7話 破れ羽織 — 忠義と記憶 —
大坂の陣が迫る中、
駿府の空気は日に日に重さを増していた。
春の陽は穏やかだが、
その奥には、
戦を知る者だけが感じ取れる鋭い緊張が潜んでいた。
その日、豊国は家康のもとへ参上した。
しかし、家康は豊国の姿を見るなり、
わずかに眉を動かした。
「山名よ。
その羽織……破れておるぞ」
豊国は静かに膝をつき、
深く頭を下げた。
「はっ。
承知の上にございます」
家康は扇子を止め、
豊国を見つめた。
「承知の上……とな。
理由を聞こう」
豊国はゆっくりと顔を上げた。
その表情には、
どこか遠い記憶を抱く者の静けさがあった。
「この羽織は、
義稙公より賜ったものにございます」
家康の目がわずかに揺れた。
豊国は続けた。
「義稙公は、
まだ若かった私の肩に手を置き、
『山名はまだ終わらぬ』と仰せでした。
その温かさを、
今も忘れておりませぬ」
春風が吹き、
庭の竹がさやさやと揺れた。
「しかし……
山名は立ち直れませなんだ。
応仁の乱の影は深く、
家臣は離れ、
領地は削られ、
ただ名だけが残りました」
豊国の声は静かだったが、
その奥には深い痛みがあった。
「破れた袖を見るたび、
失われた家臣たちの顔が浮かびます。
それでも私は、
この羽織を捨てられませなんだ。
破れようとも、
色褪せようとも、
これだけは……
山名が“かつて誰かに必要とされた証”にございます」
家康は沈黙した。
その沈黙は、
豊国の言葉を否定するものではなく、
深く受け止める者の沈黙だった。
豊国はさらに続けた。
「御前にお仕えする身として、
本来ならば新しい羽織を着るべきでございましょう。
しかし……
この羽織だけは、
どうしても手放せませぬ」
家康はゆっくりと息を吐いた。
「山名よ」
豊国は頭を下げたまま、
家康の言葉を待った。
家康は静かに言った。
「わしはな、
古い忠義を笑わぬ。
むしろ、
古い忠義を持つ者ほど、
新しい天下を支える力があると思っておる」
豊国は顔を上げた。
家康の目は、
豊国の胸の奥を見透かすように澄んでいた。
「破れ羽織を着て参ったこと、
咎めはせぬ。
それはお前の“記憶”であり、
お前の“誇り”よ」
豊国の胸に、
熱いものが込み上げてきた。
家康は続けた。
「だがな、山名よ。
その羽織を着て戦場に立つな。
それは過去のための羽織だ。
未来のための羽織は、
お前自身が選べ」
豊国は深く頭を下げた。
「御意……
肝に銘じます」
家康は満足げに頷いた。
「よい。
お前は、
古い忠義を捨てぬ男だ。
だからこそ、
新しい天下に必要なのだ。
過去を抱えた者だけが、
未来を正しく作れる」
豊国は静かに息を吸った。
破れ羽織の重さが、
これまでとは違う意味を帯びて胸に響いた。
――過去を抱えたまま、未来へ進む。
その覚悟が、
静かに形を成していくのを感じた。
春の光が差し込み、
豊国の破れ羽織の影が畳に落ちた。
その影は、
過去の忠義と未来の責務をひとつに結ぶように、
静かに伸びていた。




