殿下が困惑顔になる。
それはそうよね。
気でも触れたのかと思われるようなことを口走っている。その自覚はある。
「信じてもらえないのはわかっています。でも私の予知は外れません。私はこの世界を知っている。私はこの世界の外側から来た人間だから」
「外側? 待ってくれ、ロザリー。落ち着いて、全部話してくれないか? 茶化さないから」
こうして私は、ベンチに並んで紅葉の中庭を眺めながら、前世であるタナカ・リナのこと、この世界がタナカ・リナが読んでいた小説の中だということを、ぽつぽつと話し始めた。
「なるほど、君は異世界から転生してきた、と。確かに事故後のロザリーは以前とは少し雰囲気が違うものな。少し大人っぽくなったというか。とはいえ、ロザリーの言い分を鵜呑みにはできない。証明はできるか?」
「証明?」
「その『前世の記憶』とやらが本物だという証明だよ。ここがロザリーの前世が読了済みの物語の中なら、ロザリーはこれから起こることを予言できるんじゃないか。何かひとつでも、これから起きることを予言してみせてほしい」
そうは言われましても。
「おおまかな流れは覚えているけど、詳しい部分ははっきりと覚えていないんです」
「そのわりには、僕に憎まれるシーンについては詳細に語っていたが?」
疑わしそうにルシアン殿下が私をジト目で見る。
「あれは、なぜかあのシーンだけ突然詳しく思い出せたからで」
「なぜ?」
「わかりません。ルシアン殿下にドン! ってやられたら急にその景色が見えて」
「……ふうん……?」
ルシアン殿下が突然、手を伸ばして私の頬に触れた。
大きな指が頬を撫で、スッと耳へ移動して、耳たぶから耳の輪郭をなぞり始める。
ドキッ。
心臓が跳ねた。背筋にゾクッと寒気が走る。そして、パッと脳裏に挿絵が浮かんだ。
「冬の初めに……火事が起きます。王都の東市場で、夜中に出た火が強風で広がって……甚大な被害が……火元は倉庫で……」
言ってしまってから、私ははっと息を呑んだ。
「冬の初め、風の強い夜、か」
「……あの、ルシアン殿下? 今のはなんの実験ですか?」
「覚えておく。ありがとう、ロザリー」
そして約一ヶ月後、東市場で本当に火事が起きた。
ルシアン殿下が事前に警戒を強化していたため、被害は七軒にとどまり、死者はゼロ。
おかしい。作中では三日三晩燃え続け、王都の大火と呼ばれるほど甚大な被害が出たのに。
国王陛下が公式に殿下の先見の明を称え、このことは広く国民に知れ渡った。
三日後、ルシアン殿下は私を温室に呼び出してこう言った。
「信じる。だから留学は許可できない」
「どうして!」
「ロザリーの能力は便利だ。もっと思い出してほしい。その能力があればロザリーを闇落ちさせずに済みそうじゃないか?」
まあ、そうですよね。予知ができる人間がいたら手放さないと思う。私でも。
けれど、闇落ちに関してはどうだろう。
ここにいないこと以上の回避策があるように思えない。
「でも私の記憶は曖昧で、詳細を思い出すタイミングもよくわからないんです」
「それに関してはひとつ仮説を立てているんだ」
そう言うなり、ルシアン殿下はがばっと私を抱きしめ、耳にふうっと息を吹きかけてきた。
「ひゃあっ」
びっくりしてゾゾゾッとした瞬間、またしても挿絵が閃いた。
「廊下で聖女が転んで、ルシアン殿下が助け起こすシーンが……!」
「仮説通りだな。ロザリーをびっくりさせるのが鍵だ。この調子でどんどん予知してくれ。絶対にシナリオを変えてやる」
こうして私の退場作戦はあっけなく崩れ去り、私はルシアン殿下と「シナリオ改変」をしていくことになったのだった。
***
一年が経った頃、私は気が付いてしまった。
突然のハグ、壁ドン、キス未遂。
ルシアン殿下が繰り出すロザリンデをひっくりさせる攻撃は、最初のうちはきちんと機能していた。
ハグされるたびに心臓がドキドキして、挿絵がひらめいて、未来の情報を渡した。
「よかった、助かった」とルシアン殿下が微笑むたびに、役に立てたと思えて嬉しかった。
でも。
半年くらい経った頃から、なんとなく「本当に私のために行動しているのかな?」と思うようになってきた。
建前は、私を悪役にしない、だったけれど、どちらかといえば異母弟にして政敵である第二王子のたくらみを潰すことが目的のようだ。
第二王子テオドール殿下は闇落ちしたロザリンデに近付き、ロザリンデの復讐に何かと手を貸すもう一人の悪役だ。
けれど彼はロザリンデが闇落ちしない限りは近づいてこない。
まあ、聖女を召喚するのはテオドール殿下ではあるから、それを阻止すれば私は闇落ちせずに済むかもしれないが、本当に聖女召喚まで阻止するだろうか?
