8話 六分の一殿の勝鬨 — 家康死す、禅高の静かな勝利 —
元和二年四月十七日。
駿府城に、ひとつの報せが静かに落ちた。
――家康公、薨去。
その言葉は、
春の光の中で淡く揺れ、
まるで長く続いた戦国という時代の灯が
静かに消えたことを告げる鐘の音のように響いた。
禅高は、
胸の奥に言葉にならぬ空白がひとつ生まれるのを感じた。
悲嘆ではない。
しかし、確かに何かが欠けた。
家康は主君であり、
理解者であり、
そして――
禅高が“未来”を見つけるための灯でもあった。
禅高は、
家康が好んで歩いた駿府城の庭へ向かった。
竹の葉が風に揺れ、
春の光が柔らかく差し込んでいる。
その光の中に、
家康の声がふと蘇った。
――「生き残る者が、未来を作る」
それは、
これまでのどの言葉よりも深く、
禅高の胸に刻まれていた。
禅高は目を閉じた。
家康の声は、
まるで昨日のことのように鮮明だった。
六分の一殿。
かつて山名家が六十六国のうち十一国を治めた、
栄光の名。
だが禅高にとってその名は、
栄光ではなく、
重荷であり、
影であり、
そして――
生き残るための灯でもあった。
家康はその灯を、
未来へ向けて照らしてくれた。
禅高は庭の石に腰を下ろし、
静かに空を仰いだ。
「……家康公」
声は自然と漏れた。
「天下人にはなれませなんだが……
家名は存続し、
こうしてあなたより後まで生き残りましたぞ」
その言葉は、
誰に聞かせるでもなく、
ただ春の空へと溶けていった。
禅高は思い返した。
家康の揶揄。
家康の苦言。
家康の笑い。
家康の沈黙。
家康の信頼。
そして――
家康が最後に見せた、
あの静かな優しさ。
「山名よ。
お前は、
六分の一殿の残響ではない。
六分の一殿の“未来”よ」
禅高はゆっくりと立ち上がった。
春風が袂を揺らし、
破れ羽織の影が足元に伸びた。
その影は、
かつての山名家の影ではない。
禅高自身が選び、
歩んできた道の影だった。
家康がいなくなった今、
その影はもう誰にも預けられない。
自らの足で進むしかない。
しかし禅高は、
不思議と恐れを感じなかった。
家康との対話が、
胸の奥で静かに灯り続けていたからだ。
禅高は空を見上げ、
小さく、しかし確かな声で呟いた。
「六分の一殿……
ここに勝鬨を上げまする」
その声は、
風に溶け、
かつて六分の一殿が治めた十一国の空へと
静かに広がっていった。
それは、
戦場の勝鬨ではない。
名門が生き残ったという、
静かで深い勝利の声だった。
春の光が庭に満ち、
禅高の影はゆっくりと前へ伸びていった。
その影は、
山名家の未来へと続く道を
静かに指し示していた。




