6話 旗印のこと — 大坂の陣前夜 —
駿府の空気には、
春の香りの奥に、
火薬の匂いのようなものがわずかに混じっていた。
大坂の陣――
豊臣と徳川の決着が、
いよいよ避けられぬものとなっていた。
豊国は、駿府城の庭を歩く家康の背を追っていた。
家康の歩みはいつも通り静かだが、
その背中には、
天下を決する覚悟が静かに宿っていた。
家康は立ち止まり、
豊国に振り返った。
「山名よ。
旗印のこと、聞かせよ」
豊国は深く頭を下げた。
「はっ。
この度の出陣には、
“山”の字を添えた三引両を掲げる所存にございます」
家康は目を細めた。
「三引両に“山”か。
……さんざんの唱えになるぞ」
豊国は一瞬だけ息を呑んだ。
“さんざん”――
三と山で「惨々」。
戦場では忌み言葉とされる。
家康の声は、
揶揄ではなく、
試すような響きを帯びていた。
豊国はすぐに頭を下げた。
「では、
“山”の字を外し、
三引両のみを掲げます」
家康はわずかに目を見開いた。
「迷いがないな」
豊国は静かに答えた。
「旗印は、
家の誇りであると同時に、
兵の心を左右するものでございます。
不吉と見なされるものを掲げては、
士気を損ないます」
その言葉を口にした瞬間、
豊国の胸に、
かすかな痛みが走った。
“山”の字は、
山名家の象徴であり、
祖先の記憶そのものだった。
だが――
戦場では、
誇りよりも生存が先に立つ。
家康はふっと笑った。
「なるほど……
お前は“山名の誇り”より、
“兵の心”を取るか」
豊国は深く頭を下げた。
「はい。
六分の一殿の名を未来へ繋ぐためには、
まず生き残らねばなりませぬ。
誇りは、
生き残った者だけが掲げられるものにございます」
家康はその言葉に、
静かに頷いた。
「山名よ。
お前は、
名門の残響に溺れぬ男だ。
誇りを捨てるのではなく、
誇りを“使う”ことを知っておる」
豊国は胸の奥が熱くなるのを感じた。
家康は続けた。
「旗印ひとつで、
家の未来が変わることもある。
それを理解しておる者は少ない。
……お前は、
わしの軍を軽くする」
豊国は静かに答えた。
「戦場では、
旗ひとつで兵の足が止まることもございます。
ゆえに、
迷いは許されませぬ」
家康は笑った。
「それでよい。
生き残る者こそ、
未来を作る者よ」
春風が吹き、
庭の桜が舞い上がった。
家康はその花びらを眺めながら、
静かに言った。
「山名よ。
大坂の陣は、
天下の形を決める戦になる。
その中で、
お前のような男が必要だ」
豊国は深く頭を下げた。
「この豊国、
命を賭して務めます」
家康は満足げに頷いた。
「よい。
旗印は三引両とせよ。
山名の“山”は、
お前の胸の内にあればよい」
豊国は静かに目を閉じた。
その言葉は、
名門の残響を背負う者への、
家康なりの温かい配慮だった。
春の光の中で、
二人の影はゆっくりと並び、
そして前へ伸びていった。
その影は、
大坂へ向かう道を静かに指していた。