聖女はルシアン殿下の運命の人だ。
テオドール殿下がいなければ私は「ただ闇落ちした憐れな公爵令嬢」でしかない。
この世界で聖女は創世の女神の代弁者だ。公爵令嬢よりも尊ばれる。ルシアン殿下が私との婚約破棄を求めてもお父様も何も言えない。
不安なら聞けばいいだけのことだが、きっぱり否定されても本当に信じていいのかわからないし、返事にためらいが見られでもしたら最悪だ。というわけで私はこわくて何も聞けなかった。
そうこうしているうちに、私はルシアン殿下に抱きしめられても何も感じなくなった。
当然、予知もできない。
「申し訳ありません」
「ロザリーが悪いわけじゃない」
学園のカフェテリア。テーブルを挟んで向かい合い、私はハーブティーをながめながらぽつりと言った。
「少し距離を置いたほうがいいと思います。……慣れてしまったので」
ちなみに恐怖によるドキドキは効果がない。
あくまでもルシアン殿下にときめきを感じた時だけ、予知ができる。
「……近すぎて、僕にときめかなくなったと。つまりそういうことか」
「ソンナコトハナイノデスガァ……」
「君が心にもないことを言う時に棒読みになる、ということはとっくにお見通しだ。あと語尾が伸びることもな」
「い、いつの間に……」
やはり私がここにいてはだめだ。
闇落ちを回避するには、退場するのが一番なのだ。
「情報を集めることに躍起になって、ロザリーの気持ちにまで考えが及ばなかった僕が悪かった」
ルシアン殿下は少し寂しそうな笑顔を見せた。
それから間もなく、ルシアン殿下は見識を広めるために外国へ留学していった。
なんということでしょう。ヒーローが物語から退場してしまった!
これで解決! ……になるわけがないのよね……。
***
三年が過ぎた。
ルシアン殿下が退場してからこっち、私はせっせと「よい行い」に励んだ。
孤児院への慰問、災害地への救援物資集め、病が流行った地への薬代の寄付。
私にはタナカ・リナの記憶がある。だから私は高慢には振る舞わなかった。よい行いもそう。
白聖女に描かれていたロザリンデ像から遠ざかりたかったのだ。そうすれば闇落ちも悪役化もしないような気がして。
ルシアン殿下が退場したことでシナリオがどうなるのか、私には皆目見当がつかない。
ただ、現時点はまだ物語開始前なのだ。
物語は私が十八歳の春、つまり今年の春から始まる。
まだ油断はできない。
異世界に転生する物語も、タイムスリップして歴史を改変していく物語も、結局運命を変えられなかったというオチがけっこうある。変えられない中で最大限、自分の希望に近付けていくパターンが多かったように思う。
実際に異世界転生やタイムスリップの経験者が書いているとは思えないが、似たようなパターンに落ち着くのはつまりそういうことなのかな、という気がしなくもない。
私が闇落ちしてもおかしくない展開が待ち受けている可能性は高い。
だから怖かったのだ。原作通り、聖女を憎み、ルシアン殿下に憎まれるようになることが。ルシアン殿下の大切な人を傷つけることが。自分自身が闇に飲まれ不幸に落ちていくことが。
人を不幸にするために生まれ変わったなんて信じたくない。
それではあまりにも私がかわいそうだ。
別に崇められたかったわけではないが、他者に尽くしまくった結果、私の評判はうなぎのぼりになり、国王陛下から「そなたこそ天の女神が遣わした聖女!」とまで言われてしまった。
違います。本物は別にいます。
ルシアン殿下と対立している第二王子テオドール殿下側からの嫌がらせもあったが、「品がない」と陛下の不興を買ったらしく、途中からぱたりと止んだ。
