3話 斯波の名残
駿府の書院は、春の光に満ちていた。
障子越しに差し込む陽はまだ柔らかく、
冬の冷気がわずかに残る畳の匂いと混じり合って、
静かな季節の境目を感じさせた。
家康は畳に腰を下ろし、扇子を膝に置いた。
その姿は、天下人というより、
長い歴史を見つめてきた古木のような落ち着きを湛えていた。
「山名よ。
お前に聞きたいことがある」
豊国は正座し、深く頭を下げた。
「何なりと」
家康は少しだけ目を細めた。
「斯波殿に対して、
お前はなぜあれほど慇懃なのだ」
豊国は一瞬、息を呑んだ。
斯波氏――
室町幕府の三管領。
足利氏の嫡流であり、
山名とは“源流の違う名門”である。
豊国は静かに答えた。
「斯波殿は三管領。
我が山名は四職。
室町以来の礼を尽くすのは当然にございます」
家康は扇子を軽く叩き、
小さく笑った。
「当然、か。
だがな、豊国――
斯波は足利の嫡流よ」
豊国は顔を上げた。
家康の声は、
春の光とは対照的に鋭かった。
「お前も知っていよう。
足利と新田は、
同じ源氏でも“別の流れ”だ」
豊国は頷いた。
家康は続けた。
「わしは新田の末。
お前も新田の末。
だが斯波は足利の嫡流。
なぜそこまで頭を下げる必要がある」
豊国の胸に、
静かな痛みが走った。
「……山名は、
かつて足利に敗れた家。
斯波殿に礼を尽くすのは、
山名が生き残るための作法にございます」
家康はその言葉に、
わずかに眉を動かした。
「生き残るため、か。
なるほど……
それは“山名の理”よ」
家康は扇子を閉じ、
豊国の目をまっすぐに見た。
「だがな、豊国。
お前は“新田の血”を持っておる。
足利の嫡流に、
そこまで卑屈になる必要はない」
豊国は息を呑んだ。
家康の言葉は、
豊国の胸の奥深くに届いた。
家康はさらに言葉を重ねた。
「足利は尊氏以来の嫡流よ。
だが――
わしはあの家に頭を垂れたことはない。
新田の末として、
誇りを捨てたことは一度もない」
その声音には、
家康自身の“痛み”が滲んでいた。
豊国は静かに目を伏せた。
家康は続けた。
「斯波に礼を尽くすのはよい。
だが――
その礼が“敗者の記憶”から来るならば、
それはお前の足を縛る鎖となる」
豊国の胸に、
熱いものが込み上げてきた。
家康は豊国の沈黙を見て、
さらに踏み込んだ。
「山名は応仁の乱で天下を二つに割った。
その影は今も残っておる。
だが――
その影に縛られてはならぬ」
豊国は顔を上げた。
家康の目は、
まるで豊国の心の奥底を見透かすようだった。
「山名よ。
お前は斯波に礼を尽くす。
それはよい。
だが――
その礼は“今の山名”のためであれ」
豊国は静かに問い返した。
「では……
過去の山名のためではなく」
家康は頷いた。
「そうだ。
残響に生きるのではなく、
残響を踏み台にして生きよ」
その言葉は、
豊国の胸に深く刺さった。
豊国は深く頭を下げた。
「御意……
肝に銘じます」
家康は満足げに頷いた。
「よい。
お前は、
名門の残響に溺れる男ではない。
残響を越えてゆける男よ」
豊国は胸の奥で、
何かが静かに崩れ、
そして新しく形を成すのを感じた。
家康は立ち上がり、
庭の方へ視線を向けた。
「山名よ。
お前と話すと、
新田の血が騒ぐわ」
豊国は思わず微笑んだ。
「恐れながら……
私も同じでございます」
家康は笑った。
「よい。
では、次は“六分の一殿”の話でもしようか」
豊国は深く頭を下げた。
春の光の中で、
二人の影は重なり、
そしてゆっくりと伸びていった。
まるで、
新田の二つの流れが、
再びひとつに戻ろうとするかのように。
それは、
名門の残響を背負う二人の男が、
初めて“血の対話”を交わした瞬間であった。