闇落ちしたロザリンデはこの第二王子と結託して、聖女とルシアン殿下を追い詰めていくが、今はまだルシアン殿下の婚約者なので彼らから見た私は「敵」だったりする。
そしてその春、突如としてルシアン殿下が帰国した。
前触れもなかったので、王国は第一王子の帰国に沸いた。
私は違う。
ああやっぱり、という気持ちが胸に広がる。
今からでも外国に逃げる算段をつけなければ。聖女が現れる前ならまだ間に合う……などと考えている私を、ルシアン殿下が王宮に呼び出す。
帰国したルシアン殿下は、三年前とは別人のように大人の色気をまとった美青年に成長していた。
もともとBLを描かれていた経歴をお持ちのリュンヌ先生が描く男性キャラクターは、大人になると色気がすごいことになるのだ。原作で履修済みだったから覚悟はしていた。
でも実物を目の前にすると、いやもう本当に! 破壊力がすごい。
二次元イラストでもやばいのに、生身になったらそれはもう。
しかもルシアン殿下の声ってすごくかっこいいしね。
落ち着け心臓! これは動揺しているだけ。ときめいているわけではない。
とはいえ、もともとタナカ・リナはルシアン殿下推しなので、ときめくなというも無理な話なのである…………チョロい自分が情けない……。
「ところで、ロザリーの予知能力は健在か?」
「ルシアン殿下がいらっしゃらなかったので……」
「では試してみようか。都合よく二人きりだし」
ルシアン殿下が両腕を広げる。
抱き着け、ということだろうか。
婚約者同士ということで気をきかされたらしく、部屋には二人きり。助けてくれる人はいない。
動揺を隠しながら近づいていくと、ぎゅっと腕をひっぱられて抱きしめられた。
途端、甘く清涼感のある香水のにおいが漂ってきて私の心臓を直撃した。
ひぃぃぃぃ!
脳裏に、ルシアン殿下と聖女アデルの邂逅シーンのイラストが閃く。
「……聖女が、現れます。シナリオは変更できていないようです」
ルシアン殿下がそっと体を離して、私を覗き込む。
「未来が見えた。つまり、俺にときめいたということか」
「少しだけ」
「少しだけか」
私は数歩下がって頭を下げた。
「ルシアン殿下、私は退場を望みます。シナリオが変更できていないのなら私はあなたとあなたの大切な人を傷つけます。私はあなたに悲しい思いをさせたくない。聖女を傷つけたいとも思っていないし、テオドール殿下に利用されたくもない」
「俺は聖女には興味がない。俺の婚約者は君だ」
「だってここは、あなたと聖女のための世界だもの」
「俺にその意志がないのに?」
ルシアン殿下は一歩で私との距離を詰め、手を伸ばして私のおとがいを持ち上げ、藍色の瞳をまっすぐ向けてきた。
「小説のロザリンデは高慢で俺に疎まれていたそうだが、今の君は違う。高潔な人物だ。君がシナリオを変えた結果、俺には君を疎む理由がなくなった。そもそも最初からなかったが」
「……最初から?」
「だいたい、押し付けられた婚約者だなんて思ったことは一度もない。こんなかわいい子と結婚できるなら悪くないな、ずっと一緒にいたいから立派にならないとな、と思ったくらいだ」
藍色の瞳はまっすぐで、嘘をついているようには見えなくて。
唇が重なった。
唇はすぐに離れていった。
なぜか涙が出た。
「なぜ泣く。俺のことがそんなに嫌いか」
「違っ……これは……!」
「ほかにも何か見えたのか?」
その一言で、全部わかった。
そうか。
これは私に予知をさせるための。
試されたのだ、私は。
今のは演技!?
どこからどこまで!?
「聖女が現れる以外のものは見えていません! 私は静かに退場します! これは決定事項です! もう私の邪魔をしないで!」
私はルシアン殿下を突き飛ばし、部屋を飛び出した。
***
私の退場計画は、やはりうまくいかなかった。これは予知するまでもなく私にもわかっていたことだ。なぜなら、ルシアン殿下を突き飛ばしてから何日もしないうちに、聖女が現れたからだ。
運命のその日のことを、念のために私はルシアン殿下に伝えた。
私が知らせなくてもルシアン殿下は聖女召喚の儀式の情報をつかんでいたとは思うけれど、念のためにね。
そして聖女は今、ルシアン殿下のお屋敷にいる。
シナリオ通り、儀式に乗り込んで聖女をかっさらってきたのだ。
もう未来は定まったようなものではないかしら。
「ロザリーの話では、物語の冒頭ではまだロザリンデは聖女に対して悪意を抱いていないはずだ。どうだ?」
部屋の中にいる聖女をドアの隙間から覗きながら、ルシアン殿下が言う。
「なんの感慨もありません。イラスト通り、本当に髪の毛がピンクなんだなぁと驚きはしましたけれど」
同じように隙間から見ながら答える私。
どういう絵面なんですか、これは。
「では、ロザリーが聖女の面倒を見てやってくれ。彼女は突然知らない場所に連れてこられて不安に駆られている。誰かがそばにいたほうがいい。そしてそれは俺ではないほうがいい」
ドアから体を離してルシアン殿下が言う。
「俺はまだシナリオ改変を諦めてないから、協力してくれ」
「どうしてそこまで必死になるの?」
「君を悪役にもしたくないし、退場させたくもないからだよ」
「……私は、もういいのに」
力なく呟いた私に、俺が嫌なんだよ、とルシアン殿下が返す。
悪役になるシナリオからは逃れられないのだと落ち込んでいた私は、彼の言葉に込められた気持ちにまで意識が回らなかった。
***
聖女アデルの懐柔は難しくなかった。
親切にすればいいだけだから。
彼女が望んだので、私の曖昧な記憶からアデル自身が自覚していない聖女としての能力を引き出し、安定させる。
こういう予備知識があることが私の強みなのよね……と、しみじみと思った。
アデルは孤児ゆえに人の痛みに敏感で、人から感謝されることに喜びを見出すタイプだ。心の安定のために、仲良くなった私とともにボランティア活動に励んでもらった。
人に感謝されたアデルはみるみる聖女としての力を安定させていった。
アデルの聖女パワーは、癒しである。実に聖女らしい。
その力を隠さなかったので、あっという間に時の人だ。
そして頃合いを見て国王陛下に謁見を求め、国王陛下から本物の聖女だというお墨付きをもらい、国王陛下の庇護を得る。こうすれば誰も彼女に手を出せない。
聖女が現れたニュースは周辺諸国にも伝えられ、女神の加護がある国との争いは不利とこじれていた国際問題が解決に向かった。
正直、この世界における聖女のありがたみを私は正しく把握していなかった。
聖女、すごい。
アデルの地位はますます確固たるものになり、なぜか私がアデルの後見人に指名された。アデルたっての望みらしい。
その一方で、ルシアン殿下によって数々の不正を暴かれ、第二王子とその取り巻きが失脚した。
そして……
聖女の傍らには赤毛の青年が寄り添っている。
ルシアン殿下の側近ヒースだ。
アデル召喚から一年後。
バラの咲き誇る王宮の庭を散策している仲がよさそうな二人を、建物の二階から遠巻きに眺めながら、私は両手の親指で目頭をぐりぐりと押した。
「なんのまじないだ?」
傍らにいるルシアン殿下が不思議そうに聞く。
「疲れ目に効くんです、これ」
「ロザリーだけが強めの幻覚を見ているわけじゃないぞ。ヒースとアデルはつまり、そういうことらしい。やはりシナリオは変わっていたんだな」
自信ありげなルシアン殿下の言い方に私が首をひねると、
「ロザリーはこの世界が自分の知る物語通りになると思っていたようだし、実際に君の情報は未来を覗いてきたとしか思えないものも多かったけれど、君の登場で物語が変わり始めたことには気が付いていた」
「どういうことですか?」
「前にも言ったが、俺は君を疎ましく思ったことはない。君はロザリンデは高慢だから疎まれたと言った。でも君は高慢な振る舞いはしなかった。俺は君と出会ってから今日にいたるまで君を疎ましく思ったことがない。それで君の語るシナリオは変更できるのではと気付いた。まだ確信はなかった。聖女が現れても俺の心は動かなかったことで、確信した。君の語るシナリオは変えられる、と」
君の中のタナカ・リナはこの世界の外側からやって来た異物だ。
彼女がこの世界に飛び込むことで世界だか運命だかシナリオだかに変化が生じてもおかしくない、とルシアン殿下が語る。
私がここに転生したことで、白聖女のシナリオはすでに変わり始めていた、ということ?
「さて、邪魔者はすべて退場した。ロザリーを闇落ちさせる原因の聖女も第二王子も、もういない」
ルシアン殿下が私に向き直って不敵に笑う。
待って。
待って待って待って。
私は両手の親指を目頭から離して、頭の中を整理し始めた。
聖女アデルは現れた。でもアデルはルシアン殿下とは恋仲にならなかった。
第二王子の陣営は失脚した。私を利用しようとしていた者たちもいなくなった。
つまり、退場する理由がなくなった。
「……ルシアン殿下」
私は恐る恐るルシアン殿下を見上げた。
「どういうことですか、これは」
退場する理由がない、ということは、私は……私は……。
「このままでは私がルシアン殿下のお妃様になってしまいます!」
「もとから君は俺の婚約者だが?」
「それは、そうですが、だってルシアン殿下の運命の人は」
「シナリオは変わった。俺の運命の人は聖女ではない。……ロザリー、俺がなんのために君に誤解されつついやな思いをさせつつ情報を引き出して時間をかけ、君を追い込むものを潰してきたと思っているんだ?」
ルシアン殿下の藍色の瞳がじっと私を見つめる。
まさか。
「……私のため……?」
「もう逃げる口実はどこにもないよな」
ルシアン殿下がにーっこり笑う。
その笑顔、なんだか怖い。
「留学中の三年、俺も研究に励んだんだ。痛い思いはさせずに済むと思うぞ。実践はまだだが」
「なんの! なんの話をしているんですか!?」
真っ赤になった私を見てルシアン殿下はひとしきり笑ったあと、
「退場なんてさせるものか」
私に手を差し伸べてきた。
「俺の物語には君が必要なんだ。こっちは君に引き合わされた九歳の時から、君一筋なんだから」
ここまで言われて、彼の手をはねのけることができるだろうか。
そもそも、私が物語から退場したかったのは自分に闇落ちの危険性がついてまわっているからだ。
ルシアン殿下のことをなんとも思っていなければ、聖女が現れたところで怖くはない。退場の必要もない。そんなことは最初からわかっていた。
それでも退場したかったのは、自分が闇に飲まれる可能性があると……それもけっこう高いと……気が付いていたからだ。
だって、本当は、私も……
私はルシアン殿下の手に自分の手を重ねた。
ルシアン殿下にひっぱられて、抱き締められる。
私はおずおずと、ルシアン殿下の背中に手を回した。
それに気が付いてルシアン殿下の腕に力が入る。
「私も、ルシアン殿下のことが好きです。ずっと好きでした。だから怖かったの。あなたのそばにいることが」
声が震えている。
ごめんなさい。
私に勇気がないばかりに。
「わかっていた。そうだと思った。でも君は俺の婚約者のままだ。よかった……で、いつ実践していいかな。留学中の研究成果」
「真面目な口調で何を言うんですか!」




